ボルテックスと蜘蛛の糸
{2023.03.23の記事}
日本人には馴染み深い話
芥川龍之介の〖蜘蛛の糸〗
🔻あらすじを超簡単にまとめると🔻
地獄に陀多(かんだた)という、元大泥棒がいました。
極楽からお釈迦様が地獄を覗いてみたところ、情け心が湧き蜘蛛の糸を垂らしてあげます。
蜘蛛の糸に気付いた陀多は長い長い距離を登りますが、陀多の後を追って多くの罪人たちが一緒に登り始めます。
陀多は
「おい、罪人ども、誰に許可を得て登ってるんだ!下りろ!」
と、叫ぶと、途端にプツリと蜘蛛の糸が切れ陀多諸とも罪人たちは地獄に落ちて行きました。
一部始終見ていたお釈迦様。
そんなことあったのか無かったのか分からないままに今日も極楽は平和です。
🔺こんな内容です。🔺
一応あらすじはザックリまとめて書いておきましたが、芥川龍之介の書いたものを1度読んだ上で私のこれから書く話を読んでいただくと、このブログをより一層楽しんで頂けるかもしれません。
次に、エイブラハムの教えなどでよく登場する【ボルテックス】の説明を簡単に書きます。
・波動の現実
・願望が叶うエネルギーの渦
などと表現されていますが、超簡単にまとめると、要は
「目に見える現実世界の状態がどうであれ、関係無しに自分の心の中にある幸福感に満ちた世界にリンクし続けていれば、幸福も豊かさも得られますよ。」
と、いうものです。
その、[自分の心の中にある幸福感に満ちた世界]というのが[ボルテックス]のことです。
とてもザックリまとめたので、気になる方はググってみていただくと良いでしょう◎
この、エイブラハムが言うボルテックスが、蜘蛛の糸で言うところの極楽なんだな。
と、思いました。
・ポジティブで居られやすい人→ボルテックスに入りやすい、ボルテックスに留まりやすい
・ネガティブになりやすい人→ボルテックスに入りにくい、ボルテックスに留まりにくい
ように、私は感じます。
なので、
「地獄から極楽までは長い長い道程である。」
というのは、ネガティブになりやすい人に限った条件なのではないかと思います。
ボルテックスに入りやすいタイプの人は地獄から極楽までが近いんです。きっと。
陀多が見付けた蜘蛛の糸とは俗に言う【希望の光】なんです。
【希望の光】だけを見つめていれば良かったものを【後ろから付いてきている存在たち】にフォーカスしてしまったがために、ボルテックスに入りそびれてしまったんですね。
『可哀想に…。』と、思いつつ、私もあるあるなので分かります。
原文はもう少し違いますが、
「おい、罪人ども、誰に許可を得て登ってるんだ!下りろ!」
と陀多は叫んでいます。
この行為は、陀多自身が
・罪人
・許可を得ていない人
は、下りなければいけない
と決めていることになります。
だから、罪人であり、勝手に登り始めた陀多自身も下りなければならなくなったのです。
自分で自分を地獄に戻しちゃってるんですね。
『可哀想に…。』と、思いつつ、私もあるあるなので痛い程分かりm
原文の最後の方には、「自分だけ助かろうとした陀多をお釈迦様が浅ましく思われたのでしょう。」
のような言葉が書かれているのですが、
この解釈をしたのが誰かは分かりませんが、
私は
「その解釈間違ってるよ!!!」
と、思った訳ですよ。
[陀多が落ちる因果]を産み出したのは【陀多自身】であり、
[お釈迦様が手を下して蜘蛛の糸を切った訳ではない]
という部分を正しく理解しておいた方が良いと思うので、今回こんな風にまとめてみました。
初めから、
陀多が
自ら蜘蛛の糸を掴み
自ら登り
自ら堕ちた
んです。
お釈迦様が
陀多に蜘蛛の糸を掴ませ
陀多を登らせ
陀多を落とした
のではないのです。
いつでも、
[人間は自分が決定している]
という部分は履き違えてはいけません!
私、この"陀多(かんだた)"と、いう名前
神(かん)だった
なのではないかと思うんですよね。
陀多の陀も仏陀の陀を使っているし、どうも堕天使的な存在を表しているように思えるんですよ。
堕天使という存在は
「自由意志を持って堕天した。」
と、いう表現もされてるくらいだから、余計に
地獄に堕ちた人間の陀多=神だった
んじゃないかな…なんて。
まぁ、↑ここについては今日はそんなに大した問題じゃないので、先に進みます。
先日も
〖自分のスピリットに繋がること〗
〖自分の精神性を高めること〗
は、ベクトルが異なる話ですよ~。
と、書きましたが、今日の話も要はそれで、
『苦しみから抜け出したい。』
と
『幸福になりたい。』
の間にはちょっと距離があるかもしれません。
という話なのです。
先述した、[ボルテックスに入りやすいタイプの人]は、幸福までの距離が短い可能性があります。
[ボルテックスに入りにくいタイプの人]は、幸福までの距離が長い可能性があります。
いずれにせよ[自分がどういうタイプであるか]という点を正しく見極めてくおくことで、[どのような教えを参考にしたら良いか]ということが判断しやすくなるでしょう。
ただし、いつも言っていますが一番大切なのは、あなたがあなたを信じることです!
あなたが、あなたの人生の決定権を持っていることを忘れてはいけません!
自分のスピリットに繋がることで、ボルテックスにも入りやすくなります。
これは、地獄から極楽の距離が縮まることと同意義になります。
陀多が極楽への道半ばで下(後ろ)を振り返り、[極楽ではない存在にフォーカスをしてしまったこと]は言い換えると精神力(集中力)が足りなかったことになります。
まっすぐ極楽だけを見据えていれば、地獄に戻らずに済んだかもしれないのです。
現実世界の嫌な人や嫌な出来事に引っ張られることなく、フォーカスをすることなく、[自分の中にあるボルテックスにだけフォーカスを続けるということ]もある意味での精神修行です。
エイブラハムはそれを
「わざわざ"精神修行"とハードルを上げて捉えなくて良い。」
というスタンスなのです。
伝わってますか?
『修行だ!』と思った方が上手くできる人は修行だと思えば良いし、
『修行なんか嫌だ!』と思えば深く考えずにやれば良いだけだし、
どっちにしてもやることは同じなんです。
願望を実現さえすれば良い訳でも、
修行さえしてれば良い訳でも、
ないんですよ。
[願望(自分の幸せ)を見据えて進むこと]
が大事なんです。
「XXをして、○○が叶いましたー☆」
という他人の言葉も、自分の後ろにぶら下がる罪人と同じだし、
そもそも蜘蛛の糸が垂れてこなかったら修行は出来ません。
伝わりましたか?
本質を見極めることはとても大切なんです。
確か、この〖蜘蛛の糸〗って芥川龍之介が創作した話ではなかったはずなんですよね。
翻訳…とも少し違って、元ネタを芥川龍之介がアレンジして…
って風に仕上がってたはずです。
だから、どこの誰が
「自分だけ助かろうとした陀多をお釈迦様が浅ましく思われたのでしょう。」
という解釈を入れたのか分からないのですが、『自分だけ助かろう。』としたことが悪いのではなくて、[後ろに続いている人たちに気を取られてしまったこと]が良くなかったんです!
本当に、このミスリードは
ダメだと私は思います!
【自分の希望(蜘蛛の糸)】だけをしっかり見据えてひたすら進んでいれば、勝手に他の多くの人間も一緒に救われたんです。
ファンに媚を売らない作品、有名人の方が勝手にファンが付いてくるのと通ずるものがありますよね~。
『自分だけ助かりたい。』と、思っても良いんですよ。
その気持ちだけで、一心不乱に蜘蛛の糸を登り続ければ良かったんです。
そうすれば勝手に後ろの人々も救われたんです。
↑この部分、もっと沢山の日本人が理解する必要があります。
すんごく大事な部分です。
『自分だけ幸せになってはいけない…。』ってぐずぐずしてたら、本当に後ろに付いてきてる人間諸とも地獄に逆戻りする羽目になってしまいます。
蜘蛛の糸のお話の本質はそこなんですよ。
私、確か小学校低学年位のときに読み聞かせか何かでこの話を教えられた気がします。
曖昧な記憶ですが、子供ながらに
『え?何かこの話…違和感…。』って感じてて、まさかこんなに時を経てその違和感の正体に気付くとは!
人生って分からないものですね笑
どこにも「お釈迦様が蜘蛛の糸を切った。」
なんて書かれていないのに
"陀多がお釈迦様からお叱りを受けた"
みたいな書き方されて、お釈迦様も可哀想ですよ。
陀多が勝手に自分で堕ちただけなのに、あたかもお釈迦様がお説教したみたいになってて、お釈迦様、とんだとばっちりですよね。
お釈迦様は陀多にチャンスを与えてあげただけなのに…ね。
お釈迦様どんまいです!
『自分だけ助かりたい。』っていう欲を否定するのであれば、
『助かって極楽へ辿り着きたい。』っていう欲も否定しないといけないんですよ。
『極楽へ辿り着きたい。』という欲があるから、陀多が
『登ろう!』と決意できたという部分、大事なエッセンスなのですが、どうもこのミスリードのように
「欲はいけないもの!」
という言葉だけが先行して、拗らせてしまっている人が、日本人には特に多い気がします。
このブログを読んだ皆様には是非とも、ご自身はどう感じるか1度考えてみていただきたいです。
お釈迦様のご加護を沢山の方が受けられますように。