貧乏神様を追い祓え
いつもお読みいただきまして、ありがとうございます!
はじめましての皆様もご訪問くださいまして、ありがとうございます!
実生活においても、このnoteを見ていても、今年は仕事納まってない人が多い気がします。気のせいかな?
みんなで良い年をお迎えしたいものですね!
も~い~くつね~る~と~
お~と~し~だ~ま~♪
今年私は、世間の時間軸に興味が湧かずあまり実感が無いのですが、もうすぐ新しい年を迎えます。
そこで、今年中に貧乏神様とお別れするための記事を書きます。
とは言っても、フォロワーの皆様方を中心に、貧乏神様と縁無さそうな人が多いですけどね *⌒艸⌒
それではまずはおさらいから。
新しい年を境に【自分の頑張りが実を結ぶ人】が増えますことを祈って、今日の話をお送りします。
さて。日本昔ばなしの中には、
[貧乏神様が福の神様へと変化した]
といったようなお話がいくつかあるのをご存知ですか?
恐らく日本各地の民間伝承には、
[貧乏神様と福の神様は表裏一体である]
ということを指し示す話がいくつもあるということなのではないかと思います。
先日、私自身もそのことを実感するようなエピソードを体験しました。
ブログの移行完了が目前に迫っていたある日、何かフッと
「俺は、どんな課題でも乗り越えるお前を見てるのが好きだったんだ。」
って言い残して何かが成仏した様な感覚を得たんですよね。
この感覚を体感したときに、
『あ、貧乏神様どっか行った!』と、感じたんです。
と、言っても自分と融合してた何かの"一部"が無くなったような感覚だったので、本質的には何も変わっていないことも体感していました。
↑これはあくまで感覚のお話です。イメージ的なお話なのです。
ここから、もう少し伝わりやすい話にしていきますね。
世の中には、
【つい、頑張ってしまう人】
や
【気付かない内に無理を続けてしまう人】
など、必要以上に頑張ってしまって、不調をきたしてしまう人も少なくありませんよね。
そういった人たちに無理をさせないためにも、
「自分に厳しくするのは止めましょう。」
「自分に優しくなりましょう。」
「自分を許しましょう。」
みたいな言葉が溢れてるじゃないですか。
それで、私も当然、
『自分で自分に厳しくしないように…。』とか、
『優しく…。』
『許すように…。』って心掛けつつも、
そもそも自分に厳しくしてる自覚もそんなに無く、
そもそも自分に優しくするってどういうことか掴めず、
そもそも自分を許してるつもりのまま、
生きてきてたんですよね。
だから、私は私自身に対して厳しくしたり無理をさせてるって自覚がほとんど無かったんです。
これまでの人生では、次から次へと、現実世界や精神的な課題が自分に降りかかってくることが多かったんですよ。
その度に、
『乗り越えるしかない!』って、一生懸命生きてきてました。
どんなに難しい目の前の現実との対峙だったり、精神的な課題であっても、
『何とかしてやる!』と、食らい付いてきてたんですよ。
今になって思い返してみれば、自分が課題を乗り越える度に、[自分が納得するところまでやりきる姿]を自分で見ていて
『気持ち良いな!清々しいな!』みたいにうっすら感じてることも多かったんですよね。
だから、私にとって頑張ること=苦行
ではなくて
頑張ること=達成感を得るための過程でしかない
っていう感覚の方が強かった訳です。
(頑張り所を見誤っていなければ)
だから、頑張ることが悪いことだと思ってもなかったし、むしろ
『人生には、頑張ることが必要なタイミングって必ずあるよね。』位に思ってました。
そんな中で、私の場合、頑張っても頑張っても報われないというか、頑張った先に得られるものが[達成感だけ]みたいな人生だったんですよ。今までは。
こんな感じで、[自分に無理をさせている]
という自覚は一切無い上に
[達成する自分に喜びを感じる]
その癖
[目に見えて得られるものはほとんど無い]
っていう状態のままズルズルと生きてた訳です。
途中で、
『何で私は報われんのや…。』みたいに、考えなくもなかったんですよ。だけど
『私はきっとそーゆー星の元に生まれてしまったということや。しゃーないんやろな。』って、かなり諦めの気持ちを強く抱いたまま過ごしてたんですよね。
それが今回、【自分に次々と課題を課してきてた意識】を遂に排除できたように感じられたのです!
始めに書いた、
「俺は、どんな課題でも乗り越えるお前を見てるのが好きだったんだ。」
みたいな感覚。
『この意識こそが私を頑張らせてた元凶だったんだ!』と瞬時に解りました。
自分に憑いていた貧乏神様が去ったような感覚を感じたと書きましたが、もう少し違う表現もできます。
これまでのブログに書いてきた話の中では、[肉体の自分(遺伝子)の中のバグの解消を体感した]話題が多かったんですけど、今回、私は[魂に乗ってたバグを解消した]感覚だったのです。
いずれにせよ、
『私に無理をさせてた、頑張らせてたのは、私じゃなかったんだ!』って感覚がとても強かったんですよね。
この経験から、
『自分を頑張らせたり、無理してる意識は自分であって自分じゃないんだ!』という部分が腑に落ちました。
そうなってくると、
『あれ…?私って一体何のために頑張ってたんだろう?と、いうか頑張るって何だろう?』という気分にマインドが変わってきたのです。
そこで、冒頭におさらいした通り【苦労や努力のように、頑張っても報われない活動】
ではなく
【精進するような、成長が実になる活動】
に取り組めることの方が大切であるという感覚に変わりました。
そして、この【精進するような、成長が実になる活動】には[頑張る]という感覚が付随しないことが多いはずなのです。取り組んでいて楽しい気分の方が強いはずなのです。
注意点というか、捕捉なのですが、巷で沢山語られているように、
『幼少期、頑張っていない自分だと愛されなかったから頑張ってしまう。』
『頑張っていないと強い怒られ方をしたのがトラウマとなっていて、頑張ってしまう。』
などなど、確実に【自分の意識】が自分を頑張らせてしまっていて、[そこから抜け出さなければいけない段階]も、確かにあります。
私自身も、その段階を経験したことがありました。
だから、
『つい頑張ってしまう。』というタイプは、
『なぜ自分が頑張ってしまうのか?』という部分の元凶を突き止めることが大切です。
突き止めることができれば【実らない努力】を止めて【実る成果】を受け取りやすくなれます。
私の経験だと、確かに[自分の意識が自分を頑張らせてしまっている段階がある]のも事実で、その段階を先に超える必要があるのも間違いないようでした。
しかし、いくら幼少期のトラウマなどを手放しても手放しても[頑張ることから逃れられないとき]というのは、もしかすると
『頑張っている自分のことが好きなんじゃないか?』
という視点で自分を見つめてみると、貧乏神様の尻尾を掴めるのです。
あなたも
『頑張ってる自分が好き。』ってどこかでうっすら感じていませんか?
感じているのなら、その気持ちを自覚してみることで
『好き。』と感じているのに気付いて貰えない、気付いて貰えないから気付くまでアピールする
と、いう貧乏神様からのラブコールを断つことができるかもしれません。
もうちょっと深掘り
【貧乏神様】【魂のバグ】という風に表現してきましたが、先述した通り
自分から自分への『好き。』という気持ちが行き場を失って、拗らせた結果、報われない結果を生んでしまう訳です。
『私に無理をさせてた、頑張らせてたのは、私じゃなかったんだ!』と感じたのは事実なのですが、これは【顕在意識の私】が頑張らせていたのではなく、【潜在意識の私】が頑張らせていたことに気付いたという話なのです。
【潜在意識の私】は【顕在意識の私】に対して
『好きだよー!』と愛情を注いでいたのに【顕在意識の私】が一切気付かないから、気付いて貰えるように
【『好き。』だと言える状況】を作り続けていた
と、いう何とも迷惑健気なお話だった訳ですね。
う~ん…恋が執念に変わりやすい元凶を垣間見た気分です。
何にしても、貧乏神様という存在は、元々愛情を注ぎ続けてくれてる神様であることには間違いないってことですよね!
愛情を注ぎ続けてくれてる神様が、福の神様になれない訳がありません。
愛情をしっかりと受け取ることをできるかできないかが、貧しさの境界線だということです。
追い祓わなければいけないのは、
【受け取れない自分】
なのですよ*⌒ω⌒