自分を信じることに必要なのは勇気ではない
前々からちょこちょこ触れてきた内容ではありますが、昨日の話を踏まえて改めて、
「世の中の実験、アンケート等自分ではない人のデータに基づく結果は信じすぎるべきではありませんよ。」
と、強く伝えておこうと思いました。
例えば、自分の学校、学年において5クラス200人にアンケートを実施したとします。
この場合、1/200で自分のデータは含まれているので、
・自分と同じような意見の人が何人いて、何%を占めるのか
・自分と異なる意見はどのようなものがあるのか
・自分が属するグループの大半の意見は一体どんなものなのか
などなど、参考になるのは確かでしょう。
自分が属するグループの中で、確実に自分の意見(データ)も含まれている調査結果であれば、自分がマジョリティ側かマイノリティ側か…自分の位置付けの判断基準として参考にできます。
ところが、自分とは全く関係のないグループで実施され、自分が答えていないアンケートにおいては、自分の位置付けの判断基準にはなり得ません。
A:60% B:40%
と結果が出ている、自分が解答していないアンケートがあったとして、それを見て自分がAだと思ったとしても、同じようにアンケートに"参加していない"1,000 がBである可能性もあり、A、B、それぞれマジョリティ、マイノリティが入れ替わる結果になることも十分にあり得るからです。
人間は、空腹かどうかというたったそれだけでもかなり気分や機嫌も変わりますし、気分や機嫌が変われば解答内容にも影響を及ぼします。
・日本人100人で解答したアンケート
・韓国人100人で解答したアンケート
文化の差から、結果の至る箇所に差が生まれるのは想像できますよね。
・日本人女性100人で解答したアンケート
・日本人男性100人で解答したアンケート
これらの結果も差が生まれるでしょう。
【どんな人が】
【どんな状況下で】
【いつ】
【何故】
解答したのか?
↑こういう、アンケートの背景がハッキリしていないデータは確実に
【解答した人たちの結果】
が、即ち自分や他の、アンケートに"参加していない"人たちの【代表】にはならないのです。
あくまで
【解答した人たち】
という、偏った一部の人間の意見、結果であるということを頭に置いておく必要があります。
実験結果なんかも同様です。
「○○大学の□□教授が行った実験では………」
この手の類いの話は外国で行われた実験が非常に多く、実験に参加しているのも外国人である場合がほとんどですよね。
外国人の反応が我々日本人にも当てはまるのか、という点は特に疑ってかかった方が良いでしょう。我々日本人の文化、人間性、考え方というのは、なかなか特殊で、外国人と同じ反応を示す可能性の方が低い、位に考えておいて良いはずです。
細かいことを言えば、
・日本を出た経験が一切無く、外国人と会話をした経験もほとんどない人間
・外国で何年も暮らし、その国以外の人ともコミュニケーションを沢山取ってる人
両者の反応、行動すらもかなり差が生まれると思いませんか?たとえ同じ日本人だったとしても、同じ結果が出るとは、言いきれないのではないでしょうか。
【実験結果】も、人類全ての【代表の結果】ではない可能性の方が高いということを頭の片隅に置いておくことが大事です。
昨日書いた内容の、
「今、何時ですか?」
と時計を確認させ、時刻に集中させるとその他の情報が意識に入って来ずに、確認した時計のデザインを上手く答えられない
という実験。
これも、皮肉なことに、
「人間は自分にとって都合の良い情報しか見ない。」
ということを立証するための実験なので、実験の実施者にとって都合の良い結果しか提出されていないだけかもしれません。
実施者には不都合である【仮説に当てはまらない結果】というものが見えなかっただけなのかもしれません。
もしかすると、RASなんてそもそも存在しない可能性も十分にあり得る訳です。
「この前、△△で行った実験において、◇◇な結果が出ました。」
と、いう話を聞いて、
『ふむふむ。』
と、面白がる分にはまだ問題はほぼ無いでしょう。
ところが、
「X年、▲▲で行った実験において、◆◆な結果が出ました。この結果を元に、★★を実施することに取り決め、今日でも続いています。」
と、いう風に、信憑性が定かではないものの上に積み上がった文化の上に生きるというのは、なかなか危険な部分も出てきます。
昨日の記事で私は
「もしかしたら、私や他にも一部の人はRASの機能が弱いのかもしれない。」
と書きましたが、私がネットでちょこちょこ調べていた限りでは
「全ての人間にはRASが備わっていて…」
という体で書かれた記事ばかりでした。
[全ての人間にRASが備わっていて当たり前]
という前提の元、
【実はRASがほとんど機能していないのに、それを知らずに、自分にもRASが強く働いていると思い込んでいる人】
が、
【RASを上手く活用するためのコーチング】
なんかを受講したとしたら…どうなると思いますか?その結果って、良い方向に進むでしょうか?
もし、上手くいかなかった場合、
[全ての人間にRASが備わっていて当たり前]
という前提を崩さない限り上手くいかない原因は見付け出せませんが、その"前提を崩す"という概念すら思い浮かばなければ、かなり遠回りしたまま過ごす羽目になってしまいます。
そういうの、私は良くないと思っていて、だから
「世の中のアンケートや実験の類いは信憑性に欠けるから、それらの結果の上に積み上がってる文化には、注意してみた方が良いかもしれませんよ。」
と、いう話を書いておこうと思った訳です。
まぁ極端に恐れる必要もありませんが、世の中では多くのアンケート結果や実験結果に対して、あたかもそれらが真実かのように扱われている場面ばかりなので、少し気にしてみると良いんじゃないかなぁと思います。
アンケートにしろ実験にしろ、結果が事実かもしれません。たまたま出ただけという誤った結果かもしれません。
これこそ、シュレディンガーの猫のように、実施条件を紐解いて分析してみなければ、その結果が事実なのか誤りなのかは判断できない。←こういうものだと、一歩引いた価値観で捉えておくと、下手に踊らされて悩まされ続けるなんてことにはならないはずです。
また、
『何だか、上手くいかないなぁ?』
『どうも、生きづらいなぁ?』
『どうしてもわだかまりを感じることがあるなぁ?』
など、モヤモヤしたものを感じたときは、
『これまで、こんな風に教えられて、その通りにやってきてたけど、はたしてその教えは自分にとって正しいのか?』
と、いう風に、他者からの刷り込みを疑ってみることもときに必要であると思っておくと良いでしょう。
とは言っても、かなり小さい頃に教えられた事柄、習慣などは、自分の無意識レベルに定着してる場合も多いので、
『違和感の原因を突き止めるぞ!』
と取り組んですぐに見付かるものでもないという点も止めておくことも必要です。
『自分の凝り固まった意識を柔軟に戻して心の中の詰まりをほどくには、少々手間がかかる。』
と認識しておけば焦らずに、自分にとって適切なペース、形で取り組めるはずなので、何事も一つ一つ、紐解いて考え直してみることは誰にでも可能なのです。
先日別の記事にて、
「私たちは"自分にとっての"幸せに気付くことが大事なのです。」
という内容の話を書きました。
その、【"自分にとっての"幸せ】に気付く上では【"自分にとって"不要な価値観、考え方】を先に手放すのが重要であるということを強く実感したのが昨日の記事の内容でした。しかも、昨日の記事のように、【私が手放すべき価値観、考え方】のはずなのに、私が心のどこかにそれを抱えているということすら盲点に入ってしまってました。
この点の教訓を活かし、上手く【不要になった価値観、考え方】を断捨離しやすくなる話をまとめておこうと思い、この話を書きました。
まずは、
『世の中にあるデータ、情報は、"自分にとっては"真実とは限りません。』
という大前提を柔軟に受け止めておくことで自分の意識も柔軟にしやすいかと思うので、必要な人は参考にしてみてください。
私自身も、今回の気付きを教訓に、今後何かに引っ掛かったときは、意識の断捨離を検討してみられるよう、柔軟性を高めていこうと思います。
"自分にとっての"確固たる真実に出会うと、自ら
『自分を信じるぞ!』
と、気合いを入れずとも
『自分の感覚こそが正解だ。』
と実感が湧くものです。
『そうだ、自分の感覚が正解だと感じている自分が本当の自分だった、忘れてた!』
などのように
[当たり前に戻ること]
こそが、自信を取り戻したということでもある訳です。
人生では様々なフェーズがあり、
『自分に自信を持つぞ!』
と、取り組み、自分の創意工夫によって自信を身に付ける経験が必要な場面も当然あるのですが、このように"自分にとっての"真実をしっかり見出した時点で、勝手に【自信のある自分】になるタイミングが訪れることもあります。
"自分にとっての"真実に出会うために重要となるのは、意識、思考の柔軟性、それまでの自分とは別の自分を受け入れる寛大な心、許容力でもあるということです。
固い意識をほぐしてみませんか?
ときには貫くことよりもしなる方が、揺るぎない自分に近付くかもしれません。
ちなみに…
先日
「よし!私は人生をリセットしてやるぞ!」
と、強く意識し始めてから、上手くポンポンと自分が気付くべきこと、深めるべき学びが自分に降りてきていて、まとめておきたいことが渋滞しています。
が、こうしてブログにまとめるのもなかなか一筋縄ではいかない部分も多く、1つの記事でどこからどこまでまとめておこうか難儀している節もあるのです。
そんな中、本文中の内容と被るようで全然違う話のようで、結構併せて大切だと思った部分の話。
「人生をリセットするぞー!!!」
と、強く意識しはじめてからというもの、自分の持ち物の断捨離スイッチも少し入っていて、決意を固めてすぐに卒アルを捨て、先日は過去にハマっていた趣味の物を中心に、結構整理して捨てました。
こうして、物理的に物を捨てたことで、また要らない思い込みすらも捨てられたような感覚もあれば、逆に、思い込みを外せたから物理的に物を捨てることができるようになったような気もしていて、やっぱり私にはどちらなのかは判断がつきません。
まぁ、恐らく両方なのだとも思うし、どちらでも構わないというのが事実なのでしょうが、
・自分の精神
・自分の持ち物
の質や量には密接な関連性がある、という点も改めて深く実感しました。この話を読んでいる皆さんも、この部分を気に止めておくととても良いのではないかと思います。
自分が持ってる洋服、ワードローブでイメージして貰うと伝わりやすいかと思うのですが、自分のクローゼット、箪笥の中から
『明日何着ようかなぁ???』
『今日何着ようかなぁ???』
と、日々思案したりしますよね。
ですが、別に
[自分が持ってるワードローブの中から今日着る服を選ばなくてはならない]
というルールも実は無くて、適当に引っ付かんだ服を着たまま出掛け、出先で新しく買った服をその場で着用し、そのまま1日を過ごしたって良いのです。
【出掛け先で出会った服】
も、選択肢の中に加わっていた方が、私たちが今から選ぼうとする選択肢の幅は広いじゃないですか。
そんな風に、
【まだ自分が所持していない服】
も選択肢に加えようとした場合、クローゼットや箪笥の中身が少ない方が、
『よし!今日は新しい服を着よう!』
という発想に至りやすいんですよね。クローゼットや箪笥がパンパンだと、どうしてもその中から選びたくなってしまうのが人間の性なのです。
『既にパンパンなのに、これ以上新しい服なんて取り入れたくないよ。』
と、感じてしまいやすいものです。
クローゼットや箪笥にゆとりがあるということは、
[新しい服を選択肢に加える余地も持っていること]
になるし、
クローゼットや箪笥にゆとりが無いということは
[新しい服を選択肢に加える余地を持っていないこと]
になるのです。
余白、空間とは自分の【新しい可能性】なのです。
当然、【新しい可能性】というものは、
『何が起こるか分からない。』
『何に出会うか分からない。』
出会ってみてその場のテンションで対峙する必要があるので、自分の精神、意識が柔軟である必要もあるのです。
心がしなやかであることで、【新しい可能性】を楽しめるようになる訳です。心がしなやかでない場合での【新しい可能性】など、恐怖やストレスの対象になるのが関の山なのです。
折角【新しい可能性】を沢山所持しているのであれば、精神面も併せてしなやかに保っておくことで、豊富な可能性を楽しみとして享受できるようになる、このことを理解しておくと、本当に人生の豊かさの幅は広がります。
自分に自信がある状態というものにも、いくつも種類やフェーズがあると私は感じているのですが、
『まぁ、自分は【新しい可能性】に対峙してもその場その場で対応できるからな。』
という認識で、"自分を理解している感覚"でいることも、自信がある状態とも言えると思っていて、今日の話で伝えたいのはここなんですよ。
『何が起きても、自分はノリとテンションでイケるから~。』
と、いう感覚。この感覚を持っている自分になるためには、柔軟性が非常に鍵となるのです。
その、柔軟性を保つには、【余白】や【空間】を所持していることもとても大事な要素で、持ち物の定期的な見直しは、廻り廻って自分の自信を補助してくれることでもある、と、因果性のジレンマのようなお話でした。
ちょっと、意識を広げてみたくなったでしょ?
自分が何にも属してないことは、恐怖ではなく、楽しさなのだと、感じられる人が1人でも増えますように。