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iyasi-logy 癒やし学 始めます
生来の虚弱体質。
「ソレを半世紀もやってきたんだ!」と感慨深く想うこの頃。
最近も 鍼灸師の友人から、「寝たきりの患者より脈が弱い」 と太鼓判を押された。
振り返れば、子ども時代から何かで寝込んでいるか、友達の元気に遊ぶ動きを見て不思議がっているか、ぼんやり遠くを眺めているか、本を読んでいるか。段々大人に近づくにつれ、不調との折り合いや、ひどくならないうちに手を打つ、無理しないという知恵と工夫を身に着けてきた。
一年を通すと、寒がりなのに、春が一等苦手で、それは生き物という生き物がワーッと一斉にスタートダッシュする勢いにやられそうだったから。大好きな秋は、ああ、これで自分と周りの生き物たちのテンションが無理なく合うな、とホッとする。50回の四季を経験してわかったのは、自身の身の内の気の勢いが弱いせいだな、ということ。気の存在を体感できる体質なので、そのこともここで考察したいテーマだ。
五十路に差し掛かると、かの有名な更年期なるものがやって来た。新たな敵?との新しいお付き合い方法を探ることになった。最近どうにか卒業できた五十肩には、両肩トータル三年半の修行が必要だった。本当に痛かった。長かった。わたくし的に言わせてもらえば、出産より大変だった。巷によく聞くホットフラッシュもあるにはあったが、私の更年期は五十肩に特化&凝縮していた。女性外来の主治医は、「肩が痛いと感じてるだろうけれど、脳が痛さを認知しているのよ」と、脳内物質の変化についてレクチャーしてくれた。納得とともに人体の不思議をまじまじと感じた。これはまた、ジックリとまとめたい実体験。
そして、その間本当に何にもできなかったので、仕方なしに神社巡りをしていた。包丁は使えないので、便利な調理ハサミを使って食材を切ったり、タオルを絞ることもできないから、拭き掃除はワイパーなどに変えた。物は両手で持てない。自分の服の脱ぎ着でさえも以前の三倍くらいの時間を要する。あの頃どうにか自分のことを自分でするのに苦労し、最低限の家事をこなすことと痛みとで頭はいっぱいだった。痛いと脳のスペックがガタ落ちになり、ほかの機能も容量がなくなっていると感じた。新しいことにはもちろん手は出せず、これまで何の苦もなくできていたものもドンドン削っていくしかない。
いろんな治療にチャレンジするもさして効果が出ないなか、なぜだか神社に行くと全身の気が巡り、楽になることに気が付いた。そこから友人たちと、時には一人でバスツアーに紛れ込んで彼方此方のお社を巡ることに。ただ、わたくしは神社に着いても治してというお願いをしなかった。お邪魔します、とご挨拶はするのだけれど、心のどこかで治るためにはお願いでは無理だな、と根拠のない確信があったから。
お社のエリアに身を置くと、スッキリと軽く、気が巡る。イヤシロチの気を浴びて神社ツアーから戻ると、確かに体調は良くなった。肩痛も右から左にスイッチしながらも、段々と薄れていき、漢方の処方も必要なくなった。主治医が実家にUターンなさるタイミングとほぼ完治がそろったのも不思議な巡り合わせ。今考えると、神社に強制的に喚ばれていたというような3年半だった。私にとっての神社は、気の癒やし場。それも考察を深めたい大切なテーマ。
そんな私に「iyasi-logy 癒やし学」というワードが降りてきた。五十路を迎えて還暦に向かう今。いい大人になったのだから、「自分で自分を癒やす」。自分の心身のご機嫌をうまいこと窺えるように。
そのためのアレコレをこれまで一つ一つ拾って歩いてきたのかもしれない。極めて私的な癒やしの知恵と工夫と体験のアレコレをここに記していきたいと思う。
iyasi-logy 癒やし学 今日此処から始めます。