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磐座(いわくら) イイ・ヤシロ・チ④

大地にその一部が埋まっていたり、山頂などで突き出ている大きな岩、神様が乗ってきた船、空から降ってきた隕石、人が配列した環状の石群などなど。それらをイワクラと呼んで、古神道(自然崇拝。神が自然の全てに遍在しているとする。宇宙の何もかもが神と共にあるとする思想)の原型のひとつ。わたくしはとにかくイワクラに惹かれる。

それはわたくしに限らず、やはり日本人の遺伝子に何か訴求するものがあるようだ。最近では、鬼滅ブームで漫画のシーンに出てくる剣で斬られた?イワクラがあるとされる神社のツアーまで企画されているそうな。

お社巡りを始めた頃は社殿建築の芸術性に目が向いたわたくしも、神社近辺に古くから在り、縄文の人の子も心を寄せたであろう、イワクラを、段々と追い求めるようになっていった。聖処はイワクラの力に與ることがおおい。イワクラある処は、気も優れていると感じる。

随分前になるけれど、わたくしは、ある神社の神事で神社の後方のお山の中のイワクラにお参りする祭事に参列したことがある。お弁当持参で一般人も参加可能のハイキングめいたオープンなものだったが、イワクラ群は素晴らしく、あるエリアに一歩足を踏み入れた途端、空気が変わるのがはっきり分かるほどだった。そこから数十分あちこち立ち寄りながら目指すイワクラに到着。神事の準備が氏子の皆様方によって手際よく為される。

一般人は並んで、イワクラを前に宮司さんが祝詞を奏上される後方に参列する。その時、わたくしは不思議な現象を目撃したのである。

山の上の限られた空間であるために、わたくしは何故か他の参列者のように宮司さんの後ろに整列できず、たまたま斜め横に立っていた。祝詞が始まった途端、奇妙な出来事が起こった。神の依代である大幣(ハタキのような形状のもの)の一本の紙垂だけが、まるで磁石に引っ張られるように、磐座に向かって水平に伸びてそのままビーッと停止した。

あまりにもおかしいので、コレは現実か?と頭の中は混乱して、緊張しながらその幣を凝視した。そして、祝詞が終わったとたん、紙垂は、何事も無かったかのように、ストンとほかの紙垂と同じように下に向いておさまったのである。まるで、大幣に降臨された神様が、祝詞のエネルギーでイワクラと交信していたかのようだった。たまたま「それ」を見る角度に立っていたわたくしは、神事の最中声も出せずに思いもよらず、目撃者になったのだ。たぶん、宮司さんからも見えなかったはずである。見てもよかったのだろうか?とフトそんな小さな畏れが胸にわいた。

イワクラって何だろう?祝詞の音霊か言霊が磐座へ移動したのだろうか、イワクラと何かのエネルギーをやり取りしているのか?一体どういう仕組みなのだろう?誰か教えてほしいが、祝詞を奏上された宮司さんに質問できなかった。見てはならないものを見たかもしれないわたくしには。

そのお山の神社には龍神が祀られていて、麓の神社の神門のしめ縄もどう見ても龍の形をしているので、龍神系であることは間違いない。龍神とイワクラには何かしら繋がりがあるのかないのか。発問は尽きない。

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この他にも別のときところで、イワクラの前で遭遇した不思議体験は多くある。イワクラは、海外の聖地のように岩に何かしら刻み込むことはない。ただそのままの古からの自然の姿で、人の子の崇敬を集め、その前で唱える祈りや賛辞を受け止めてきた。

とは言うものの、わたくしにとって、不思議との遭遇は実はプラスアルファのものだ。ただ、気の遠くなるような永い時間、その前に立った数多の人の子が発した様々な想いが、イワクラにデータファイルされているのかもしれない、などと夢想する。

自然の大きな力に跪き、頭を垂れる時、謙虚な存在であり続けることの意味を忘れない為にイワクラが其処にあるのかも知れないと思うのだ。

濃厚なご神気が溢れていた夏至の斎場御嶽を訪れた時の記憶がふと励起される。神女の方々が其処で真摯に祈る姿は神々しかった。このような神と人の子の真剣な結びつきこそ、自然の理に沿って生きる人間の美しさを最大限に輝かせるのではないかと。

きちんとしたしきたりも知らないわたくしも、自然のなかで命を分けていただき、この一瞬の時を生かされている喜びと感謝を捧げて少しでも命の光を輝かせたい。目指すは遠いが、心地公明。






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