「和合の子」ガルシア=マルケス
3月6日はコロンビアの文豪ガブリエル・ガルシア=マルケスの誕生日だ。以前読んでいた彼の自伝『生きて、語り伝える Vivir, para contarla』の第1章は、その誕生の秘話で締め括られていて、それが印象的だったのでハイライトした。
(Márquez, Gabriel García. Vivir para contarla (Spanish Edition) . Penguin Random House Grupo Editorial España. Kindle 版)
拙訳:
このようにして、そしてそこで、7人兄弟と4人姉妹の長男が生まれたのだ。1927年3月6日午前9時。季節外れの激しいにわか雨が降っていて、地平線には牡牛座の空が見えていた。
(赤子を取り上げた助産師)ミシア・フアナ・デ・フレイテスは、第3の名を提案した。その名は、総合的な和解(reconciliación general)を記憶するために提案された。私が誕生することで、(母親側の)家族と(父親側の)友人たちとの間に結ばれる和解だ。しかし、3年後に発行された私の洗礼証明書には、なんとこの第3の名が抜けていた……我が名は、ガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディア。
彼の本名は、ガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディア・ガルシア=マルケス。第1の名「ガブリエル」は父ガブリエル・エリヒオ=ガルシアから、第2の名「ホセ」は3月かつ彼の出生地アラカタカの守護聖人ホセ(ヨセフ)に因んでいる。そしてこの章の末尾で言及されている「証明書に抜けていた」「和解を示す」第3の名が「デ・ラ・コンコルディア」だ。concordiaは、スペイン語でそのまま「協調」や「和合」を示す単語だ。つまり赤子は、敵対していた父側と母側の一族を繋ぐ「和」となるよう期待を込めて名付けられた。
両親の分断には政治的な背景がある。母側の祖父ニコラス・マルケスはリベラル派の元軍人。彼は、ガルシア=マルケスの父と自分の娘が結婚するのを猛烈に反対していた。理由はコロンビア保守党に、作家の父ガブリエル・エリヒオが所属していたからだ。政治上の理由で結婚は危ぶまれた。
それでも恋の文通を密かに交わし続けたことで、軍人の娘と敵対政党の青年はついに結婚する。まもなく産まれた嫡男は、和合の子として一族の皆から可愛がられ、その後両親は10人の兄弟姉妹を授かった。
ガルシア=マルケスの文章には、自らを産んだ一族への意識が頻繁に顕出する。その意識は、特に、祖父ニコラス・マルケスへと向かう。軍の人間だった祖父には血塗られた過去がある。1928年つまりガルシア=マルケスが産まれてまもなく起こった、バナナ農園の労働者虐殺への加担だ。低賃金労働に憤ってストを起こした労働者たちをコロンビア軍がマシンガンで大量虐殺した事件である。この一事実が代表するような一族の過去をガルシア=マルケスが意識に抱く時、もっとも露骨な単語として「remordimiento 良心の呵責」を使う。『百年の孤独』にも上に引用した『生きて、語り伝える』にも頻出する単語だ(おそらく他の作品でも見つかると想像できる)。例えば、
Márquez, Gabriel García. Cien años de soledad (Spanish Edition) (Kindle の位置No.279-280). Penguin Random House Grupo Editorial España. Kindle 版.
拙訳:
それは単に息抜きの手段だった。なぜなら実際には、愛よりも固いもので、彼らは死ぬまで結ばれていたからだ。ある共通の良心の呵責という意識である(※もっとも、ここで示唆される罪は殺人ではなく近親相姦である)。
『百年の孤独』のブエンディーア一族を結ぶものは、愛ではなく「良心の呵責」。創造の原点には、作家自身を「和解者」と命名した家族への意識が偏在している。
中南米ではなくコロンビア、コロンビアではなくカリブ沿岸、カリブ沿岸ではなくアラカタカとそこに生きていた一族、と、視点を作家個人の出生へと向けていくこと。これが彼の作品を読むにあたって重要な点だろう。そしてなぜ、彼が常に、自らは作家(escritor)ではなく新聞記者(periodista)で、中南米人(latinoaméricano)ではなくコロンビア人(colombiano)であると主張していたのか、一族への意識と無関係ではないだろう。「新聞記者の目で自らのルーツを見つめる」という態度を考慮してこそ、彼の作品理解が深まるのではないだろうか。
彼の誕生日である今日、rtveで流れていたインタビュー動画を聴いていたら、作家はこんなことを言っていた。
拙訳:
(フランス人たちは)私が現実主義の作家であることが信じられない。私が示せることは、私の本の、一行一行の、全ての背後には、現実で起こったもの、現実から発した点がある。