#013 集合と限界
「ダンバー数・150」
人間同士が安定的な関係を維持できるような集団を形成する時、
その人数には認知的な上限があるという。
その呼び名や数値自体自体にはあまり意味はないと思う。
安定的という定義も、実はあやふやだ。
それでも、確かに、
人が集団の中で「自分以外の存在」を認識するには、
一定の上限があるのは間違いないだろうとも思う。
人は自分以外の存在と接触する時に、言葉を用いる。
なぜなら、言葉は自分の意思を伝達してくれると思えるからだ。
でも、自分の意思を乗せて届けた言葉を、
相手がその意思の通りに受け取っているかどうかは、
どうやってわかるのだろう?
それは、きっと、わからない。わかりようが、ない。
だから人は、
言葉のほかにあらゆる手段を駆使して、
意思を伝える。
身振り、手振り、眼差し、声色。
もしかすると匂いすら発しているかもしれない。
そう、これが対話。コミュニケーション。
人と人が意思を伝え合うのは、こんなにもマルチモーダルなのだ。
でも、これだけ伝達手段を増やしたとしても、それでも相手がその意思の通りに受け取っているかどうかは、実はわからない。
そう、言葉だけのときと変わらず、わかりようが、ないのだ。
試しに、伝達する意思を「情報量」と捉えてみる。
それを定量的に計測したとしよう。
その計測結果は、容易に想像がつく。
そう、言葉だけでも、マルチモーダルであっても、情報量としては大差ない。
なぜなら、意思とはそもそもが定量的に測れる"モノ"ではないから。
意思とは、送る側と受ける側の双方が共鳴することで感じられる"コト"だから。
共鳴するって、すごく難しいコト。
なぜなら、確かめようがないから。
双方向で感じることだから。
双方向で感じるときは、双方向に信じている時。
信じるということは、その背景に「知らないこともありうる」ことを包含している。
この「わからないことがある」という不安定な状態を受け入れることができる、
きっとそれが、想いの濃度、信頼の強度。
その濃淡や強弱はグラデーション。
ぽとんぽとんと、心の水面に落ちる一雫が織りなす波紋のよう。
つねにゆらゆらと漂い、固定化されるモノではない。
こんな曖昧なもの、一言で表現することなんてできない。
だからぼくたちは、あらゆる感覚器官を総動員する。
目で見て、手で触れて、その表情を、仕草を、体温を、息づかいを、感じようとするのだ。
そうやってようやく、
双方向に感じることができている、
と思うことができる可能性が
起こりうるのだ。
そう、
ここまでしても、やっぱり意思の伝達の確実性は担保されないのだ。
そんな不安定な関係というのが、人間同士の関わりなのだ。
ただでさえこんなにも不安定なのだから、
それが集団になったらさらに大変だ。
だって、人は一様ではないから。
人と人の関わりごとに、ゆらゆらと漂う水面があるのだから。
だから、人は。
相手を見る。言葉を聞き、目を見て、声を聞いて、
その場の情態を五感で感じ取る。
感じとった情態を五感で表現しあう。
そうして、微妙にずれている部分を擦り合わせていく。
そんなふうにお互いの波紋を重ね合わせていくのが対話。
そして、それができる限界がダンバー数なんだと思う。
テキストが電子の海を泳ぎ回るようになって久しい。
今や人の手にすっかりと馴染んだ四角い平な電子板には、
いつでもどこでもそんなテキストを呼び出すことができる。
いま、その人が綴ったテキストでなくても。
ここに、その人がいなくても。
それでもテキストは色褪せることなく相手の元に届く。
色褪せることがないから、
その届けられた情報は正確な情報だと感じてしまいそうになるけれども、
色褪せることはないのはテキストだけで、
そこには、眼差しも、手触りも、体温も、声も、ない。
見方を変えれば、
眼差しも、手触りも、体温も、声もないからこそ、
テキストは自由に電子の海を泳ぐことができるとも言える。
時間の制約も、場所の制約もないからこそ、
物理的な制限のある集団数を超えて人との関わりを持つことができるとも言える。
正解も間違いも、ない。
でも、
物理的な限界があるということは、とても愛おしいことだと、思う。
リミッターを外すことで、世界は広がるかもしれない。
でも、あまりにも早く広く移動してしまうと、
過ぎゆく景色がどんなだったか忘れちゃうかもしれない。
交わし合う意思がどんなだったか忘れちゃうかもしれない。
正解も間違いも、ないけれども。
やっぱり、
人が関わる集合に限界があるということは、とても愛おしいことだと、思う。
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