【独自調査】2023年が生誕150周年のロシアの作曲家ラフマニノフの人気曲10選
2023年は、ロシアのロマン派を代表する作曲家セルゲイ・ラフマニノフの生誕150周年、没後80周年のメモリアルイヤーです。今回はラフマニノフの楽曲の中でも特に人気の高い10曲を厳選してご紹介します。
セルゲイ・ラフマニノフとは(1873-1943)
セルゲイ・ラフマニノフは、1873年にロシアのノブゴロド近郊の没落貴族の家庭に生まれ,ペテルブルグとモスクワの音楽院に学ぶ。
1917年のロシア革命後ストックホルムを経て渡米し,以後は欧米各地でピアノのビルトゥオーソ,指揮者として活動。晩年にはスターリンからじきじきの帰国要請もあったが,故国には再び戻ることなく米国に没した。
チャイコフスキー,ショパン,F.リストに私淑して生涯調性の枠を守り,濃密なロマンティシズムの漂う名曲を残している。
①ピアノ協奏曲第2番 op.18|ラフマニノフ28歳(1900年)の作品
作曲時期は、1900年秋から1901年4月。
その屈指の美しさによって、協奏曲作家としての名声を打ち立てたラフマニノフの出世作である。発表以来、あらゆる時代を通じて常に最も人気のあるピアノ協奏曲のひとつであり、ロシアのロマン派音楽を代表する曲の一つに数えられている。
本作品の成功は、交響曲第1番での批評家の酷評がきっかけで数年間にわたり悩まされ続けたうつ病とスランプを抜け出す糸口となった。作品は、ラフマニノフの自信回復のためにあらゆる手を尽くしたニコライ・ダーリ博士に献呈された。
②交響曲第2番 op.27|ラフマニノフ34歳(1907年)の作品
1906年10月から1907年4月にかけて作曲され、1908年1月26日に、ペテルブルクのマリインスキー劇場で、作曲者ラフマニノフ自身の指揮により初演された。
ピアノ協奏曲第2番が大きな成功を収め、1904年にはこの作品によりグリンカ賞と賞金1000ルーブルを授与された。私生活の上でも1902年にナターリヤと結婚、翌年には長女を、1907年には次女を授かった。交響曲第2番はこのようにラフマニノフが公私ともに充実した日々を過ごしていた時期の作品である。
演奏は大成功を収め、初演から10か月後に2度目のグリンカ賞を授けられた。
③ピアノ協奏曲第3番 op.30|ラフマニノフ36歳(1909年)の作品
1909年の夏に作曲され、同年11月にニューヨークで初演された。ピアノ協奏曲第2番と同様に、ラフマニノフの代表作のひとつであり、演奏者に課せられる技術的、音楽的要求の高さで有名な作品である。
この曲がより広く演奏されるようになったのは、1958年に開催された第1回チャイコフスキー国際コンクールで、ピアノ部門で第1位となったヴァン・クライバーンが本選でこの曲を演奏したことがきっかけだった。
このコンクールでのクライバーンの活躍により、この作品のみならずラフマニノフ作品全般はクラシック音楽のトレンドとなったといえる。
④パガニーニの主題による狂詩曲 op.43|ラフマニノフ61歳(1934年)の作品
ロシア革命の混乱の最中に母国を離れたラフマニノフは、帰国することもかなわずアメリカ合衆国でピアニストとしての生活を送るようになった。
彼はアメリカでピアニストとしての名声を獲得する反面、演奏家活動に多くの時間が割かれることとなった。加えてロシアを離れたことで母国を喪失したという思いも強く、想像力の枯渇を感じるなどして作曲にはなかなか取り組めなかった。
そんな中、1931年に夏の休暇を過ごすためにスイスのルツェルン湖畔に建てた別荘で1934年6月3日に作曲を開始し、同年8月18日に仕上げられたのがこの曲である。
主題と24の変奏から成る。主題は、パガニーニのヴァイオリン曲『24の奇想曲』第24番「主題と変奏」の「主題」を用いている。すなわち、パガニーニと同じ主題を使って別の変奏を試みているのである。
⑤ヴォカリーズ Op.34-14|ラフマニノフ42歳(1915年)の作品
歌詞のないヴォカリーズで歌われる旋律と、淡々と和音と対旋律とを奏でていくピアノの伴奏が印象的である。ロシア語の制約を受けないためもあって、ラフマニノフの数多ある歌曲の中でも、最もよく知られた曲となっている。
1916年にアントニーナ・ネジダーノヴァのソプラノ、ラフマニノフのピアノ伴奏により初演され、成功を収めた。初演が行われた後、ラフマニノフはフォン・ストルーヴェからの提案を受けて、『ヴォカリーズ』を管弦楽用に編曲した。
作曲者自身による管弦楽版をはじめとしてさまざまな楽器のために編曲され広く演奏されており、およそ編曲対象になっていない楽器がないのではないかと思わせるほど、多様な編曲が行われている。
⑥ショパンの主題による変奏曲 Op.22|ラフマニノフ30歳(1903年)の作品
1902年から1903年にかけて作曲され、1903年に出版されて同年2月にラフマニノフ自身により初演された。フレデリック・ショパンの前奏曲第20番ハ短調のコラール風の主題を22回変奏する、膨大な展開を広げる作品。
もともと原曲はアルフレッド・コルトーに「葬送」とあだ名されている、短いながら曲風壮大な作品であり、憂鬱な短調作品に名作を残すラフマニノフの得意ともいえる。
特に原曲の複雑な半音階和声は素材としても適当で、名人芸と素材の和声から引用した複雑な旋律が繰りひろげられている。
⑦合唱交響曲『鐘』Op.35|ラフマニノフ40歳(1913年)の作品
この作品の構想は、ラフマニノフの熱烈な女性ファンから匿名で送られてきた一通の手紙に端を発する。彼女が手紙に添えた、エドガー・アラン・ポーの詩をロシア象徴主義の詩人、コンスタンチン・バリモントがロシア語に訳したものに基づいている。
彼女はこの詩が音楽にとって理想的で、特にラフマニノフのために作られたようなものだと主張していた。
人生の四季を鐘になぞらえて描いたこの詩には創作意欲をかき立てられ、4楽章の交響曲に仕立て上げることを思い立った。こうしてローマに滞在中の1913年1月から4月にかけて、スペイン広場の近く、かつてチャイコフスキーが滞在し、創作に励んだのと同じ静かな家で、この作品は生まれた。
⑧10の前奏曲 Op.23|ラフマニノフ28歳(1901年)の作品
ラフマニノフは1892年に「幻想的小品集」作品3という5曲からなるピアノ独奏曲集を発表した。このうち特に第2曲の前奏曲嬰ハ短調が突出した人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞とも呼ぶべき存在となった。
この後彼はさらに「10の前奏曲」作品23、及び「13の前奏曲」作品32を発表し、24の長短各調それぞれに対して1曲ずつの前奏曲を完成させた。これはショパンの「24の前奏曲」作品28に倣ったものと考えられている。
これら24曲はラフマニノフのピアノ独奏曲を代表する作品群として、音の絵と並び今日のピアノ音楽の重要なレパートリーとなっている。
⑨幻想的小品集 Op3|ラフマニノフ19歳(1892年)の作品
ラフマニノフがモスクワ音楽院を卒業した1892年に作曲された、5曲からなる小品集。
第2曲『鐘』と呼ばれる有名な「前奏曲 嬰ハ短調」はラフマニノフの初期作品の中で間違いなく最も有名なピアノ曲。その印象から、俗に「(モスクワの)鐘の音」などと呼ばれることもある。
チャイコフスキーも称賛した第3曲「メロディー」を含むたいへん人気の高い曲集。ラフマニノフ本人もこの小品集を気に入っており、生涯にわたって演奏し続けた。
⑩交響的舞曲 Op.45|ラフマニノフ67歳(1940年)の作品
この作品は、セルゲイ・ラフマニノフの最後の作品。ロシア的なロマンティシズムでピアノ協奏曲第2番などで有名なラフマニノフが残した3つの交響曲のうちの1つ。
「舞曲」という題名の通り、この作品は実際に舞踏に用いられることが想定されていた。パガニーニの主題による狂詩曲をバレエ化したミハイル・フォーキンに披露していたが、初演の翌年の1942年にフォーキンが亡くなったため、この構想は実現には至らなかった。
グレゴリオ聖歌「怒りの日」の旋律主題の引用が際立っている。交響曲第1番をはじめ『死の島』、交響曲第2番、『鐘』、『ヴォカリーズ』、『パガニーニの主題による狂詩曲』、交響曲第3番などとともに、この旋律を効果的に使用した作品の一つである。
おわりに
いかがでしたでしょうか?親交のあったリムスキー=コルサコフの影響や民族音楽の語法をも取り入れて、独自の作風を築いた。ロシアのロマン派音楽を代表する作曲家の1人に位置づけられる。
ラフマニノフ自身は1941年の『The Etude』誌のインタビューにおいて、自らの創作における姿勢について次のように述べていた。