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分子の「真の姿」を見る瞬間に挑む

電子が「粒子」と「波」の両方の性質を持つことは、量子力学ではよく知られた概念です。

「でも、粒なのに波ですっていわれても、意味分かんないですよね」

つい「はい!」と答えてしまった…その向こうで微笑むのは、澤 博さわ ひろしさん(名古屋大学大学院 工学研究科 教授)。

澤 博さわ ひろしさん(名古屋大学大学院 工学研究科 教授)

澤さんの研究グループは、電子のこの不思議な性質がリアルな分子の中でどう現れるか、直接観察することに成功しました。

量子力学の基本でありながら、誰も見ることのできなかった未踏の領域に挑んだ結果は如何に!? お話を聞きました。

── 分子の中の電子の振る舞いを調べてみたとのこと。目に見えない世界をイメージするのが難しいのですが、電子はやっぱり「粒」だし「波」だったのですか?

「波」の性質が表に出ている結果です。確かに目に見えない世界の話で難しそうに聞こえるかもしれないけれど、やっていることは意外とシンプルなんですよ。

ちょっと基本に戻りますよ。原子の中心には原子核があって、その周りを電子が取り巻いています。こんな図、見たことない?

原子のイメージ、その1
中心に原子核、その周りを電子が取り巻いている(図は研究成果発信サイトより)

── いつしかの教科書でみたような…。この絵だと、電子は粒に見えます。

そう、でも実際は、電子が雲のように原子核の周りを取り囲んでいると言われているんです。

原子のイメージ、その2
電子が雲のように原子核の周りを取り囲んでいる

── なんだか違うものに見えてしまいます。

そうですね。でも、誰も見たことないからわからない。同じものだけど表現の仕方が違う。だったら、目に見える形にして確かめればいい、というのが今回の研究のモチベーションです。

── 言うのは簡単そうですが、実際は難しそうです… しかも、それを「原子」ではなく「分子」で確かめたとのことですが…。

はい、「グリシン」というシンプルな構造のアミノ酸で見てみました。

グリシン

グリシン分子の中で、電子はどうなっていると思いますか?

── うーん…分子ということは、ふんわり雲のような原子がくっつき合ったようなカタチになるでしょうか。

いろんな人に聞いてみても、やっぱり同じような答えが返ってきます。みんなこんな風にふんわりとつながっているイメージを持っているようです。

グリシン分子の電子分布のイメージ

── 電子の雲がくっついて、境い目がなくなっているイメージですね。

ところが、実際に観察したらこんなふうにブチブチ途切れていたんです。

炭素原子をクローズアップすると、電子(赤色)の分布が均一でないことがわかります。

── みんながイメージしているものを覆す結果だということですね。

そうです。今回、大学院生の原くんが観測や解析を担当しました。あまり大きな声ではいえないけれど、最初にこの結果を見せてもらったとき「これは本当か?」と言いました。ノイズの影響じゃないかと思ったんだよね。

原 武史はらたけしさん(工学研究科 博士後期課程3年)

── 原さんは、結果に自信があったのですか?

原さん:最初からブツブツ切れた形が見えたわけではないんです。初めはみんながイメージするような、分子全体が電子雲で覆われたような形でした。でも実験を繰り返して精度を上げていくうちに、だんだんブツブツ切れたような結果になってきて。間違っているんじゃないかと不安にもなりましたが、意外とこれが本質かもしれないと思うようになりました。

── 本当に正しいかどうか、どうやって確かめたのですか?

原さん:正しい結果と照らし合わせる必要がありますよね。それで、ものすごくちゃんと理論計算した結果が必要ということになり、量子化学計算の専門家の力を借りました。

グリシン分子の価電子密度の実験的観測結果(左)理論計算結果(右)
見ての通り、両者の結果はとても似通っています。観測結果が高精度であることを示しています。

── 原さんは観測を担当したとのことですが、電子密度の分布ってどうやって観測するのですか?

原さん:X線回析といって、X線で結晶の構造を調べる方法を使います。まず、分子の結晶にX線を当てて回折データを集めます。それをフーリエ変換という数学手法を発展させた解析方法で、電子密度の分布を再現します。さらに処理を加えると、結合状態の電子分布を視覚化できます。分子内の結合に電子がどのように関与しているかを見ることができるんです。

── 特別な実験施設が必要なのでは…?

原さん:はい、実験は全て兵庫県にあるSPring-8スプリングエイトという大型放射光施設で行なってきました。学部4年生の頃から約6年間、月に1〜2回、多いときは月4回、澤先生と新幹線で通ってます。大学で分子結晶の試料を用意して、壊れないように細心の注意を払いながら運ぶんですよ。

SPring-8の全景
兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の大型放射光施設で、強力な電磁波を用いて先端科学研究を行うための設備です(画像提供:理化学研究所)。

── 6年間も!長年の努力の末の成果なのですね。それにしても、分子のサンプルって繊細なんですね。 道中、眠れませんね…

原さん:眠るなんてとんでもありません!結晶準備も、ベストな状態で運ぶことにも、命かけてるんで!SPring-8スプリングエイトで装置を使える時間は限られています。選びに選び抜いたベストなサンプルを持っていくんですよ。

今回の成果は、化学系トップジャーナル JACS に掲載されました。掲載号の表紙を飾りました(J. Am. Chem. Soc. 2024, 146, 34, 23825–23830)。

── プロの心構えですね。その原動力はどこにありますか?やはり、研究がもたらす社会的なインパクトを見据えているのでしょうか?

澤さん:例えば創薬への応用は一つの可能性ですね。今回はもう一つのシチジン分子の結晶中の炭素の二重結合の観察から出発して、結晶中で分子が周囲の分子と影響しあうことで、結合の強さや状態が変わることも明らかにしました。この延長で、薬の効き目がなぜ異なるのか、薬の分子が他の分子とどう相互作用するか、可視化して解明できるかもしれません。

・・・というのがオモテ向きの答えです。

── というと、内に秘めた思いがあるのでしょうか?

澤さん:「究極を見たい」思いが常に強くありますね。「原子がどこにいるか」を探求した100年もの歴史ある構造回析の分野で、究極を求め、極めた先が今回の結果です。今の技術では、これ以上の分解能は恐らく実現できないと思いますね。

── 究極を求め続けることが、新しい発見の原動力になる──。お二人とも今年度で研究室を離れるとのことですが、その心が後世に引き継がれることを願います。お話をありがとうございました。

インタビュー・文:丸山恵(名古屋大学URA)

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