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闇路を照らすもの(上)

――季節の移ろいと、星たちの気配。それだけが、私の道しるべ――
辺境の地に暮らす少女スグリ。ある出来事で南の戦乱の地へ旅立った彼女は、異郷の地で戸惑い、苦しみながら、それでも前を向き進んでいく。

戦国時代の日本をイメージした世界のファンタジー長編の9話目です.
よろしければ,今回もお付き合いよろしくお願いします.
表紙画像 ©柴桜様 『いろがらあそび6』作品No.8
https://www.pixiv.net/artworks/65680493

 遠くで響くクロツグミのさえずりが、やけに耳ざわりに感じられた。
 雪解けの水音と生ぬるい陽差しとに誘い出されたような、踊るような軽やかな音色。獲物を求めてさまようワシやハヤブサに、自ら「襲え」と呼び掛けているも同然だ。しかし、声の主はそんなことを夢にも思っていないのだろう。
 いっそ襲われてしまえばいい――。そう独りごちた途端、スグリの視界に影が落ちた。顔を上げるのと、眼前に白い塊がふわりと舞い降りるのとはほとんど同時だった。祖母であり師でもあるミクリの連れ合いのセツナだ。表情の無い、金色に縁取られた眼でスグリを見つめている。
「ミクリさまが戻れって?」
 彼女の問いに応えるように、セツナが羽をひと打ちした。傍らに置いていた籠を取り、立ち上がる。薬草は、まだ籠の半分ほどしか集まっていない。ミクリの、監視し束縛するような振る舞いは日増しに鼻につくようになってきていた。スグリは小さく溜め息を吐く。
 彼女がの庵へ移り住んでから、季節は既にひと巡りし、二度目の春を迎えようとしていた。

 庵の前まで来た時、人の声が聞こえ、足を止めた。
「長居をしてしまいましたな。いや、申し訳ない」
 里長のカタヌシの声だった。とっさに茂みの陰へ身を隠す。
 彼の姿を見るのは、シュマの葬儀以来だ。
「こちらこそ、久しぶりの来客に、ついお引き止めをして」
 ミクリが形通りの世辞を述べる。
 どうやら、来客は彼だったらしい。二人は世間話をしながら、里へ続く沼地の方へゆっくりと歩いていく。
「しかし、スグリ様にお目通りが叶わず、残念ですな」
 里長の口から思いがけず自分の名前が出たことと、やけに恭しいその扱いに、スグリは身体を固くした。
「この時分には大概、奥の林で薬草摘みを口実に出歩いておりましてね。私と二人きりになるのが余程気詰まりらしい。少し前に、伝令を遣ったのですが……」
 耳まで熱くなるのを感じたスグリだった。ミクリがどこか皮肉めいた口調で応じると、嘆息混じりにカタヌシがこぼした。
「『名譲り』の儀式までには、一度お顔合わせいただきませんと。……本当に、次の祭の前に、なさるおつもりですか」
 冷や水を浴びせられたような心地がした。心臓が早鐘を打ち、身体が小さく震え出す。
 「名譲り」とは、ヨタカが後継者にその役目を引き継ぐこと。通例、見習いに入ってから、少なくとも3年は経たないと後は継げないはずだ。まだ一年しか経っていないスグリに継がせるなど、あまりに尚早すぎるように思えた。

「もちろんですよ」 
 事もなげにミクリが請け合うのを聞いて、スグリは目眩を覚えた。
 カタヌシが、躊躇いがちに口を開く。
「たった一年、見習いで付いただけで引き継ぐなど、いささか気が早いように思えますが……」
 ミクリが立ち止まり、冷ややかにその言葉を遮った。
「私の時もそうでしたよ。……そして、そうなった」
 表情を硬くして立ち止まったカタヌシを一瞥し、言葉を繋ぐ。
「あの子の時も、そうしていれば良かったのです。無意味な温情で先延ばししたせいで、あんな男にたぶらかされ、命を削ってしまった」
 しばしの沈黙の後、カタヌシが口を開いた。
「彼女を殺したのは我々だと、そう仰りたいのですか」
「そうではない」
 ミクリが再び歩みを進める。
「あの子は、自分で自分の死を呼び寄せた。自業自得ですよ。……ただ、あの時先延ばししなければ、思いとどまらせることができたかもしれない」
 およそ己の子のこととは思えないような、突き離したような物言いだった。カタヌシが、黙ってその後に続く。
「しかし、それは彼女の時が異例だったのでは。ミズホびとが我々の里へ迷い込むなど、そうそうあることではない。里の者の中でも、あのお方に手を出そうなどと考える者など、おりますまい」
 里長の口ぶりにどこか不快な響きを感じたのは、スグリの思い違いだったのかもしれない。しかし、恭しい言葉の端々に、それとは真逆の感情がにじんでいるように感じられてならなかった。
 突如、ミクリが乾いた笑い声を上げた。
「ミズホびとなら、毎年来るではありませんか。あの、南の山を貫く穴を通って」
 スグリの脳裏に、あの少年の顔が過った。カタヌシが狼狽した様子で弁明する。
「彼らは、我々が常に見張っております。ヨタカ様には、近寄ることも叶わぬでしょう」
「それは、どうでしょう」
 そう言って、ミクリがカタヌシを見据える。灰色の左目に、一瞬光が宿ったように見えた。
 どこか遠くで、クロツグミの楽しげな囀りが響く。その旋律に呼応するように、スグリの胸が早鐘を打ち始めた。
 もしかしたら、彼女は知っているのかもしれない。あの日、あの、ミズホびとの少年が、スグリの元を訪れたことを。そう思うと、顔から火が出そうだった。
 けれど、ミクリの思うようなことは起こらないだろう。ミズホの地からやって来て、スグリの心に明かりを灯した少年は、二度とこの里にはやって来ないのだから。
 この前の秋、商人の一行の中に、あの少年の姿はなかった。その理由を知ることはできなかったが、恐らくはもう生きていないだろう、そんな予感がした。飢えか、病か、あるいは……。
――沢山の人たちが殺し合い、沢山死にます――
 彼はそう言っていた。もしかしたら、何かの争いに巻き込まれたのかも知れない。少なくとも、彼が再び星ノ森の土を踏む姿を思い描くことはできなかった。そのことに気づいた途端、胸の奥にある冷たい泉が、少しさざめいたような心地がして戸惑ったのを覚えている。
 もっとも、彼はスグリに興味があったわけではないのだ。彼の姉に似ている異郷の少女に興味を覚えた、ただそれだけだ。仮に、彼が生きて再び星ノ森にやって来ることがあったとしても、きっと何も起こらない。
 心の中でそう唱えた刹那、胸の奥にまた一つ、何かが沈んでいくのを感じた。
 不意に、短く鋭い悲鳴のような声がしたかと思うと、クロツグミの唄声が途絶えた。
 トンビか鷹にでも襲われたのだろう。辺りには水音と、風にそよぐ葦の葉ずれの音しか聞えなくなった。
「ぜひとも、そのように努めていただきたいものです」
 ミクリが口を開いた途端、呪縛から解かれたようにカタヌシが言った。
「それはもちろんです。ヨタカは我々の、魂の導き手ですから」
 顔色は平静を装っていたが、彼の声音からは、困惑がありありと読み取れた。その返答に、ミクリが意味ありげな微笑みを浮かべる。どこか、毒のある笑い方だった。
「その『魂の導き手』に、みすみす里の男との駆け落ちを許し、挙げ句の果て、逃げたヨタカの双子の妹だからという理由で、駆け落ち相手の男の妻で、その子を身ごもっていた私を、身代わりとしてヨタカに仕立て上げた、あなたのお父上の二の舞にならぬよう」

「帰っていたのか」
 庵に入って来てスグリの姿を見とめるなり、ミクリが言った。
「はい。少し前に」
「セツナを呼びに遣らせたというのに。お前、いったいどこにいたんだい」
 平静を装いながら応える。
「セツナを……? 行き違いになったのかもしれません」
「少し前まで、カタヌシが来ていたんだ。お前に送り届けさせようと思ったんだが……」
 祖母の探るような眼差しに息苦しさを覚えながらも、知らぬふりを貫く。ミクリとの共同生活の中で身に着けた術だった。
 ヨタカの庵を訪ねる里の者たちの中には、里では話せぬようなことを語り、里では見せぬ顔を見せる者がいる。しかし、ヨタカは決して、その者が自分に明かした秘密を、他の者に知らせてはいけないし、気取らせてもいけないのだという。
 この庵にやって来てまず言いつけられたことは、来客があった時、庵の裏に隠れて、来訪者とミクリとのやりとりに聞き耳を立てることだった。そして、その客が帰る時には、素知らぬ顔で湿原の道まで送り届けるのだ。
 初めのうちこそ、その者の秘密を盗み聞きしてしまったことや、知らぬふりをするのに後ろめたさを感じたが、やがて慣れてしまった。来客とミクリの会話の中で、スグリのことが話に出ることがあり、うすうす感じていた、けれど、できることなら聞きたくなかった言葉を耳にすることもあった。しかし、やがて何も感じなくなってしまった。
 先ほどミクリがカタヌシに言い放った言葉によって、彼女の胸の内はひどくかき乱されていた。かつてカガリが投じた問いの答えは、あまりにも衝撃だった。しかし同時に、自分はもともと不要の者の血を受け継ぐ者なのだ、自分の宿命(さだめ)は自分一人によるものではなかったのだ、と何かが腑(ふ)に落ちたような気がした。
 しばしの沈黙の後、ミクリが言った。
「用件は、お前の名譲りのことだったのだよ。今度の星追いの夜までに、晦(つごもり)の儀式を済ませる。祭りの晩にヨタカとしてあの櫓(やぐら)に登るのは、お前だ」
 少しぐらい驚いたふりをした方が良いのだろうか、と思いながらも、それすら愚かしく感じられ、ただ無表情に祖母を見つめ返した。自分に拒否することなど許されない。ただ、決められたことを粛々と受け入れることだけが、スグリの――スグリたちの、生きる道なのだ。
 ――逃げ場なんてないんだ――
 ふと、シュマの言葉が脳裏を過った。思わず自嘲の微笑みを浮かべながら、彼女は言った。
「仰せのままに」

 「名譲り」が決まると、あとは水が流れ落ちるように、全ての段取りがするすると進んでいった。スグリは、ミクリからヨタカの業の手ほどきを受けながら、儀式の日を待つばかりだった。
「久しぶりに顔を見たと思ったら、ひどいむくれ顔。もともとひどかった顔に、ますます磨きが掛かっているじゃない」
 呆れ返った様子のカガリに、スグリは素っ気なく返した。
「大きなお世話」
 ミクリの元へナナエの遣いでやって来た彼女を、湿原の道へと案内しているところだった。
 庵の周辺は、風はまだ冷たいながらも、冬はすっかり気配を消し、春の生命力が顔を覗かせていた。フキノトウにツツジ、カタクリにフクジュソウーーいずれもまだ若い。しかし、南山の麓(ふもと)のコブシが咲く頃には、辺り一面に色とりどりの花が咲き乱れるだろう。
「今度の祭りの前に、名譲りを済ましてしまうんですって? ミクリ様が、あんたは自分を超えるヨタカになるだろうって、カタヌシ様に仰ったらしいわよ」
 相変わらずの黒い頭巾の下から、からかいの籠った声で義姉が言う。
「そんなの、あたしをさっさとヨタカに据えるための方便に決まっている」
 ぴしゃりと吐き捨て、話を打ち切ろうとしたスグリだったが、義姉は食い下がった。
「そうかしら。だってあんた、ウリュウのことも、あの人のことも、当てたじゃない」
「ただの偶然かも知れないよ」
「本気で言っているの?」
 背後の義姉が立ち止まるのが気配で分かった。つられてスグリも立ち止まり、振り返った。
 さっと冷たい風が吹いて、カガリの頭巾を揺らす。その表情は読み取れなかったが、彼女の佇まいは、大きな岩か、どっしりと根を張った巨木のようだった。たった一年の間に、何かが彼女の影を濃くさせ、凍り付いた冬の大地のような深遠さを与えていたのだ。
「うそ。……うそよ」
 確信をにじませてカガリが断じる。思わず顔を背けてスグリは言った。
「そう思いたければ、そう思っていれば」
 言い捨てて歩き出すと、義姉も諦めた様子で後に続いた。
「ミズホの商人たちを、父さまたちと一緒にあんたが迎えに行ったこと、覚えている?」
 脈絡のない問いに面くらいながらも、平静を装い応える。
「覚えているけど、それが何?」
「あんたが迎えに行った年は三人連れだったのに、この前は二人だった」
「そんなの知っている。彼らが星ノ森へ入る前に、ヨタカの庵の前で清めの儀式をするのだから、知らないわけがないでしょう」
 しばしの沈黙の後、意味ありげに義姉が囁いた。
「その一人がどうなったのか、気にならない?」
 探るように問いかけられた途端、[[rb:藪 > やぶ]]の中から突然姿を現した蛇に絡みつかれたような気分になった。言い知れぬ不安を覚えながら、スグリは努めて冷静に返答する。
「別に」
 ふと顔を上げると、梢の隙間から春の陽光が降り注ぎ、冷えた頬をさっと撫でた。まるで、彼女の心の在り処を探るように。

 カガリを見送った後、星ノ森へ続く路をぼんやりと見つめていた。日が沈み始めると、辺りはとろりとしたコケモモ色から、深い沼の色へと染まっていく。
 冷たい風が、「もう帰りなさい」と告げるように、その指先で首筋や頬を撫でた。裸足の爪先から、むき出しの指先から、冬の名残が身体をじわじわとむしばんでいくのを感じながら、それでも動けずにいた。
 鴉たちが鳴き交わしながらどこかへ飛んでいく。帰らなければ、と思った。しかし直ぐさま、いったいどこへ、と自問する。
 あの庵は、自分の居場所となり得るのだろうか。果たして自分は、ほんとうにヨタカになれるのだろうか。そんな不安が日増しに強くなっていくのだ。
 文身に使う草木や土の配合も、人の腕にその出自の印を彫り付ける術も、全て頭に入っている。星追いの祭りや、里の者の婚儀、葬礼、あらゆる場面で唱えるべきまじないの言葉は全て、考えずとも口から勝手に滑り出るほどになっていた。
 教わっていないことと言えば、「本性」の見極め方と、名譲りの儀式の手順だけだ。
 それでもなお、自分には何かが足りない、そんな予感がしてならなかった。けれど、それが何なのかは分からない。
 やがて、湿原の路が影の中に沈み始めた。南の山から、また、あの歌声が聞こえてくる。相変わらずその言葉は理解できなかったが、その声色は、日ごとに哀切な調子を帯びていくようだった。
 すすり泣くように、絞り出すように、風にたゆたうその声に耳を傾けていると、心の奥にある湖の水面にさざ波が立つ。目を瞑れば、普段心の底に閉じ込めている記憶が呼び起こされたり、靄がかかったようにぼんやりと、見たこともない景色が目の裏に浮かんできたりするのだ。
 しばらく夢見心地になっているうち、辺りの景色も、冷たい風も、何も感じなくなっていく。しかし直ぐさま、耳障りな物音が、スグリを現(うつつ)へと引き戻した。見ると、一羽の鴉が、近くの岩の上に止まってこちらを見ている。
 スグリが見ていると、鴉は再び、ぎゃあぎゃあとけたたましく鳴き立てた。慌てて踵を返し、庵へ向かって歩き始める。
 その時、ふと足元に目が行った。路傍の幾分盛り上がった場所に目が留まる。かつてカガリと作った、「埋め火」の塚だ。目印の丸い石が、草間から頭を覗かせている。
 あの小袋など、今ごろとうに土に還っていることだろう。ふと、あの鮮やかな赤色が目の裏に蘇る。
 心の奥に凍ったまま眠り続ける何かを、揺さぶるような赤。思い出すと、胸の奥の何かが痛んだ。かつてここで、義姉とともにひっそり涙を流したことが、はるか遠い昔のことのように感じられる。
 その刹那、人の気配を感じて顔を上げた。
「まだ、ここにいたのか」
 少し離れた所にミクリが立っていた。セツナをその肩に従えている。耳には自信がある方だったが、彼女の足音にも衣擦れの音にも気付かなかったことに、スグリは内心驚愕した。
「申し訳ありません」
 我知らず声が上ずってしまった。いつからいたのだろう、と考えてぞっとする。「埋め火」の存在に感づかれたかも知れない。
 そっと様子を伺うが、彼女の貼り付いたような無表情からは何も読み取れなかった。ミクリが、スグリの視線を避けるように顔を背け、庵へ向かって歩き始める。
「そろそろ日が暮れる。帰るよ」
 慌ててその後に続きながら、そっと師の後ろ姿を見つめた。
 山の頂の雪のような白い髪に覆われた頭は、自分のそれよりずっと高い位置にある。里にいた者の中でもとりわけ背の低い自分とは、容貌も背格好も、声さえも似つかない祖母。幼い頃は、冷淡な扱いもあり、本当に自分はこの人と血が繋がっているのかと訝しんだものだ。
 しかし、今となっては、自分のこうした身の上も、里の者たちからの扱いも何もかも、この人との血縁の何よりの証しであり、彼女との結びつきを強めているのだと承知している。忌むべき存在であるということが、自分の居場所を保証しているのは何とも皮肉な話だった。
「あの子と何を話していた?」
 不意の問いに、スグリはきょとんとしてミクリを見た。ミクリの代りとでも言うように、セツナが金色の目でスグリを見据える。やがて、その意味を合点した。
「この春に、ミクリさまからヨタカの名を継ぐ、というのは本当か、と問われました」
「ほかには?」
 とっさに、ミクリがスグリについて、自分を超えるだろうと言っていた、などと言っていたことを思い出したが、何となく、口にするのは憚られた。どうせミクリの方便か、ひょっとしたら、里の者を納得させるためにカタヌシが言った出まかせかも知れない。
「それ以外は、特には……。直ぐに別れましたし」
「そうか」
 言ってしまってから、カガリが、旅の商人たちについて探りを入れるような物言いをしていたことを思い出した。しかし、大したことではないだろう、と黙っていた。
 その後は無言のまま歩くうち、庵に辿り着いた。食事を済ませ、明日の墨入れの支度などを整えて、床に就く。
 囲炉裏の火を落として埋め火を作っている最中、ミクリから、明日、「本性」を見定める方法を指南すると告げられた。それが終われば、あとはスグリがヨタカの名を継ぐだけだということも。
 胸の辺りがきゅっと縮まるのを感じた。燃えさしの炭が、一瞬赤く染まってから、息絶えるように熱を失った。
「かしこまりました」
 ミクリの目を見ず静かにそう言ってから、ぎりぎりまで小さくなった埋め火を、白い炭でそっと覆い隠した。

 その日の墨入れは、スルクという少年だった。スグリより一つ年下で、明るい枯れ葉色の髪と瞳とを持ち、肌の色は、抜けるような雪の色をしている。
 里の少年たちの中でも目立って細いその腕にミクリが墨を入れていくのを、スグリは黙って見守っていた。囲炉裏の炭が爆(は)ぜる音を除けば、庵の中にいる3人の衣擦れや息遣いの音以外は何も聞こえない。
 少年は、墨入れ用の針が自分の腕の上を滑るのを、緊張した面持ちで見つめている。時折ちらりとスグリの方を盗み見ては、すぐさま視線を逸らしているのに気付いていたが、知らぬふりをした。
 里にいた頃から、彼はこの調子だった。口をきいたことなど数えるほどしかない。しかし、外で視線を感じた時は大概、その枯れ葉色の目とぶつかったものだ。そして、スグリと目が合うと、顔を顰(しか)めてどこかへ行ってしまう。異形の娘がそんなにも珍しいのか、といつか問い質(ただ)してやろうと思っていたが、結局それは叶わなかった。
 やがて、その日の分の墨入れが終わると、ミクリがスグリに合図を送った。スグリは黙って、用意していた薬をスルクの腕に塗り付ける。すると、少年はあからさまに眉根を寄せ、そっぽを向いてしまった。
 散々受け続けた仕打ちとはいえ、相手に危害を加えた覚えもないまま嫌悪されるのには、いつまで経っても慣れない。そんな彼女の心中など知らぬ様子で、ミクリが、少年をいつも通りに湿原の路へ送り届けるようにと言った。

「どうせ腹の底で笑ってるんだろ」
 いかにもふてくされた声でスルクが言う。聞こえないように小さく溜め息を吐いてから、スグリは応えた。
「何を?」
 すると、スルクはとげとげしく言い返す。
「墨入れが終わっていないのは、俺だけなんだろう。同い年のやつらの中で」
 それはほんとうのことだった。同年の少年たちの中でも、彼はとりわけ肌が弱く、少しずつしか作業を進められなかった。そのため、ほかの少年たちが墨入れを終えた今も、彼だけはまだ途中だ。下手をしたら、夏までずれ込むかも知れない。
 しばらく口をつぐんだ後、スグリは静かに言った。
「どうして笑っていると思うの、馬鹿らしい。墨入れが終わる時期なんて、それぞれでしょう。あんただけが特別ではないし、ヨタカにはそんなこと関係ない。……それに、この春までに終わろうが終わるまいが、次の春までに墨入れの終わる娘はいないのだから、差し障りはないでしょう」
 墨入れが終わり次第、母親同士の繋がりから里中に知られてしまう娘と違って、男たちは、求婚することが、墨入れ終了の宣言になるのだ。男は求婚しない限り、墨入れの進み具合が人に知られることはない。
 そして今、里に、墨入れが終わる年頃の娘はいなかった。カガリとサマニの後は、この春から墨入れが始まる三人の娘だけだ。
 振り向くと、スルクがしかめっ面で俯いた。
「里の奴らが知らなくても、お前は知っているじゃないか」
 彼の言わんとするところを飲み込めなかった。スグリは思わず立ち止まり、彼の方へ向き直った。
「それがどうしたっていうの? 里の誰かに言いふらすとでも……」
 我知らず、語気が荒くなっていた。
「そんなこと思ってない」
 遮るようにそう言って、少年はスグリを見据えた。その刹那、なぜかムビヤンの面影が眼前に蘇り、スグリは動揺した。
 目の前の少年は、義姉の今は亡き婚約者と比べれば、ずっと幼く、華奢だった。しかし、形の良い眉や、顎の線、そしてその眼差しに、どこかムビヤンと通じるものが感じられたのだ。
「そういうことじゃ、ないんだよ」
 何も言えずに、スグリは立ち尽くした。やがて、我に返って言った。
「あたしのことなんて、気にしなければいいじゃない。どうせ”人”ではないのだから」
 そう吐き捨ててから、踵を返して、里の方へ歩き出す。慌てた様子で、スルクが後に続く。
「おい、それ、どういう意味だよ」
「そのままの意味よ」
 それきり口を閉ざして、徐々にぬかるみ始めた路を足早に進んでいった。睦み合うような、鳥の明るい囀(さえず)りが、二人の沈黙を覆い隠すように響き渡る。
 やがて、湿原の路が目前に迫った頃、スルクが口を開いた。
「なあ」
「何よ」
 振り返らずに応えると、少年は、いかにも言いにくそうに声を絞り出した。
「やっぱり、本当なのか?」
「何が」
 やけに長い沈黙の後、彼は言った。
「里で、噂になってるんだよ。シュマを殺したのはお前じゃないかって」

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