短編3.イテュスの竪琴(後)
夏休み、父親の実家へとやってきた少女・初音。
大学生の従姉から、この土地に伝わる伝説と、数年に一度おこる神隠しの話を聞いた夜、神隠しにあう。
迷いこんだ洞窟の中で、少女はお山の過去と、亡き母の秘密とを垣間見る。
少しホラー風味の,現代ファンタジー作品後編です.
お時間ありましたら,是非お付き合いをお願いします.
ずいぶんと長い間、初音は膝に顔を埋めたまま、じっとしていた。そのうちに、蜂が飛び回る耳障りな羽音や、火炎放射器のミニチュア版のような音が聞こえてきたけれど、初音は顔を上げる気にもなれなかった。
しかし、自分の頭の辺りに、何か生暖かいものが触れたときには、初音も思わずぎょっとして顔を上げてしまった。そのとたん、湿っぽくてざらざらしたものが自分の顔の上を這いずり回って、初音はあぜんとした。
眩しさに目を瞬かせて見ると、初音の目の前にあったのは、真っ黒い毛に覆われた、大きな犬の顔だった。
初音はとっさにぞっとしたが、その犬の様子が外で見た野犬たちとは明らかに違っていることに気付いて肩の力を抜いた。松明に青白い灯りが点っているのを見て、さっき洞窟の中で見たあの犬だろうか、と初音は考えた。
そんな初音にはお構いなしに、犬は初音の顔を舐めまわした。まるで、初音の顔についているしょっぱい水がおいしい、とでも言うように。
初音が身体を固くしてそれに耐えていると、やがて犬はくんくんと鼻を鳴らしながら舐めるのを止め、顔を離した。助かった、と思いながら、初音は寝巻きの裾でごしごしと顔を拭いた。
改めて目の前の犬を見た初音は、その身体の外で見た野犬たちとは比べ物にならないほどの大きさに目を丸くした。もしかしたら、祖父母の家の近所で飼われている牛よりも大きいかも知れない、と初音は思った。
その大きな犬が、今、自分の目の前で行儀よくお座りをしているのを、初音は信じられない思いで見つめた。わずかに開いてだらりと舌を垂らした口元は、笑っているようにも見える。
初音をじっと見ている二つのまなこは、タチアオイの花弁のような、赤みがかったチョコレート色をしていた。照明が青っぽかったから、実際はもっと違う色だったのかも知れない。
犬は、ついと立ち上がったかと思うと、初音の寝巻きの裾を咥えて引っ張り出した。初音はあわてて咥えられた裾を掴んで、犬を振り解いた。
すると、犬は不満げに鼻を鳴らしながら、じっと初音を見すえた。そして、そのまま初音に背を向けて歩き出した。初音はいくらか伸びた裾を整えながら、いぶかって犬の様子をうかがった。
犬は初音から少し離れた所にある、細い通路の前まで来ると、ちらりとこちらを振り向いてから、窮屈そうにその通路へと入って行った。
犬の真意も分からずに、初音はしばしの間あっけにとられて犬が消えた方を見つめていた。と、突然松明の焔が消えた。既にその明るさに慣れていた初音は、一瞬目の前が真っ暗になってしまった。
そのとたん、言いようのない不安に駆られて、初音は思わずその場に立ち上がった。やがて目がその暗さに慣れてきたが、それでも、いったん湧き上がった感情は消えることがなかった。
初音はちょっとの間躊躇した後、追い立てられるような心持で、犬の後を追った。このままここでじっとしていて、カビだらけのガイコツになってしまうよりも、どうなるかは分からなくてもあの犬に付いて行く方がずっといい。少なくとも、そのときの初音にはそう思えたのだ。
* * *
狭い岩の隙間を何とかして通り抜けると、そこは炭鉱だった。きっと、ここが叔父さんの話していた炭鉱の跡なのだろうと、初音はすぐに気付いた。
しかし、さっきの松明の灯りよりは幾分弱めではあったが、青白い光に照らし出された坑道内を見渡した初音は、目の前の光景に我が目を疑った。
とうの昔に廃坑になった筈の坑道で、人々が黙々と働いていた。しかし、そこは至って静かで、おおよそ、生き物が立てるような物音は何一つ聞こえてこなかった。坑夫たちが汗を垂らして採掘をし、採掘された石炭がひっきりなしに運ばれていくのにも関わらず。
不思議なことに、坑夫たちは初音になど目もくれず、まるでいることそのものに気が付いていないようだった。
初音がぼうぜんとしてその光景を眺めていると、背後から何かが、初音の左肩に触れた。振り仰ぐと、さっきの犬の、黒くて湿った鼻先が、初音の目の前にあった。犬の生ぬるい息が顔にかかって、初音は思わず目をつむった。
犬は、初音の前に歩み寄ると、また初音の寝巻きの裾をくわえて引っ張ろうとした。それでも初音が不審がって動かずにいると、今度は初音から少し距離をとった。
そして、その黒くて大きな身体で尻尾を振りながら、二本足立ちになってぴょんぴょん飛び跳ねたり、その場でくるくると回り出したりした。それをあぜんとして見ていた初音は、近所のコリーが飼い主に散歩をねだるときの仕草とそっくりだ、と思った。初音が一歩踏み出すと、犬はさも嬉しげに尻尾を振って、初音の左前をのしのしと歩き出した。この犬は何がしたいのだろう、もしかしてほんとうに、自分と散歩でもするつもりなのだろうか、と内心困惑しながら、初音はその後に続いた。
歩いていると、一人の坑夫が反対側からやって来るのが見えた。このまま行くと犬と坑夫がぶつかってしまう。初音は慌てたが、犬も坑夫も、まるでお互いの存在など目に映らないとでもいうようにそのまま近付いて行った。そしてとうとう正面衝突しそうになったとき、驚いたことに、お互いがお互いの身体を通り抜けてしまった。
初音は面食らって少し立ち止まったが、犬が気にも留めずに進んでいくので、あわてて後を追い駆けた。あんまり一度に色んなことがあり過ぎて、ちょっとやそっとのことでは動じなくなっていたのかも知れない。
そのときふと、さっきから蜂の姿が見えないことに初音は気付いたが、すぐに忘れてしまった。
幻の坑夫たちを避けながら犬の後に付いて歩いて行くと、やがて曲がり角に突き当たった。犬はもの言いたげにちらりと初音の方を振り向いてから、その角を曲がった。続いて角を曲がった初音は、その先の光景に、思わず立ち止まった。
いくらか道幅が広くなった坑道の正面にそびえる、真っ赤な鳥居。そして、その両脇から奥の方へ向かってずらりと並ぶ紅白の提灯の下には、通路に沿って露天が軒を連ねていた。
その通りの中心にある石畳の道を行き交う人々の流れは、鳥居の辺りでぷっつりと途絶えていた。初音には、鳥居のあちらとこちらとで、まるきり違う世界のように思われた。
この光景には見覚えがある。そう思ってすぐ、この光景が初音が毎年行っている、この山の神社で催される祭りのそれとそっくりだということに思いあたった。もしかしたら、さっきの坑夫たちも、このお祭りも、この山の記憶のようなものなのかも知れない。根拠はなかったけれど、そんな考えが初音の頭に浮かんだ。
初音の手前にいた犬が、突然楽しげに吠え立てながら、鳥居を潜って人混みの中へと姿を消してしまった。初音は少し躊躇ったが、すぐさま犬の後を追って人混みの中を駆け出した。
通りを行く人々は、さっきの坑夫たちと同様、ぶつかりそうになっても次から次へと初音の身体を通り抜けていったので、初音はどんどん前へと進んで行った。
さっきの坑道と違うところといえば、そこかしこから賑やかなお囃子が聞こえてくることと、照明が何倍も明るいということぐらいだ。
こんなに賑やかなお祭りなら、物言わぬ蝶々だって歌い出すかも知れない。そんなことを思ってしまうほどの騒々しさだった。実際のお祭りはこんなに賑やかではなかったはずだ、と初音は訝った。もしかしたら、山がいくらか脚色しているのかも知れない。人間だってときたま、自分にとって都合のいいように記憶を書き換えてしまうぐらいだもの。そう結論を出して、そのまま初音は奥へ奥へと進んで行った。
お面屋さんやヨーヨーすくい、くじ引き屋さんにカキ氷屋さん。様々な屋台と、それを取り囲む人々の姿を横目に見ながら、初音は犬の姿を探した。
やがて人混みの中に、ひときわ目立って大きい真っ黒な犬の姿を、初音は見止めた。近寄ってみると、犬は一つの屋台の前で座り込んで、その屋台の陳列台の上をじっと見つめていた。
その視線を追った初音の目に飛び込んできたのは、提灯や屋台の裸電球の灯りを受けてつやつやと耀くりんご飴だった。
「欲しいの?」
隣に並んだ初音が声を掛けると、犬はそれに答えるようにこちらを向いて、くんくんと鼻を鳴らした。
自分もちょっと欲しいな、と初音は思ったが、今の自分は無一文であることを思い出した。そして、一向に動く気配のない犬の隣で、目の前に並ぶ真っ赤なりんご飴を、情けない気分で見つめた。
すると突然初音の目の前に、何かがぬっと突き出された。思わず後退りしながら見ると、それは店先に並ぶものよりもずっと大きい、初音の頭ほどはありそうなりんご飴だった。目を上げると、屋台の向こう側からりんご飴を差し出してにっこり笑う、お店の人の顔が見えた。小父さんとも、お兄さんともつかない男の人だった。
初音が困惑してそれを見つめていると、お店の人は、屋台の台に置いた初音の手にしっかりとその飴を握らせた。
「あたし、お金持ってないよ。」
初音がどぎまぎしながらそう言うと、お店の人は何も言わずに、ただ、お代はいいよ、とでも言うようにひらひらと手を振っただけだった。初音はさらに何か言おうと口を開きかけたが、他のお客さんがどっと押し寄せて初音の前に立ちはだかってしまい、初音の言葉は遮られた。お店の人も、初音の存在など忘れ去ってしまったかのように、お客さんの相手をし始めた。
初音は仕方なく、軽く頭を下げただけで、そそくさと屋台を離れることにした。一部始終を眺めていた黒犬が、尻尾を振りながらその後に続く。
お店の人が手渡してくれたりんご飴は、幻の筈なのに、ずっしりと重かった。初音が立ち止まり、それをどうしようか迷っていると、犬が横からぬっと顔を出し、もの欲しそうにりんご飴の匂いを嗅ぎ出した。
初音はちょっと考えてから、その飴を犬の口に放り込んでやった。お店の人の好意は嬉しかったけれど、幻の夜店で売っているりんご飴を、食べる気にはなれなかった。昔話にも、あの世に迷い込み、その世界の食べ物をうっかり食べてしまったせいで、元の世界へ帰れなくなった人の話が沢山あることを、初音は知っていた。それに、自分よりもこの子の方がずっと食べたがっていたのだから、と。
犬はその大きな口で、さも美味しそうにがりがりと音を立てながら、あっという間にりんご飴を平らげた。それの姿を眺めながら、この犬がその気になれば、きっと自分なんてあっという間に食い殺されてしまうだろうな、と改めて気が付いて、初音はちょっとだけ、ぞっとしてしまった。
「おいしい?」
犬の返事を期待するでもなく初音が訊ねると、犬は満足げに口の周りを舌でべろりと舐めまわして見せた。それを見た瞬間、犬の顔に吟太の面影が重なって、初音ははっとした。
気が付くと、さっきまでしきりに聞こえていたお囃子の音が止んでいた。不思議に思って辺りを見回した初音は、立ち並ぶ屋台の中で、ひときわ人だかりができている屋台があることに気付いた。
あれはいったい何の夜店だろう、と初音が思うのと、そちらへ向かって犬が歩き出すのとは、ほとんど同時だった。初音はあわててその後を追った。
屋台の前まで来て、その人の多さに、初音は圧倒されて思わず立ち止まった。しかし、人垣に構わず進んでいく犬の姿を見て、それが幻であることを思い出し、また歩き出した。屋台に辿り付いた初音は、陳列台の上に目をやった。
台の上には、売り物の代わりに、ジオラマの山と海とがのっていた。山は一面緑の森で、その上に、男の人と女の人の人形が、並んでちょこんと腰掛けていた。さらにその頭上には、上から糸で吊るされた、プラスチックの月や星、綿の雲などが浮かんでいた。
砂浜の先には本物の水でできた海があって、規則的に波が寄せたり引いたりしていたけれど、それがどういう仕組みなのか、初音にはよく分からなかった。
初音がもの珍しくそれらを眺めていると、かちりという音がして、オルゴールの音色を思わせる音楽が流れ出した。辺りを見回してみたが、音がどこから聞こえてくるのか突き止めることはできなかった。
その旋律が、さっき自分が洞窟の中で口ずさんだ歌のそれと同じものだった。とっさに、行方不明になった母のオルゴールのことを想い起して、初音はわけもなく不安になった。けれども、山の上に仲睦まじく座っていた二体の人形が、音楽にあわせて動き出したため、初音はそれに注意を奪われてしまった。
始めのうち、二体の人形は山の上をくるくると回りながら手に手を取って踊っていた。しばらくすると、始めの二体よりも小さな、子どもらしい人形がどこからともなくやってきて踊りの輪に加わった。しかし、突如山が火に包まれて、三体の人形はてんでばらばらに逃げ出した、
女の人形が砂浜までやってくると、月が真珠へと変じ、水飛沫を上げながら海へと落ちた。それを見た女の人形は、銀の鱗と、真珠色の尾鰭とを持った人魚へと姿を変え、そのまま海の中へと飛び込んでしまった。
男の人形は、山の天辺までやって来ると、山から立ち昇る黒い煙を梯子か綱のようにして、雲の上へと登ってしまった。そして、近くに浮かぶ星を手当たり次第にもぎ取って、次から次へと頬張り始めた。
最後に現れた小さな人形は、燃え盛る炎に包まれて、途方に暮れた様子でしばらくおろおろしていた。すると突然その足元に穴が開き、そのままその穴の中へ飛び込んだ。穴は、小さな人形を呑み込むとまた閉じて、その地面は炎におおわれてしまった。
その不思議な人形劇を夢中になって見ていた初音は、ふと、傍にいる筈の犬の気配が消えていることに気付いて当たりを見回した。すると、通りの奥にある少し開けた場所を目指して駆けて行く犬の後ろ姿が見えた。犬は広場に辿り付くと、紅白の幕を張った木組みの舞台の裏側へと回り込んだ。
初音は小さく溜息を吐いてから、まだ続いている人形劇を尻目に人混みを抜け、犬の後を追い駆けた。
紅白幕で目隠しされた舞台裏まで初音がやって来ると、幕の合わせ目から犬が顔を突き出した。そして、何かいいものでも見つけたような様子で、二、三度吠えて見せた。
いったいこの中に何があるというのだろうと、初音は首を傾げた。昔、一度だけ、吟太と一緒にお祭りの舞台の裏側に入ってみたことがあったけれど、土が剥き出しの地面に使わなかった角材が乱雑に置かれているばかりで、大して面白くはなかった。
しかし、あんまり犬が楽しそうに顔を出したり引っ込めたりするので、とうとう幕を潜り抜けて中へと入ってしまった。
幕の内側は真っ暗闇だった。初音が不思議に思いながら辺りを見回していると、突然辺りが白い光に包まれた。その眩しさに、初音は思わず目を瞑った。
* * *
初音が目を閉じたままじっとしていると、強い風がいきなり初音の横から吹き付けた。恐る恐る目を開けると、海を目下に見下ろす岸壁の上に初音は立っていた。
いつの間に、自分はこんな所へ来てしまったのだろうと、初音があぜんとして辺りを見回していると、崖を下った所にある林から、数人の人影が現れた。後ろをときどき振り返りながら、まっしぐらにこちらを目指してやって来る人の姿に、初音はますます困惑した。
街中ではまず見かけないような、洋服とも着物ともつかない服を着て、腕や耳には大きな輪っかをつけている。男の人も女の人も、腕にはペインティングがほどこされていて、そのほとんどが膝丈ぐらいのワンピースのような格好をしていた。けれど、その中心で囲まれるようにして走る女の人だけは、裾がくるぶしの下まであって、頭から薄い布をかぶっていた。
あんな格好で走っているなんて、いったいどういった事情の人たちだろう、と初音が考えていると、林の木々が一斉に揺れた。そして、鎧を身に着けた大柄な男の人たちが現れた。ずいぶん前に博物館で見た、古代の人たちが使っていたという鎧の模型とよく似ていた。
それを見て、先に現れた人々は、走るスピードを一層速めた。何人かの人が包丁のような刃物や、博物館にあったものとよく似た形の武器を手に、男たちへと向かって行った。しかし、それよりももっと大きい刃物であっという間に切り伏せられてしまった。
それを見た、裾の長い服を着た女の人が倒れた人たちに向かって何か言おうとしていたが、周りを囲む人たちがそれを止めた。
初音はぼうぜんとして、その光景を見つめていた。見る間に女の人たちは初音のいる所へとやって来る。それを追って、男たちも駆けて来た。断崖まで追い詰められた人々は、男たちの方に向き直り、向かい合った。
両者はしばらくの間、互いにじっと睨みあっていたが、下の方にいる男たちの中でも、特に体格がよくて立派な鎧を身にまとった男が、一歩踏み出した。男が女の方を仰いで口を動かしたが、何を言っているのか、初音には全く聞こえなかった。
すると、今は初音のすぐ脇に立つ女の人が、それに答えるように口を動かした。薄布の下からのぞく女の人の顔を見上げて、綺麗な人だなあ、どことなく母と似ているなあ、などと、初音はのんきに考えた。
女の人が口を動かすのを止めると、男は苦虫を噛み潰したような顔をした。きっと、彼女の返事が、彼にとってあまり喜ばしくないものだったのだろう。
男が一歩踏み出すのと、女の人が男に背を向けて、崖の方へ駆け出すのとはほとんど同時だった。そして、あっという間に女の人の姿は崖の上から消えた。
初音があぜんとして立ち尽くしていると、辺りの景色が一変した。
きょろきょろと辺りを見回した初音は、自分が人混みの中にいることに気付いた。周りにいるのはほとんどが大人で、みんな、さっき見た人々と同じような、でももっとずっとみすぼらしい格好をしていた。そこにいる人々がみんな一点を見上げていることに気付いた初音は、人々の視線の先を追った。
見上げると、高く組まれた木のやぐらの上に、人が二人のっている。逆光でよく見えなかったけれど、一人が膝をついて頭を垂れ、もう一人がその脇に立っているのは初音にも分かった。きっと男の人だ、と初音は思った。
ふと、目の前のやぐらから少し離れたところに、少し低めのやぐらが組まれていることに、初音は気付いた。頭を巡らしてそちらを見ると、そのやぐらの天辺に男の人が座っているのが見えた。
さっき、海辺の崖で女の人と話していた男だ、と初音は気付いた。こちらは逆光になっていなかったし、初音の近くにあったので、目を凝らすと男の表情まで見えた。険しい顔でもう一つのやぐらの上を注視している。
男の表情に初音は、祖父母の家の座敷で見た、木目で描かれた男の横顔を思い起こした。顔の作りは違うけれど、その表情に、どこか通じるものを感じたのだ。
でも、あの人自身は自分がそんな顔をしていることに気付いていないのだろうな、と初音は思った。でなければ、気付いていないふりをしているのだ、と。自分が何か間違っていることに気付きながら、それがいったい何なのかも、どうすればいいのかも分からず、そもそも自分が間違っていること自体、認められずにいる。そんな顔だった。
初音が高い方のやぐらに目を戻すと、立っている方の人が、何かバットのようなものを振り上げるのが見えた。そのバットが振り下ろされたとたん、膝をついていた方の人の身体がゆっくりと傾きだし、やがて倒れてしまった。
すぐに景色が変わった。さっき見た光景の意味を考えて、身体が震えるのを止められないまま、初音は周囲の鬱蒼と生い茂る木々を見回した。そして、不自然に積み重ねられた小さな石の塔の前で、咽び泣く人々の姿を見止めた。人々の中心には、初音と同い年くらいの男の子が、両膝を地面についたまま、顔を手でおおい隠して泣いていた。その傍らに、小さな仔犬がまとわりついて、男の子の周りを行ったり来たりしている。
きっと、誰かのお墓だ。初音は直感的にそう思った。さっきの女の人のお墓だろうか、それとも、男の人のものだろうか、と初音は考えた。
墓を取り囲む人々は、ずいぶんと長い間その前で泣いていた。笹の葉がさやさやと揺れて、まるで墓の主の死を悼んでいるようだ、と初音は思った。
不意に、男の子の背後に誰かが立った。初音の立っているとろからは後ろ姿しか見えなかったけれど、それはかなり体格のいい男の人だった。やがて男の子もその気配に気が付いたらしく、顔を上げて振り向いた。
男は男の子に何か話しかけ、男の子は少し考え込むように視線を落とした後、男に向かって小さく頷いて見せた。そして立ちあがると、男に手を引かれるまま歩きだした。
そのときふと、初音は晴海さんが話してくれた昔話を思い出した。
—女の裏切りに腹を立てた王様は、女とその夫とを手にかけて、その後、二人の子どもまで、みんな殺しにしてしまった—
初音ははっとして、思わず駆け出そうとした。しかし、首から下はまるで金縛りにでもなったように、びくとも動かせなかった。声も思うようには出せず、喉が貼りついたように、言葉は喉もとで止まった。それでも初音は懸命に、せめて声ぐらいは出そうとしてもがき続けた。
『だめだよ!そいつについて行っちゃだめだよ!』
ほとんどやけっぱちになって心の中で何度もそう念じたが、男の子の耳に届くはずはなかった。ところが、初音があきらめかけたところで、驚いたことに、男の子が、彼らからは何もない空間に見えるはずの、初音の立っている方へと目をやったのだ。男の子と目が合った、と初音が思ったのと、目の前がまた真っ白になるのとは、ほとんど同時だった。
* * *
気が付くと、初音はまた真っ暗闇の中に佇んでいた。いくらかぼんやりとした気分で立っていると、隣で犬が鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
初音が音のした方へと目をやると、蜂の羽音がして、ぼうっという音とともに辺りが明るくなった。蜂が口から吹いた火を、松明の代わりに、自分の針の先に灯して飛んで行くのが見えた。いったいどこに隠れていたのだろうかと、初音は不思議がった。
その後を追って犬が走り出したので、初音もあわててそれに続く。と、前を行く犬の姿が消えた。初音はとっさに立ち止まったが、目の前の暗闇からまた犬の顔と蜂の姿が現れたので、すぐに歩きだした。
犬の顔の辺りまで来た初音は、犬が黒いカーテンのようなものの間から顔を出しているのだということに気付いた。そのまま前へと進み出て、被さってくる布を払いのけると、まばゆい光が初音の目を射した。
やがて目が慣れて来た初音は、自分がさっき裏側から入った舞台の上に立っていることに気付いてぎょっとした。目下に広がる広場には、大勢の人がいて、みんな一様に舞台上の初音を見ていた。初音のすぐそばに、あの黒犬がいた。黒犬の身体の陰からあの蜂が飛び出してきて、初音の肩の上に止まった。
さっきのオルゴールの音色は、相変わらず辺りに流れ続けていた。そのとき、人混みの中から大きな声が上がった。男の人の声だった。
「アテネオ!」
その声を聞いたとたん、初音の傍らにいた犬が、尻尾を振って声のした方を向いた。そして、一声鳴いたかと思うと、人混みの中へと飛び込んで、あっという間に姿を消してしまった。あの犬の飼い主だろうか、と初音は思った。
頭上から人が囁きあうような声が聞こえてきたので、もしやと思い、初音は顔を上げた。そして、広い天井にびっしりと張り付いている金色の目を初音は見た。
『イサチノミコトだ。』
『イサチノミコトだ。』
『ちがうよ。前のイサチノミコトは、地上でアテネオが目を離した隙に死んじゃったんだってさ。ほんとはうたをうたいきるまで、アキジノキミのウラミから、あいつが守らなければならなかったのに。だから、彼女は今も地の底をさまよっているんじゃないか。あの子はその娘だよ』
『どっちでもいいよ。うたさえきけるなら。ツクモヨキキノキミも、きっとそんなこと気にしないよ』
周りが明るいせいか、さっきほど怖いとは思わなかった。初音がじっと天井を見上げていると、毛むくじゃらのスライムたちがこう囁くのが聞こえた。
『イサチノミコト。』
『イサチノミコト。』
『うたって、イサチノミコト』
その声を合図にしたように、オルゴールの音が大きくなった。初音はちょっとだけ迷ったあと、顎をつんとそびやかしてうたいだした。初音にはなぜかは分からなかったけれど、そうしなければいけないような気がした。
さくら たちばな もものはな
お山が焼けたら かくれんぼ
月を追いかけ かかさまは
青々 あおい 海のそこ
星をもとめて ととさまは
赤々 あかい 空のうえ
さがす者 とて 誰もなく
お山は もとには もどらない
あおい かきのき おみなえし
お山は もとには もどれない
初音はそこまでうたって、口をつぐんだ。音楽は相変わらず流れていたけれど、このうたのほんとうの続きを、初音は知らなかった。
『イサチノミコト』
『続きを。続きをうたってちょうだい』
やがて辺りの景色が揺らいで、薄れ出した。とっさに足元へと目をやった初音は、自分が舞台の上ではなく、岩壁からせり出した平らな岩の上に立っているのだということに気付いた。
そうしているうちに、提灯や屋台の明かりが消えて、本来の暗い坑道が姿を現して来る。天井の金色の点が、一つ二つと減っていった。
そのとき、初音は、母のものをうたってみようかと考え、うたい始めた。
人は みなみな くちはてるとも
神の まにまに かえります…
しかし、そこまでうたって、初音はためらった。改めてうたってみて、なんだか急に、自分の身体に合わないぶかぶかの服と靴とを身につけて、無理に踊ろうとしているような気分になったのだ。
これは母のうただ。戸棚の奥に隠していたくらいだから、きっと母にとって、とても大切なものだっただろう。それに、母がこのうたに込めたものを自分がほんとうにわかっている自信はなかった。そうこうしているうちに、あたりの景色がどんどん薄らいでいく。
そのとき、初音の脳裏に閃くものがあった。自分が考えた、あの歌詞をうたってみよう、と。母の作ったものではなく、自分のものを。この思いつきは、初音にとってとても魅力的だったけれど、同時にとても恐ろしいものでもあった。
初音はしばらくどうしようかとためらって、顔を上げ視線をさまよわせた。すると、天井から初音をじっと見下ろしているいくつもの金色の目が見えた。
—自分の中に出せるものがあって、聴いてくれる相手がまだいるうちは、自分から幕を下ろしちゃだめ—
生前の母が、よく口にしていた言葉が、頭の片隅でくすぶった。初音は、すぐに、まだかすかに流れている旋律にのせて唄い出した。
うたを声に出してみたとたん、そのうたを作ったときに飲み込んだ感情─たとええ途中までは借り物とはいえ、自分が初めて作ったうたを、誰かに聞いて欲しい─それが今、初音の中で突如として膨れ上がった。まるで、朝顔の蔦が少しずつ少しずつ伸びていき、やがていつしか、途方もなく高いところまでたちしてしまうように。
そこにつぼみを結ぶ花たちが、この瞬間、自分の中で一斉に咲き乱れるのを、初音は感じた。
もしも
ちょうちょが 歌 うたい
かえるが 涙 ながしたら
はちは 二人を みつけだし
ととさま かかさま 手をつなぐ
あやめ うめのみ ふくじゅそう
お山は いきを ふきかえす
* * *
目が覚めると、がたがたと揺れるトロッコの中に、初音はいた。顔を上げてトロッコの進む方向へと目をやると、トロッコの縁のあたりに、小さな蜂が一匹背を向けて止まっていた。
「お母さん」
自分の口から飛び出した言葉に、初音は自分でびっくりしてしまった。一度に色んなことがあり過ぎて、頭のねじが何本かとれてしまったらしい。
けれども、初音の中でその考えはとてもしっくりとくるものだったので、それでいいや、そういうことにしてしまえ。どうせ全部夢なのだから、と、決めてしまった。
「お母さん。」
あれでよかったのかな、とたずねようとして、初音はすぐに思い留まった。誰かから叱られたり責められたりしたわけでもないのに、自分からそんなことをきくのは、なんだかとてもばかげたことのような気がしたのだ。
がたんと大きく傾いて、トロッコが止まった。その勢いで、初音はトロッコの中で、ごろんともんどりうって転がってしまった。立ち上がろうとしている初音を尻目に、蜂はさっさと飛び立って、目の前の出口へと向かった。ひんやりとした夜明け前の空気が、あわてて後に続いた初音の頬を優しく撫でた。足元で、まだ咲ききっていないツユクサの青い花が、夜露に濡れていた。
見上げると、紺色の空にはほとんど星が見えなかったけれど、まだわずかに残った星が点々と瞬いていた。西の空に、ひときわ大きな白い星が耀いているのを、初音は見た。
やがて、空が藍色から浅葱色へと移ろい、やがて星は跡形もなく消え去った。東の空へと視線を移すと、遠くに連なる山々の向こう側がうっすらと金色に染まっていた。夜明けだ、と初音は思った。
白々と夜が明けていくその様子は、黄金のたてがみを持つ、ライオンの目覚めを思わせた。澄んだ光を受けて、カラスがぎゃあぎゃあと鳴きながら飛んで行く。
それまで辺りを落ちつきなく飛びまわっていた蜂が、初音の近くまでやって来ると、初音が差し出した右手の指先に止まった。やがて、初音たちがいる辺りにも、眩しい日差しが差し込んできた。すると指先に止まっていた蜂が、朝日を受けたとたん、灰になって散ってしまった。
初音はその指先をじっと見つめた後、おやすみ、と口の中で呟いた。
これから先は、自分の灯りは、自分の手で灯して行こう。どんなに小さくてもいいから、もう二度と、闇夜に迷って立ち止まってしまうようなことがないように。そんな思いが初音の胸の中に広がっていた。
背後からがさがさと誰かが草を掻き分けるような音がして、いたぞ、と声が上がった。正美叔父さんの声だ、と初音はとっさに思った。
振り向くと、山の斜面を数人の大人たちが駆け上がって来るのが見えた。みんな疲れきった顔をして、髪の毛がぼさぼさになっている人もいた。よく知っている人もいたし、全くの見ず知らずの人もいた。
ぼんやりとした頭で、今までのできことは、やっぱり現実のことだったのだろうか、と初音は考えた。お腹がペコペコで、頭がぼうっとしていた。
大人たちに保護されてから初めて、自分が山の反対側まで来ていたのだということを、初音は知った。
後になって知らされたことだが、初音の不在に真っ先に気付いて大人たちに知らせたのは吟太だった。部屋からいなくなっていた初音を探して、一人であの手洗い場まで行ったのだという。その顛末を聞いて、あの怖がりの吟太が、と初音は驚いたものだ。
てっきり怒られるものだと思っていた初音は、毛布に包まれ、問答無用で車の中に押し込まれたきり、誰にも何も言われないのを意外に思った。そして、母が神隠しにあったというのはきっとほんとうのことだったのだ。
山道を行く車の中で横になって揺られていた初音は、昨夜自分が見たものにあれこれと思いをめぐらしていたが、やがて柔らかい羽毛のような眠気に掴まり、その甘やかな両腕で包み込まれてしまった後は、全ての思考が朝靄の向うへと掻き消えた。
* * *
『喫茶スピカ』と書かれたガラス戸を初音が押すと、ドアに取り付けられた大きな鈴が涼しげな音を立てた。店内に入ったとたん、嗅ぎ慣れないコーヒーの匂いが鼻をついて、初音は頭がくらくらした。
お店の中は壁も床も木でできていて、椅子もテーブルも、全体的に落ち着いた色合いの、古めかしくておしゃれな印象を初音に与えた。初音は入口でもじもじしながら、お店の中を見わたした。こういった大人っぽいお店に一人で入ったことなどほとんどなかったので、少し緊張していた。
「初音ちゃん、こっちこっち」
聴きなれた声にほっとして、初音は声のした方へ目をやった。お店の奥のソファ席で、晴海さんが手を振っていた。初音が晴海さんの正面に腰を掛けると、間もなく店員の女の人がおしぼりと水を出してくれた。
「久しぶり。元気そうでなにより」
今日は私がおごるからと、初音のためにココアとケーキと、自分はコーヒーのお代わりとを注文してから、晴海さんが言った。それに対して、初音も挨拶の言葉を返した。お盆はとうに終わり、学校も始まっている。晴海さんも初音もすでに東京へ帰ってきていた。
「それで、私に話したいことってなあに。初音ちゃん」
目の前に運ばれてきたココアをちょっとすすってから、初音は背筋を伸ばして、晴海さんの顔を見つめた。
今日は、初音の方から晴海さんを呼び出したのだ。初音が神隠しにあったときのことを、話すつもりだった。あのあと、村の誰も、初音にその夜あったことを問い質そうとはせず、まるで腫れものに触るような様子すら見えた。村にいた間は初音自身まだ混乱していて、誰かに話す気にはなれなかった。
しかし、東京へ帰ってきてから、少しずつ色んなことを思い出して頭の中が整理されてきたら、今度は、誰かに伝えておかないといけない、という気持ちに駆られだしたのだ。そのとき思い出したのが、晴海さんだった。きっと、彼女だったら、気味悪がったり茶化したりせず、冷静に興味を持って聴いてくれるのではないか、と思ったのだ。
始めは何から話せばよいのか分からず、初音はしどろもどろで話を始めた。やがて、夜中に目が覚めてトイレに行ったとき、吟太らしい人影を見つけ、そのまま山の中へ迷い込んで行ってしまったことから、洞窟の中でよくわからないお化けみたいなものたち相手に、あの童謡をうたってみせたことまで、ところどころあやふやなところもあったけれど、覚えている限りのことを晴海さんに話した。化け物にびっくりして走って転んで泣いたことや、蜂を「お母さん」と呼んだことなんかは話さなかったけれど。
おどろいたことに、晴海さんは小さなレコーダーを持って来ていて、初音の一言一句を録音していた。途中初音の話が前後したりごちゃごちゃしてくると、話を上手に整理してくれた。にこにこしながら「なんとなく、そうじゃないかなあって思ってたんだ。ききとり調査は慣れてるしね」と言っていた。
初音が話し終わると、晴海さんはしばらく黙り込んでいたが、やがて口を開いた。
「貴重な話をきかせてくれて、ありがとう」
この言葉に、初音はなんとなく気恥ずかしくなって、言った。
「自分でもまだ、夢でも見てたんじゃないかなって、思ってます」
「どうかなあ」
何か面白いいたずらを思いついて満足している子どもみたいな笑みを、晴海さんは浮かべてみせた。初音がいぶかしがっていると、晴海さんは言った。
「例えばね。初音ちゃんがきいたっていう、“アキジノキミ”とか、“イサチノミコト”って、実際に、あの地域に関する古い文献に、残っている言葉なんだよ。そんなの初音ちゃんが知っているはずないのに。不思議だね」
初音はびっくりして、晴海さんの顔をまじまじと見つめた。そのまなざしを受けながら、晴海さんはにこにこと初音の顔を見つめ返していた。
支払いを済ませて外へ出ると、晴海さんは大きく伸びをしてから言った。
「実はちょっと迷っていたんだけど、やっぱり決めたわ。私、もう少し大学に残る。そして博士になって、一生かけてでも、あの村の消された歴史を掘り起こしてやる。初音ちゃんの話をきいていたら、そうしなさいって、誰かに言われているような気がしてきたの」
この言葉に、初音はなんとも言えない、ふわふわとした気分になった。別れのあいさつをしてから、初音は踵を返して立ち去る晴海さんを見送った。
そのときふと、母のあの譜面に書かれた言葉を思い出して、晴海さんを呼び止めた。
「晴海さん。“イテュス”って、なんだか知ってますか」
晴海さんはきょとんとして初音の方へ振り向いたが、ちょっと考えるようなそぶりを見せてから言った。
「ギリシア神話にそういう名前の人物が出てきたと思うけど。確か、両親のいがみあいかなにかに巻き込まれて殺されちゃった、男の子じゃなかったかな」
自分も家へと向かいながら、初音はふと、あの朝見た白い星に思いを馳せた。あの星は乙女座のスピカによく似ていたけれど、今の時期はほとんど見えないはずだった。
もしかしたらあの星は、竪琴を胸に抱いた男の子の星なのかもしれない。それも、奏でるたびに素晴らしい真珠を産み落とす、真珠の竪琴を。
初音は、もう、真珠の竪琴を欲しいとは思わなかった。あれは母のいうとおり、初音のものではなく、母のイテュスのためのものだったのだから。その代わり、あの神隠しにあった夜、初音は自分の竪琴を手に入れたのだ。
そんなことを考えながら、初音はあの童謡を口ずさんだ。もう誰もかれもが忘れ去ってしまった、かなしい記憶の切れはしが織り込まれた、あのうたを。
(終)
表紙画像 (C)柴桜様 『いろがらあそび5』作品No.22
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