星追いのワタリガラス1.星ノ森
――季節の移ろいと、星たちの気配。それだけが、私の道しるべ――
辺境の地に暮らす少女スグリ。ある出来事で南の戦乱の地へ旅立った少女は、異郷の地で苦しみながら、それでも前を向き進んでいく。
戦国時代の日本をイメージした世界のファンタジー長編の1話目です.
よろしければ,お付き合いよろしくお願いします.
表紙画像 ©柴桜様 『いろがらあそび1/2』作品No.3
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1
星追いの祭りは、毎年、南山の麓に生えるコブシの大木がその枝先に大きなつぼみを結ぶ頃行われる。それは、スグリの生まれ育った星ノ森の里での、古くからのしきたりであった。
南から吹きこむ花の香りを含んだ暖かい風が、北山の向こうに住まうホシたちを里のある南の方へと呼びよせるのだと、祖母のミクリがいつか言っていた。
ホシたちは、里へ疫病や諍い、罪悪や憎しみの種をもたらすのだという。星追いの祭りは、里へと降りてきたホシたちをもといた北山の向こうへと追い返すための儀式であった。
里のぐるりを取り囲む山々の頂はいまだ厚い雪に覆われ、里では朝夕になると、吐く息がうすら白く空を漂う、早春の夜。
里の男たちはホシを追い立てるため、彼らの嫌う炎—松明を手に手に、里の北口へと集う。女子どもはといえば、里の南の小高い丘に建つ集会所へと引きこもり、一つの炉を囲んで皆で夜を明かすのだ。
集会所の一隅には、天井から縄梯子が垂れ下がった場所があり、そこから物見櫓へと登ることができる。里の女たちは、儀式が執り行われている間、集会所の外へ出ることは禁じられていたが、唯一、その物見櫓へと登り、一部始終を見届けることの許された者がいた。
「ヨタカ」と呼ばれるその者は、里の中でも定められた条件を満たす者の中から、一代に一人だけ選ばれる。スグリがもの心つくころからずっとその役割を演じていたのが、他ならぬスグリの祖母である、ミクリであった。
いつもの簡素な出で立ちとはうってかわり、いつか里で見た花嫁のように着飾ったミクリが、炉端に座りこんで何やらものものしい呪い言を唱える。
その後縄梯子で物見櫓へと登っていく姿を、養母のナナエや義理の兄姉弟妹たちとともに見守りながら、いつか自分が祖母にとって代わるときが訪れるであろうことを、いつからかスグリは予感し始めていた。
誰かからはっきりと言われたことなど一度もなかったけれど、それは普段から、養母や義兄姉弟妹(きょうだい)たち、あるいは他所の家の母親たちの言葉や態度の端々に、いやというほど見え隠れしていたのだから。
里の女たちがひそひそと他愛のない話に興じる話し声や、炉の中でぱちぱちと薪がはぜる音、どこかの家の赤ん坊が時折むずかる声。
集会所の片隅で丸くなったスグリはそれらを子守唄がわりに聴きながら、自分以外何人も立ち入ることのできない、里のどこよりも高い所にひとり座すというのは一体どんな心地がするのだろう、と考えずにいられなかった。
2
「スグリ」
朝の食事を済ませた後、ナナエはスグリを呼び寄せた。北の大川で洗濯をするため、我先にと外へ飛び出して行く義兄姉弟妹たちをうらめしく見送りながら、スグリはナナエから小さな包みを受け取った。栃の葉をはぎ合わせて作ったらしいその包みは、スグリの手にずしりと重く感じられた。
「これをヨタカ様のもとへ持って行って頂戴。急がなくてもいいけれど、日が暮れる前には帰って来るのよ」
小包にちらりと目を落としてから、スグリはナナエの顔を見ずに、小さな声ではいと返事をした。
今日はスグリの墨入れの日だ。満ちた月が針のように細くなり、そしてまた満ちるまでの間に一度めぐって来るこの日が、スグリにとっては最も憂鬱な日であった。
「いい子ね。それでは行ってらっしゃい、荷物を落とさないように気をつけて。それと、あなたのお祖母様といえども、ヨタカ様には失礼のないようにね」
「はあい」
大きな声で返事をしてから、スグリは携えていた網籠の中にその包みを仕舞い込んだ。すぐさま家を出て、義兄姉弟妹たちが向かった方向とは反対のほうへと歩き始める。
そのとき、斜め向かいの家に住む、ずいぶん年をとった隠居の女性が、自分の家から出てくるところと鉢合わせをした。
女はスグリと目が合った途端、いまいましげに顔をしかめ、さっと菰を下ろして家の中へととって返してしまった。スグリはつとめて平静を装いながら、その家の前を横切った。
背後でカサカサと帳を動かす音が聞こえ、その女が背後からスグリの様子を伺っていることに気付いていたが、そ知らぬふりをした。
蝉たちの鳴き声に交じって、後ろからナナエの甲高い声が聞こえてきた。
「こら、トーマ、ソーヤ!二人してふざけていないで、前を向いて歩きなさい。カガリ、弟たちをちゃんと見ていてあげて。ほら、サユリ、下ばかり向いていたら前が見えないでしょう」
3
スグリの暮らす星ノ森の里は、四方を山に囲まれた盆地にあった。その北山のふもとに、いくらかの家々が軒を寄せ合い、里を形づくっていた。
山を越えた向こう側には、スグリたちとは異なる言葉を話し、見慣れぬ衣服を身にまとった人々の暮らす里があるのだと大人たちからきかされていた。
けれど、スグリをはじめとした里で生まれ育った者たちの中に、それを自分の目で見たことのある者などほとんどいなかった。これから先も、きっと自分が、その者たちのうちに数え入れられることはないだろう。
そう思う度、何かが自分の中からふわふわと抜け出そうとしてもがいているような不思議な感覚と、叫び出したいような、泣き出したいような、何とも言えない気持とに、スグリは駆られるのだった。
里の南に広がる湿原を抜けて行った先、寄合宿の建つ丘のふもとに、「ヨタカ」の住む庵はあった。ヨタカは普段、里から離れた場所で暮らし、里の者たちとはほとんど関わらなかった。
彼女らが人と接するときといえば、祭事や何かしら里の衆で話し合わなければならないことが起こったとき、あるいは、里の誰かが、他の者に知られたくない事柄について話をきいてもらうため、ヨタカの元へこっそりとやって来たとき。
それはスグリが生まれるずっと前から続く習わしであり、里の誰もがもの心つく頃にはそれを日々の生活の一部として受け入れていた。
湿原を通ってミクリの庵へと続く道を、鬱蒼と茂る丈高い草々をかき分けかき分け、足の裏にひんやりとして柔らかいコケの感触を一歩一歩踏みしめ確かめながら、慎重にスグリは進んで行った。
道は細く、里の大人たちから教えられたしるしに気を配って進まなければ、すぐに踏み誤って底なしの沼に足を取られてしまう。
湿原の道を、子どもたちは毎年春先の祭りの夕方、大人たちの後について寄合宿を目指し歩きながら、自分たちの耳目と手足とに染み込ませていく。
去年の春、初めて一人でミクリの元まで行かされたとき、おそるおそる、ほとんどはいつくばるようにしてミクリの庵まで辿りついたことを、スグリは今もはっきりと覚えていた。
子どもの頃から、沼地で足を取られそのまま帰らぬ人となった者たちの話を、夜毎の、養母の語る話の中で聴かされ続けた末、スグリの胸の中には湿原の恐ろしさばかりが刷り込まれていたのだ。そのときからもう何度もこの道を通り、今ではほとんど迷うことなく、道中の景色をのんびりと楽しみながら進んで行けるほどになっていた。
スグリの衣擦れやアシの枯れ草をかき分ける音をのぞけば、どこか遠くで小鳥たちがせわしげに鳴き交わす声と、地面の下で水がさらさらと流れ行く音とが響き渡るばかり。ふと立ち止まり、スグリは湿原を見わたした。
後方には星ノ森の里が、そして前方には、スグリの背の倍もありそうな葦や蒲が其処此処に立ち並ぶ湿原が広がっている。遠くには湖が、薄青い灰色の空を映して静かに広がり、足元にはカワヂシャが、可憐な青い花を咲かせていた。葦原の合間にぽつりぽつりと佇む榛の木の姿が、スグリの目にはどことなくものさびしげなものに見えた。
あたりにはうっすらと靄が立ち込め、スグリが身にまとう樹皮でできた夏衣も幾分しっとりと水気を含んでいるように感じられた。
頬に触れる空気は、秋の、そしてそれに続いてたちまちのうちにやって来るであろう、永く厳しい冬の気配をかすかにはらんでいた。
突如、強い風がスグリの背後から吹き抜け、耳飾りがチリチリと音を立てた。その直後に、けたたましいカラスの鳴き声がすぐそばから聞こえてきた。
スグリがぎょっとして音のした方へ目をやると、いつの間にか大きな鴉が二羽、近くに立つ榛の木の枝先にとまっているのが目に入った。スグリが見止めた後も、鴉たちはスグリの方をじっと見つめたまま鳴き続けた。
なにとはなしに髪の毛が逆立つような感覚に襲われ、スグリは慌てて踵を返し、先ほどよりも心持ち足早に歩き始めた。
4
日が南天の真上にかかるよりずっと前に、スグリはミクリの庵へと無事たどり着いた。朝の肌寒さは消え去り、じっとりと汗ばむような陽気だ。入口の壁に取り付けられた鳴子を鳴らした後、いつもどおり大きな声で、ナナエから教え込まれた口上を述べる。
「ヨタカ様、ことわりまして申し上げます。父は、大キリムの息子の小キリムの息子のマシケ、母は、マナリの娘のミホロの娘のナナエ。本性は"ワタリガラス"の、スグリです。我が身にしるしを刻みつけるため参りました。なにとぞ御前に罷り出ますことをお許し下さい」
しかし中から返答はなく、耳を澄まして待てども待てども、庵の中で人が身動きするような物音も聞こえてはこなかった。しばらく待ってから、スグリはおそるおそる、入口に垂れ下がった帳を持ち上げ、その中を覗き込んだ。
「おばばさま」
入口の土間から更に奥へと進み、座敷まで覗いてみたが、ミクリの姿はなかった。
庵の中は暗く、明かりとりの窓にも帳がおろされ、屋内の東側にしつらえられた小さな祭壇の灯りも消されていた。帳から手を放し、スグリは外へと出た。
その生活場所を定められ、また年をとって遠出することもままならないミクリの行き先は限られている。庵の入り口から、裏手にある雑木林の方へとスグリは向かった。
雑木林を走る、一見けもの道のような小径を道なりに行くと、突如日が射し、小さな広場のようなところへと出た。そこはヨタカたちだけに代々伝えられているという薬草畑であった。ミツバにドクダミ、オトギリソウにトリカブト。そのほかに、スグリがまだ覚えきれないほど沢山の薬草たちがここで育てられていた。
ドクダミが茂る一角に目をやると、こちらに背を向けてうずくまるミクリの姿があった。その傍らで所在無げにあちらこちらをうろうろしているのは、白鷹のセツナだ。スグリがミクリに声を掛けようと口を開いたのと、ミクリがうずくまったまま言葉を発したのとはほとんど同時であった。
「スグリかい」
「はい」
思わず身を固くして、スグリは応えた。ヨタカに見える際述べるべき口上はきれいに頭の中から抜け落ちてしまっていた。
スグリが返事をするかしないかのうちに、ミクリがやおら立ち上がり、スグリの方へと向き直った。その途端セツナが飛び上がり、少し離れたとろに立つ木の枝に留まった。
ミクリはとうに五十を越し、里の中でも高齢に数えられる。しかしその年とは不釣り合いなほど容貌は若々しく、髪には白いものが幾筋か混じっていたが、それがほとんど気にならないほどの豊かな栗色の髪の持ち主であった。
右はスグリと同じはしばみ色、左は灰色をした、切れ長の眼と、その上には眉間の辺りからこめかみのあたりへ緩やかな弧を描いて斜めに伸びあがる眉。里の女たちの中でも長身で、卵型をした顔の顎のあたりには年相応のしわやたるみがほとんど見られず、肌は透き通るように白い。
その相貌や声音、佇まいや所作の中にも、静かな冬の夜空に浮かぶ満月のような、冴え冴えとした冷たさを感じさせる女性であった。
彼女と相対する度、スグリは何とも言いようのない居心地の悪さを感じるのであった。
ミクリは確かにスグリの実母の母親—つまりは祖母であり、最も血のつながりの近い存在であった。しかし、生まれて間もなく実母が亡くなり、マシケとナナエとの元へ預けられ育てられたスグリには、彼女が自分の祖母であると実感できるような記憶が全くなかった。
「おばあさま」と言われ真っ先に思い浮かぶのは、いずれも今は亡き、養父の母スセリと養母の母ミホロ、この二人だ。
実母であるという、マツリという名の女性に至っては、その面影すら思い描けず、遺品である長笛だけがその存在をスグリに知らしめる唯一の証しであった。
いつもどおりの冷ややかなまなざしでスグリをじっと見つめた後、呟くようにミクリが言った。
「なんの用だい」
緊張して一瞬のどの奥が貼りついたような感覚に襲われたが、小さく咳払いをしてからスグリは答えた。
「今日は私の墨入れの日です。あとこれ、母さんから、届け物を頼まれました」
携えていた網籠の中から包みを取り出し、掲げて見せると、ミクリはスグリの方へと歩みよった。まじまじとその包みを眺めまわした後、静かに言った。
「そうだったかね。近頃、物忘れがひどくなってしまったようだ。それにしても、あんたの母親は、相変わらず律儀な子だね。…おいで。茶でも飲んでからにしよう」
ミクリは、摘み取った野草をどっさり入れた籠を手に、スグリが来たけもの道へと分け入っていった。すぐさまスグリの背後で、セツナが飛び立つ音と、そのはずみで木々が立てる木の葉ずれの音とが聞こえた。
スグリは慌ててミクリの後を追った。
5
「さあ、お飲み。ドクダミの茶だよ」
ミクリから差し出された椀を、スグリはおそるおそる受け取った。ミクリが手早く墨入れの仕度を整えていくのを、淹れたてのお茶を啜りながら、スグリはじっと見つめていた。
茶を淹れるための湯を沸かしている間に、先ほど収穫された野草は水で洗われ、紐でくくられ天井から吊り下げられていた。
ミクリの、養母のナナエよりもずっと手際よく働く姿は、見ていてとても気持ちがよく、ついつい見入ってしまうのがスグリの常であった。
座敷の中に、セツナの姿はなかった。セツナはミクリによく懐いていたけれど、決して座敷の中には入って来ない。庵のそばの雑木林が彼女のねぐらであった。
星ノ森に住む子どもたちはみな、生まれてから十一回目の冬を越えると墨入れが始まる。特別な形をした刃物と、青や赤、黒の染料とを使って、腕の肘から手の甲にかけて、文様を彫り込んでいくのだ。
右の腕には、その子どもの父方の家系を表わす文様を、そして左腕には、母方の家系を表わす文様が描かれる。この模様の刻み方や、それぞれの模様の意味をよく知っているのはヨタカだけであった。
縁組が決まった者たちには、さらに顔にも墨が入れられるが、そこから先はその子どもの親の仕事だ。
墨入れのときには、彫り込んでいる間と、そのあと数日間まで続く痛みがある。またその作業にも時間がかかるため、一度に全て仕上げることはできない。そのため、里の子どもたちは交代でヨタカの元を訪れ、数日おきに少しずつ、墨入れを完成させていくのだ。
その子の痛みに対する我慢強さや、染料が馴染みやすい身体かどうか、といったことによる差はあれど、ほとんどの子は十四回目の冬までに文身が完成する。
スグリはこの春から墨入れを始め、今は左腕の肘からこぶし二つ分ほどのところまで出来上がっていた。
仕度を整えたミクリは、スグリがお茶を飲み干す姿をまじまじと見つめたあと、ぽつりと呟いた。
「お前は、年々あの子に似てくるね」
茶を飲み干した椀をミクリの方へ押しやりながら、少しためらった後スグリは言った。
「あの子って、マツリお母様のことですか」
「ほかに誰がいるんだい。ナナエとお前とを比べたところで、似たところなんてほとんどないじゃないか」
容赦のないミクリの言葉にスグリは閉口した。なんとなくみじめな気持になって、膝の上に置いた自分の手が小刻みに震えるのをスグリは感じた。スグリの心中を知ってか知らずか、ミクリは言葉を続けた。
「せいぜい、中身まで似ないように気をお付け。では、始めようか。腕をお出し」
この言葉に、腹の中がきゅっと縮まったような心地を覚えながらも、スグリは左の袖をまくり、肘より上までを覆っていた手甲を外した。
「お願いします」
そう言って腕を差し出すと、ミクリはスグリの腕をそっとつかんだ。前に彫り込んだところを注意深げに眺めまわすと、呟くように言った。
「今までのところは、色がしっかりと残っている。言いつけどおり、薬を毎日擦り込んだようだね、いい子だ。これなら、彫り直しの必要はなさそうだ」
ミクリがそう言って、おもむろに墨入れの道具を手に取ったのを見て、スグリはぎゅっと眼を瞑り、息を止め、墨入れの後にいつもミクリがふるまってくれるクズ湯の味をしきりに思い出そうとした。
6
その日の墨入れで、左腕は残すところ手の甲だけとなった。ひりひりと痛む左腕のことをできるだけ考えないようにしながら、スグリはナナエがよそってくれた雑煮の椀を受け取った。
そのとき、ナナエがちらと自分の腕に目をやったのに気が付いたが、スグリはそ知らぬ顔をして食事に集中した。墨入れが終わるまで何人も、その進み具合を本人に問い質したり、文身を見たりしてはいけないことになっていた。
スグリはふと、傍らで雑煮を掻きこむ義兄と義姉それぞれの腕に目を落とした。スグリより二つ年上のウリュウはすでに両腕の墨入れを終え、一つ上のカガリは片腕の墨入れを残すばかりとなっている。
恐らく今度の冬までに、カガリの文身は完成するだろう。そうなれば次の春から夏までの間、カガリには里の若者たちから結婚の申し入れがいくつかあるはずだ。
今、里の中で墨入れを終えているのは、里長の次男シュマと、里の外れに住むムビヤンという青年の二人きり。あとは、カガリと同年の少年たちが数人いるばかりだ。
冬の間、夕餉の席での話題は里に住む若者たちの品定めで持ちきりとなるだろう。
ウリュウの方は、ずいぶん前から相手を探しているが、里に丁度いい年頃の娘がおらず、なかなか縁組が決まらずにいた。しかし、はす向かいに住むカガリと同い年の少女サマニが墨入れを終えれば、彼女が相手に決まるのだろう。
そして次には、二度目の冬がめぐってくるまでに、スグリの文身ができあがる。椀を手にしたままぼんやりと物思いにふけっていたスグリは、そこまで考えて思わずぞっとした。
きっと、自分には縁組の話なぞ持ちあがりはしない。代わりにスグリを待っているのは、ヨタカとなる資質の有無を試す儀式と、ミクリの庵で暮らす日々だ。
にわかに胸がふさがるような心地がして、スグリは手にしていた椀の中をじっとのぞきこんだ。すると、その様子を見とめたナナエが言った。
「スグリ、どうかしたの。椀の中に、虫でも入っていた?」
スグリははっとして、ナナエの方を見やった。そのときふと、昼間ミクリから投げつけられた言葉を思い起こした。
ナナエの、川底の黒石のような色の瞳や、赤みの強い白い肌、えらのはった丸みのある顎、秀でた額を縁取る樹皮色の巻き毛。彼女の容姿の特徴は、そのどれもがスグリの持つものとは違っていた。
けれどもスグリにとっての母親は、生まれてこの方、彼女ただ一人であった。名前と祖母の話とでしか知らない女性は、スグリにとって見ず知らずの他人と変わりないのだ。
首を横に振りながら、なんでもない、と応えた後、椀の中身を一気に口の中へと掻きこんだ。
7
日を追うごとに日の照る間が短くなり、里のまわりでも蝉たちの声がすっかりなりを潜めたある日の日暮れごろ、南山の中腹で赤い狼煙が上がった。行商人の訪れを告げるため、年番が上げたものだ。
里の中では、案内役の任にあたる家がいくつか決められていて、それぞれの家が数年に一度あたるよう、順繰りにまわっていく。
今年はスグリの家が商人を迎えに行く案内役の当番にあたっていた。案内役には、その家の家長だけでなく、その家の子どもも駆り出される。通例その家の跡取りとなるべき子ども、スグリの家でいえば、ウリュウがそれに割り当てられるはずだった。
狼煙が上がると、案内役は直ちに南山を越えて商人を迎えに行かなければならなかった。もう日が暮れてしまっていたため、出発は明日の夜明けに決まった。その支度の最中、義父のマシケは突然里長のカタヌシの家へと呼びだされた。
支度をとうに終えた頃、カタヌシの家から帰ってきたマシケの口から思いがけない言葉が出た。
案内役の道連れに、ウリュウだけでなくスグリをも連れて行く、というのだ。南の山は高く険しく、女が南の山に立ち入ることは禁じられていた。男ですら、見張りの年番や商人の案内役といった役目のある者のほかは許されていなかった。
家族一同言葉を失ってマシケの顔をじっと見つめた。スグリも、オヒョウの皮を裂く手を思わず止めて、ごわごわのひげで覆われた、赤黒いマシケの顔に見入った。まだ言葉もおぼつかない末娘のサユリだけが、きょとんとした様子で家族の顔を見まわしながら、言葉にならない声を上げている。
いの一番に口を開いたのはナナエだった。
「ウリュウはともかく、女の子のスグリにあの山を越えさせるなんて、一体何を考えているのよ」
鳶色をした太い眉をしかめながら、マシケは応えた。
「おれが決めたことではない。カタヌシに言われたのだ。ヨタカ殿のご意向だと。」
ナナエがほとんど悲鳴に近い声をあげた。
「なんですって!」
その後はしばらく、マシケとナナエとで話こんでいた。
スグリは動揺して、家族の顔を見まわした。義姉のカガリは、ずっと続けていた糸縒りの手を止め、怪訝な顔でマシケとナナエとのやりとりを眺めていた。しかし、スグリの視線に気がつくと、スグリに向かって小首を傾げてみせてから小声で言った。
カガリの黒みがかった灰色の瞳が囲炉裏の焔を受けて輝き、考込んでいるような表情と合間って、なんだかやけに大人っぽく見えた。
「昨日あたしが墨入れをしてもらった後、ミクリ様から、今日中に自分の庵を訪ねるようにって、カタヌシへ伝言を頼まれたの。このことだったのかしら。…あの人のご指名が、あたしでなくてよかった。あの山を越えるのなんて恐ろしくって、あたしはごめんだわ」
そう言うと、自分の仕事に再びとりかかった。
双子の兄弟トーマとソーヤとは、どうして自分たちではなく女のスグリなのかと不満をあらわにしながら顔を見合わせている。末娘のサユリは、ナナエにぴったりとよりそったまま、この頃気に入っているらしい、ウリュウが作ったクルミの殻の鳴子で遊んでいた。
ウリュウだけが眉間にしわをよせ、口をへの字に曲げたまま、膝の上に置いた自分の手元へ目を落としていた。ウリュウはスグリの視線に気が付くと少し顔をあげ、いまいましげにスグリを一瞥してから、すぐさま顔をそらしてしまった。
しばらくして、マシケとナナエとの話し合いは終わった。ナナエは早速スグリの支度にとりかかったが、なおも納得しかねる様子で、支度を手伝うカガリとスグリの二人に聴かせるでもなく、ぶつぶつと一人ごちていた。
「ヨタカ様は、一体何を考えていらっしゃるのかしら。昔から、あたしにはわからないようなことを色々とお考えの方だとは思っていたけれど」
干した粟餅を丁寧に栃の葉で包みながら、カガリが言った。
「そんなことをいちいち考えていても仕方ないじゃない。あの人のご意向とあっては、カタヌシ様だって逆らえないでしょう。とにかく、何かしら考えがあるものと思っておくしかないじゃない」
こういったとき、カガリの気性は母親のナナエより父親のマシケに似ている、とスグリはつくづく思うのであった。
顔かたちも、立ち姿や鼻からあごにかけてのつくりはナナエとカガリとでよく似ていたが、目元については、どちらかといえば丸目で黒目がちのナナエに対して、カガリは父親ゆずりの、少しつり上がった切れ長の目をしていた。
でもねえ、と呟いたあと、スグリの方をちらと見やり、ナナエは言った。
「スグリ、あなた何か心当たりある?」
その問いに、スグリは大きくかむりを振って見せた。
「なんにも」
平静を装いながらも、内心スグリは今にも踊り出してしまいそうな心持だった。死ぬまで見ることはないと諦めていた南山の向こうへと、行くことができる。
相変わらずむっつりと黙りこんでいるウリュウの様子が不安の種ではあったけれど、いまだ見ぬ景色をあれこれと思い描きながら、ほころびそうになる口元をスグリは懸命に引き結んだ。
その夜、囲炉裏の火も消えた部屋の中で義兄姉弟妹たちと身を寄せ合って床についたが、胸がどきどきして、なかなか寝付けなかった。しかし、外で吹きすさぶ風の音と、家族の寝息を聴いているうちに、いつしか眠りに落ちた。
〈続〉