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星追いのワタリガラス2.はじめての遠出

 翌朝、東の山の端に光が差し始める少し前に、マシケ、ウリュウ、そしてスグリの三人はそれぞれに荷を背負い、家を後にした。そして里の南口で待ちかまえていたカタヌシから洗礼を受けた後、南山へと向かった。
 里から南山への道は、ミクリの庵へと向かう湿原の道ただ一本だけだった。立ち込める霧の中を、スグリたちはマシケを先頭に、黙々と進んで行った。
 ここ数日のうちでも、とりわけ冷えこんだ日だった。
 湿原は一面紅葉していて、スグリたちの足元から湖のほとりまで、鮮やかな赤色で埋め尽くされていた。吐く息は熱を持った白い煙となって顔や髪にまとわりつき、たちまちのうちに冷たい水のしずくへと変じてしまった。
 朝も早い頃のこととて、地面には霜が降り、一歩一歩踏みしめるたび、脚絆と、鹿革の長靴ごしに、足の下でさくさくと霜が踏みしだかれるのを感じた。
 キンと張り詰めた冷たい空気が、灰色の空に日の光をさえぎって重々しく垂れこめる雲の色が、空を飛ぶ鳥たちの哀しげな鳴き声が、あらゆる草木がその呼吸を止めてしまったかのような空気の匂いが、冬がすぐそこまでせまってきていることをスグリたちに伝えようとしていた。
 今日自分たちが迎え入れる人物は、雪が降るまでに星ノ森を発つことができるだろうか、とスグリはあやぶんだ。
「今度の客人は、我々の里でひと冬越すかもしれないな。今年は、随分と来るのが遅かった」
 まるでスグリの心の内を読み取ったように、マシケが呟いた。スグリはふと我に返り、前を歩くマシケの後ろ姿を見やった。
 スグリとマシケとの間を歩くウリュウが、いつもどおりの、どこか甲高い声といやみっぽいもの言いとでマシケに応えた。
「そしたらカタヌシ様のお宅は、ひと冬の間さぞかしにぎわうだろうな。みんな里の外のミズホのクニのことをいつも知りたがっているから、手みやげ持って押し掛けるよ、きっと」
 ふん、と鼻を鳴らした後、いつもより低く太い、少し感情を押し殺したような声でマシケは言った。
「そんなこと、カタヌシ様がお許しになるものか。監視のもと、おとなしくひと冬越してもらって、静かに我々の里から去ってもらうさ」
 そのもの言いにただならぬものを感じて、スグリはマシケの方を見やった。それに応えるように、マシケがぽつりと言った。
「ミズホびとは、恥知らずだ。気まぐれに里の女たちをたぶらかして連れ去ろうとする。まるで足元に落ちている木の実や木の葉を拾って持ち帰るようにな」
 そのやりとりの後、南山へたどり着くまでの間は三人ともずっと押し黙ったままだった。途中、ミクリの庵に立ち寄り、洗礼を受けた。
 ミクリの庵を後にしてしばらくした頃、スグリはふと視線を感じて、あの物見やぐらの方をみやった
 すると、そこからスグリたちを見降ろしていたらしいミクリの、はしばみ色の瞳とぶつかった。防寒具ひとつ身にまとわずやぐらに立つミクリは、いつもよりずっといかめしくて恐ろしくて、神聖なものに見えた。
 スグリはあわてて目をそらし、ひたすらに自分たちの進む方向だけを見て歩き続けた。

 枯れかけたススキやシダを掻き分け掻き分け、けもの道のような道を通み、スグリたちが南山の中腹までたどりつく頃には、日はすっかり空を覆い尽くし、霧を払いさっていた。
 ウリュウは今年初めて案内役にあたるため、マシケは道すがら、道ともいえない道のそこかしこにある目印を、ひとつひとつ彼に示しながら進んでいた。
 自分がここへ来ることはもうないだろう、とマシケの言葉のほとんどを聞き流しながら、ずっと足元ばかり見つめていたスグリは、木の間から不意に自分の目へと差し込んできた日差しに思わず顔を上げた。そして木立の合間から崖下の方へと目をやり、その光景に目を奪われた。
 年中白い雪を頂く山々の、少し下あたりはすでに木々が赤や黄に染まり始めていた。日の光を受けて、山裾はまるで燃えているように見えた。
 眼下に広がる紅の湿原の、そのまた向こう、ひと叢の雑木林のこう側に、星ノ森の里はあった。
 その背後にそびえる北の山のふもとに、点々と軒を寄せ合い立ち並ぶアワの粒ほどに見える家々。そのいくつかからは、朝食の仕度のためだろうか、細い煙の筋が立ち上っていた。
 ミクリの庵のあたりから眺めたときよりも、この場所から見る星ノ森はもっとずっとちっぽけで、頼りないものに感じられた。星ノ森は、険しい山々に取り囲まれたくぼ地の片隅にぱらぱらと蒔かれた、小さな粒のあつまりでしかなかった。
 そのときふと思いついて、北山の向こうを見やりながら、スグリはマシケに声をかけた。
「父さま」
「どうした」
 振り返りもせずに返事をしたマシケに、スグリは尋ねた。
「南山の向こうには、ミズホのクニがあるんでしょう」
「そうだ」
「それなら、北山の向こうには、いったい何があるの」
 南に人が住むのなら、北にも何かがあるのではないか。スグリはふと、そんな考えにとらわれたのだ。スグリの問いに、しばらくマシケの返答はなかった。
 なんとも言えない重苦しい沈黙の後、マシケは言った。
「なにもない。ホシたちがいるだけだ」
「ほんとうに?どうして?」
 思わず畳みかけるような言い方になりながら、スグリはマシケにさらに尋ねた。すると、マシケがあからさまに不機嫌になって、吐き捨てるように言った。
「かつては北山の向こうにも、人はいた。我々とよく似た言葉を話し、似た格好と食物と、生活とを好み、我々とは少し違う姿形をした、いくつかの民が。しかし、既にその血は絶えた。ホシたちに、のみ込まれたのだ。北の山の向こうに、もう生きた人間はいない」
 気まずい沈黙が漂ったまま、一行は山道を歩き続けた。
 しばらく進むと、やがて途上に小さな小屋が見えてきた。見張りの年番の仮宿であった。年番は例年二人いて、春から秋にかけて山の南向こうの小屋で過ごす。そして、南から商人がやってくると、一人が山を越え、山のこちら側にある小屋へとたどり着く。
 そこで商人の来訪を告げる狼煙を上げ、迎え役がやって来るまでその小屋に留まるのだ。
 小屋の入口あたりに、見覚えのある顔の男が立ってこちらに手を振っていた。マシケがそれに小さく手を振り返して、二人で二言三言交わした。スグリにはわからない、合言葉のようなものだった。
 一行はそこで立ち止まることなく、そのまま山道を進んで行った。
 さらに進んで行くと、ほら穴が見えてきた。大人であれば屈みこんでようやく通れるかどうか、といった大きさのものだった。
 その前まで来ると、マシケは言った。
「ここだ。この洞窟を通って、山の南側へ出る」
 てっきり山をそのまま登って越えると思っていたスグリは、面食らって思わずウリュウの方へ目をやった。
 ウリュウにとっても思いがけないことだったらしく、スグリとほとんど同時にスグリの方を振り向いて、二人は目を見交わすことになった。彼はなにやら恥入った様子を見せ、すぐさま顔をそらしてしまった。
「この道は本来、案内役の家の男たちと、里長しか知ることは許されない」
 そう言って、マシケはスグリの方をちらと見やった。洞窟の入り口でいったん立ち止まると、マシケは地面にしゃがみこんだ。
 腰に携えていた皮袋の中から松明の棒と火打ち石とを取り出し、松明に火を付けると、再び立ち上がった。
「中は月のない夜道よりも暗いうえに、地面は滑りやすい。気を付けろ」
 松明を掲げるマシケの後に続いて、ウリュウとスグリとは、恐る恐る洞窟の中へと入って行った。

 洞窟の中は湿っぽくて、そこかしこから水がしたたり、流れる音が聞こえてきた。急な斜面を、手で岩をつかんだまま足場を探り探り降りて行った。
 ごつごつとした岩肌は濡れて滑りやすく、いく度かあやうく滑り落ちかけ、そのつどスグリは息をのんだ。
 少し前を行くウリュウは、その度短い叫び声を上げては、気恥ずかしそうに咳払いをしていた。ときおりマシケが、ウリュウとスグリが無事付いて来ているかを確認するためそれぞれの名を呼んだ。
 ウリュウもスグリも足場を探すのに懸命で、それに短く返事をするだけで精いっぱいだった。
 はじめは背後から届いていた日の光もやがて届かなくなり、先頭を行くマシケの松明だけが頼りとなった。
 マシケの言葉通り、洞窟の中は月のない夜よりも暗かった。影が幾重にもかさなって鼻先にまでまとわりついてくるような、息苦しいまでの闇だった。
 空気は凍てつくように冷え切っていて、むき出しの顔はもとより、襟足まである皮の頭巾や、内側にウサギの毛皮を縫いつけた鹿皮の長靴も手袋も湿り気を帯びて、まるでむき出しになっているかのように、耳や手先足先はかじかんだ。
 しばらくそうして降りていくと、とうとう足元が平らな地面にたどり着いた。いくらかほっとしてスグリは降り立った。それを立ち止まって見届けたマシケは、再び歩き始めた。
 帰りにはあの斜面をまた登るのだと思うとぞっとしたが、そのことはあまり考えないようにした。
 その後はずっと、平坦な岩場を黙々と歩き続けた。途中、小さな祠があるのに気がついて、スグリは声をあげた。
「父さま、あのほこらはなあに」
 なんでそんなこと、と言わんばかりの腹立たしげな表情でウリュウが振り返ったが、マシケの方は特に気にとめる様子もなく応えた。
「境の神様だ。この祠を挟んで、北が我々の土地、南がミズホのクニの領土と決められている」
「誰が、なんのために決めたの」
 スグリがたたみかけて訊ねると、マシケは少し黙り込んだ後言った。
「さあな。おそらくは、我々の祖先だろう。我々がここから先へ行ってミズホびとの争いや搾取に巻き込まれないように、とでも考えたのかも知れん。ミズホびとは、この世の果てまでも、自分たちの欲望のままにむしりつくすことが許されていると思い込んでいるからな」
 これでこの話はおしまいだ、とでもいうように、マシケは足を速めた。そのうちに、先ほどよりもずっと緩やかな登り坂に突き当たった。
 そこを登ると、まぶしい日の光がスグリたちの目を刺した。南の山の、南側の中腹へとたどり着いたのだ。
 そこから先は、スグリが初めて目の当たりにする、星ノ森の外の世界だった。

 洞窟から這うようにして逃れ出た後、目の前に広がった光景は、スグリの想像とは全く違っていた。
 南の山—こちらから見れば北の山だったが—の麓から先は、大きな河がとうとうと横たわる、ただひたすらに平らな、赤茶けた草原が広がっていた。
 地平ははるか先まで広がり、その縁に、青白くかすんで小さな角のように見える山々がちらほらとあるばかりだった。
 その大きな河に添うようにして、踏みならされたらしい土色の細い道が、蛇のように曲がりくねりながら、地平の果てまで続いていた。
 空気は冷たかったが星ノ森と比べ湿り気があまり感じられず、風がごうごうと吹きすさんで平野の草木を揺らしていた。名も知らぬ大きな白鳥の群れが、鳴き交わしながら広い空を南へと飛んでいくのが見えた。
 いく群もの灰色の雲たちが、風に追い立てられるようにして、見る間に眼前を駆け抜けていく。
 雲間から差し込む蜜色の陽光の柱が平原のそこここに突き立てられた光景は、祖母たちやナナエから炉端で聴かされた物語歌の中にある、神界にまします神が人界の地上へ降り立つ場面をスグリに想わせた。
 目に映る何もかもが、スグリの知る世界とはかけ離れて広大であった。
 しばらくの間、山の中腹から、ほうけてその光景を見降ろしていたスグリは、ウリュウの腕でいささか乱暴に小突かれて我に返った。見ると、マシケが荷を解き、鍋や食料を取り出して、食事の仕度を始めていた。
 マシケが火種を作っている間に、スグリも自分の荷物の中から道具を取り出し、ウリュウとともにかまどの仕度を調えた。あたりに落ちていた木の枯れ枝や枯葉をかき集め、火が燃えやすくなるよう重ねる。
 こちらの枯れ枝や枯葉は、星ノ森のあたりのものよりもよく乾いていて、火はすぐに勢いを増した。空気もいくらか乾いているように感じられた。
 山の南斜面は日当たりがよく、しばらく動きまわっていると、やがて身につけてきた冬着が暑く感じられるほど身体が温まってきた。頭巾の中が汗で蒸れて、スグリはそれを取り去ってしまいたくなったほどだった。
 しかし、ここまでの道中でいく度かマシケの機嫌を損ねたことを想い出し、下手なことはするまい、とそのまま我慢して頭巾をかぶり続けた。
 近くで湧き出ていた水を鍋に汲み、ナナエとカガリとが用意してくれた、アワの乾餅と、干した肉や山菜、ウバユリの根から作った団子などを味付けして鍋でしばらく煮込んだ汁ものがその日の最初の食事となった。それぞれ木の椀によそったものを、三人で黙々と口の中へ流し込む。
 口の中に熱い汁が入って来た途端に、スグリは自分でもびっくりするほど、お腹が空いていて、身体も冷え切っていたことに気が付いた。
 みな無我夢中でそれを口の中へ掻きこんで、鍋の中はあっという間に空になった。空になった鍋を洗うため、残り火で白湯を煮立て、飲んだ。
 ようやくひと心地がついた頃、ウリュウが口を開いた。
「ミズホの商人との待ち合わせ場所まで、あとどのくらいなの。日が暮れる前には、里に帰れるの」
 マシケはウリュウを見、続けてスグリを見やったあと、手にした椀の中の白湯を飲み干してから答えた。
「ここから山を下ってしばらく行ったところに、年番の見張り小屋がある。そこに、お前たちが南山で見たのと別の、もう一人の年番と一緒に、客人が待っているはずだ。小屋はここからそう遠くはない。我々の足であれば、日暮れまでには星ノ森へ戻れるだろう。彼らが足を引っ張りさえしなければの話だが」
 この返答に、ウリュウとスグリとは、思わず目を見交わした。二人とも、里の中でミズホのクニからやって来た商人を見かけたことはあったが、彼らが自分たちと比べどれほど山での歩き方を心得ているのかはわからなかった。
 なんとなく、里の大人たちの言葉から、ひ弱で足腰も弱いのではないか、といった憶測を抱いていた。
 後片付けを手早く済ませ、一行は再び山道を歩き始めた。マシケの言ったとおり、坂道を少し下り、斜面づたいに進んで行くと、林縁のあたりに、木陰に隠れるように建つ小屋が見えてきた。
 しかしそれは、小屋と呼ぶにはあまりにもいかめしい、見慣れぬ造りをした、大きな石造りの建物だった。壁や塀を形づくる岩のひとつひとつが、まるで切り出した材木のような、真っ直ぐな方形をしていた。
 いったいどうやってこんな形の岩を見つけて、ここまで運んできたのだろう、とスグリは不思議に思った。
 もうずいぶんと永い間風雨にさらされたらしく、建物のまわりを取り囲む塀はほとんど崩れかけ、いたるところに苔やツタ、丈の低い草花などが生い茂っていた。

「おお、マシケか。よう来たよう来た。……おや、お前さんとこには、年頃の男の子はウリュウ坊一人きりだと思うとったが」
 声のした方を見上げると、その建物の天辺あたりに大きな窓があり、そこから一人の男が顔を出していた。
 サマニの父親のソタニだった。それに応えて、マシケが言った。
「ソタニか、待たせた。今回は、ヨタカ殿の希望でな、娘も連れてきたのだ」
 ソタニは少し目を見開いて、もの珍しそうにスグリを眺めまわした。しかし直ぐに目を細めて言った。
「そうかそうか。まあ、入れ」
「ちょっと待てよ。その前に、しきたりどおり問答をしなければ」
 すると、ソタニが苦笑いをしながら言った。
「そんなもの、やってもやらなくても違いはなかろうに。相変わらず生真面目な奴だなあ。まあいい。"ここは御光はるか遠き、ホシノモリのトリデである。なんじはたぞ"」
 マシケは一呼吸おいた後、声を張り上げて言った。
「"ことわりて申し上げる。我はホシノモリの民、父はハミルの子の大キリムの子小キリム、母はマナエの子マハリの子スセリ、マシケである。日高くのぼる地より来たる、光の御方の右目たる者を迎え奉らんがために参らん。なにとぞこの扉開きたまえ"」
「"その前に、なんじに問う。光の御方が忌み嫌うものは何ぞ"」
「"夜の闇より生まれ出で、月の光により形を与えられし、星である"」
「"星はいずこより参る。"」
「"ここより北の山を越え、はるか北の地より。我らホシノモリの民が、光の御方の映し身により、彼らからこの地を守らん"」
 このマシケの言葉が、この問答の最後の科白らしかった。ソタニが窓から顔を引っ込めてから少し待つと、直ぐに入口の木戸が開き、彼が姿を現した。
「さあ、入れ入れ。これで、俺もお役御免で家へ帰れる。年番の仕事は、とにかく家族と会えんのが、何よりつらくてな。こんな重くて物騒なものを、一日中腰に提げてないといけないのも面倒だ」
 腰に携えた見慣れない道具を指し示しながら、白髪交じりのあごひげに包まれた、見るからに人の良さそうな顔に満面の笑みを浮かべてソタニが言った。彼の指し示したものを、スグリはもの珍しく眺めまわした。
 里の者は男も女もみなそれぞれ短刀をいつも持ち歩いていたが、ソタニが今携えているものは、その短刀と形は似ていたけれど、それよりももっとずっと大きくて、見たことのない飾りや彫り込みが沢山あった。
 ソタニに案内されて小屋の中に入ると、中は思いの外に広かった。いくつかの高窓から差し込む光が照らしだした小屋の中は、外見同様、スグリには見慣れぬものであった。
 寝起きのためらしい、限られたところの外は全て土間になっており、そこに水瓶や石で組まれたかまどなどが作りつけられていた。
 壁には見たこともない金物の道具—武器というのだと、後でマシケから教えてもらった—がいくつも掛けられていて、ものものしい雰囲気を漂わせていた。板張りの天井のさらに上に小部屋があるらしく、先ほどソタニが顔を出していたところへ、梯子で上り下りできるようになっている。
 明かりとりらしい四角い窓には黒い棒が格子状にはめ込まれていて、外側に吊り下げられた木の板を開け閉めすることで雨風の侵入を防ぐ仕組みになっているらしかった。
 その部屋の片隅に、人の姿があった。

 木の棒を見慣れない形に組み合わせて作った骨組みに麻の厚い布を張ったものに、彼らは腰かけていた。そのそばには、暖をとるための道具らしい、円くて硬そうな桶のようなものがあって、そのてっぺんのくぼんだところに燃えさしの薪が数本入っていた。
 つい今しがたまで食事をとっていたらしく、彼らが取り囲んでいる台の上には空になった木の椀と匙とが、腰掛けている人数と、それにソタニを加えた分だけ並べられていた。
 腰掛けている人々こそ、ミズホのクニからやって来た商人らしかった。その中の一人が立ち上がり、マシケとあいさつを交わした。彼の口から出てきたのは、少したどたどしい、星ノ森の言葉だった。
 応えるマシケが、いつもよりずっとゆっくりと喋っているのに、スグリは気がついた。
 客人は一人だと決め込んでいたスグリは、思いがけない大人数とその顔ぶれに、少し戸惑った。見るからに体格の良い、マシケと同年らしい男と、その連れらしい、まだあどけなさの残る少年二人。
 一人はウリュウより少し年上の、青年と言ってもよい年頃だったが、もう一人は、スグリと同い年か、もしかしたら少し年下のように見えた。
 少し黄色っぽくて浅黒い肌に、平べったい顔立ち。髪の色は、星ノ森の人々よりも暗い、夕闇に包まれた木立の影のような色をしていた。
 見慣れぬ袖も裾もやけにふくらんだ形の衣服はもとより、何よりもスグリを驚かせたのは、彼らがみなあごひげを持たず、髪を頭のてっぺんで奇妙な形に結いあげていることだった。
 星ノ森では、男たちも女たちも、年中頭に布を巻き付け額の真中で左右に分けた髪を、男たちはそのまま、女たちは三つ編みにして、垂らしているのが普通だった。あれではきっと、首もとが寒くて風邪をひきやすいことだろう。
 耳飾りも付けていなかったし、そもそも耳にそれらしい穴も見当たらなかった。
 スグリたちの里では、五つか六つになると両の耳たぶに穴を穿ち、石や羽、獣の爪や牙や骨で作った耳飾りを付ける。万が一その身に何かあって、変わり果てた姿で見つかっても、その遺体が正しい家族の元へと返してもらえるように。
 ほかにその人のしるしになるようなものも見当たらないのに、彼らはどうやって変わり果てた自分の家族を見極めるのだろう、とスグリは訝った。
 皆背こそ高かったけれど、ミズホの人の体格はスグリの目に、噂できいていたとおり、あるいはそれ以上に、華奢で、頼りないものに映った。着こんだ服の上からでも、彼らの奇妙にへこんだ胸や、肩から紐のように頼りなく垂れ下がる二の腕が察せられた。
 この少年二人が、あの平原をはるばる渡って来て、さらにこれからあの洞窟の中を歩かなければならないのか、と思うと、信じられなかった。
「これはこれは。今回は、お子さんをお連れかな」
 マシケがいささか驚いたような声を上げると、一番年かさの男が応えた。浅黒く、少年二人と比べれば、筋骨たくましいその姿とは裏腹に、枯葉がこすり合わさるような、奇妙にかすれた声だった。
「ええ。そろそろ私も、役目を息子たちに譲ろうかと思ってましてね。おまえたち、ご挨拶なさい」
 言葉は正しかったけれど、その発音はどこまでもぎこちなく、スグリは懸命に吹き出しそうになるのをこらえていた。彼らは普段自分たちとは違う言葉を使っているのだということを思うと、なんとも不思議な気分になり、彼らが普段使う言葉はいったどんなものなのだろうと興味をそそられた。
 父親の言葉に、まだ腰掛けていた少年たちが立ちあがった。年かさの方の少年が、まず口を開いた。
「私はタケキヨといいます。こちらは、弟のウメチヨです」
 父親よりもさらにぎこちない発音と言葉遣いながらも、少年は礼儀正しくそう言いながら、弟と一緒に腰から屈むような格好をした。後でマシケから、あれが彼らの挨拶なのだと聞かされたけれど、そのときそれを知らなかったスグリはぎょっとして思わず後じさりした。
 顔を上げたウメチヨという少年と目が合った。なんとなく不安に駆られて、スグリはとっさに目をそらした。少年のまなざしや表情が、年の割にやけに大人びて見えたせいかもしれない。
 マシケがウリュウとスグリに、「ヨタカ殿はこのことをご存じだったらしい」と早口で囁きかけてから、商人親子に、ウリュウとスグリとを紹介した。スグリが女の子だと知った商人は、そちらではこんなに幼い女の子にも山を越えさせるのですか、と目を丸くした。それにマシケは苦笑いをしながら、曖昧な返事をした。

 ひととおり互いの紹介が終わると、今度は商人親子一人一人に目隠しを付け、マシケが先導役となり、商人の男はソタニが、タケキヨという少年はウリュウが、ウメチヨという少年はスグリが、それぞれ手を引いて案内をすることになった。
 ミズホの人間に洞窟のありかを知られるのを防ぐためだと、マシケからは説明されていたが、本音を言えば、スグリには、里の大人たちがなぜこんなにもミズホの人々に対して気を張るのかよくわからなかった。実際に彼らと接して、その思いはますます強まっていた。
 しかしスグリがウメチヨという少年に目隠しをしたとき、その気持は一変した。ウメチヨという少年は、スグリの顔をじっと見つめた後、スグリにだけきこえる声で囁いた。
「あなただけ、ほかの二人とは違うんだね」
 彼の父や兄と比べてやけに流暢な発音だった。この言葉に、スグリは内心ぎくりとした。マシケとウリュウ、そしてスグリは、みな、瞳の色は同じ榛色をしていた。
 後はそれぞれに少しずつ違った顔だちをしていたけれど、スグリにだけは外の二人と決定的に違うところがひとつだけあった。
 マシケとウリュウの髪は、湿った腐葉土のような色をした巻き毛だ。ほかの里の者のほとんどが、差こそあれど、いくらか茶色がかった巻き毛だった。
 けれどスグリだけは、行水をした後の鴉の羽のような色をした、まっすぐな髪を持っていたのだ。
 しかしたったそれだけのことで彼が、スグリだけ実の子ではないことを見破ったとは思えなかった。それに、もしかしたら、彼はもっと別のことについて言っているのかもしれなかった。
 けれど、少なくともその一言はスグリにとってとても不愉快なものだった。
 スグリは思わず、彼の言葉が聞こえなかったふりをした。自分の、自分でも受け容れがたい特徴が、生まれたときから慣れ親しんできた人々よりも、そのとき初めて相対した異郷の人々のそれに近かったことが、なおのことスグリをそんな気分にさせたのかも知れない。もっとも彼らの髪の色ですら、スグリの髪の色と比べればいくらか茶色がかって見えたけれど。
 タケキヨという少年は始め、ウメチヨは自分がおぶって行く、とごねたが、すぐさま父親にたしなめられておさまった。
 そうして、一行は南の見張り小屋を後にした。洞窟の入り口までやってきたところで、スグリはこっそり眼下の平野を振り返って眺めた。日の短い秋のことで、もう空はうっすらと蜜色に染まり始めていた。
 この景色を、自分はこの先一生見ることはないのだろう。スグリはそんなことを考えて、ふいになんとも言いがたいもの寂しさをおぼえた。
 これからそう遠くない先に、いく度かこの景色を目の当たりにすることも、そしていつか、生きながらに二度と星ノ森の土を踏めなくなるときが来ることも、このときのスグリに知るよしなどなかった。
 洞窟の中に入ると、商人親子の眼隠しは解かれ、一行はひたすらに北の出口へと急いだ。北の出口に着くと、山の中腹にいた年番の男も一行に加わった。幼いウメチヨはソタニに背負われて湿地を越えた。
 その間、ソタニの荷物は年番の相方と、ウリュウとスグリとで分担して運んだ。そうしてなんとか日暮れまでに、スグリたちは星ノ森の里へと帰り着くことができた。
 里の入り口で里長一家が待ち構えていて、スグリたちは挨拶もそこそこに商人親子と引き離され、彼らは里長の家へと連れて行かれた。
 別れ際、あのウメチヨという少年とまた目が合ったけれど、スグリは気付かなかったふりを押しとおした。それでもなんとなく気になってそちらへ目を向けると、少年はすでに兄に促されて、こちらに背を向け歩き始めたところだった。
 その夜は、ここ数日の間でも、とりわけ夕食の席は騒がしいものとなった。
 弟たちは、山を越えるまでに見聞きしたものをウリュウから聴きだしたがったし、ナナエもスグリをあれこれと質問攻めにした。カガリは興味のなさそうな素振りを通していたが、しばしば食事の手が止まっていたのを見ると、興味は少なからずあったのだろう。
 しかしウリュウもスグリも、あらかじめマシケに口止めされていたため、ほとんどそれらの質問に答えることはできなかった。
 黙々と食事を口に運びながら、スグリはその日一日のことを色々と思い返してみた。見るもの聴くもの全てがもの珍しく、できることなら誰かに話してきかせたかった。けれど、ただもうくたくたになっていて、とにかく眠たくて仕方がなかった。
 いったん家に帰った後、再び里長の家へと出掛けて行ったマシケが、やがて手土産とともに帰って来ると、その夜は家族一同、寝る前の内職も早々に切り上げ、囲炉裏の火を消して床についた。
 けれどもいざ横になってみると目が冴えてしまい、なかなか寝付けなかった。喉の奥がはれっぽくて、頭がやたらとくらくらしているように感じられて、なんだか嫌な予感がした。
 翌朝目が覚めてみると、スグリのその予感はみごとに当たっていたことがわかった。その日からスグリは熱を出し、数日の間寝込んでしまうことになったのだ。やっぱり、あのとき頭巾をとっておけばよかった、とスグリは悔やんだ。
 この数日間におこったことが、その後のスグリの運命を決めることになったのだった。 

〈続〉

表紙画像 (C)柴桜様 『いろがらあそび4』作品No.28
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=63204411

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