星追いのワタリガラス7. 別れ路の埋め火(下)
春が来て夏が過ぎ、秋を越え冬を耐えれば、やがて再び春が訪れる。
冬の間に降り積もった深い雪も、凍み重なった厚い氷も、春になれば、照りつける陽光と吹きつける南風とに解きほぐされ、恵みの水へと姿を変える。
永い戒めから解き放たれた雪融け水は渓を野を駆け巡り、その清冽な流れによってあらゆる汚穢を押し流し、大地を洗い清め、あらゆるものたちのために、新たな生命を育む寝床を用意する。
遥か昔から繰り返されてきたこの営みは永久普遍のものでありながら、その変容は二度と繰り返すことのできない一度きりのものなのだ。ひとたび融けた氷雪は元の姿には決して戻れないし、流れ出した水は、その流れを塞き止めたり遡らせたりすることなどできはしない。
それは時の流れや、人の心の動きなどにも当てはめられよう。それまでどれほど頑なに、当たり前のようにそうあったものであろうと、ほんの些細な綻びが生じれば、驚くほどあっさりとほつれほどけ、容易くその容態(かたち)を変えてしまう。
人も獣も、水も風も、月日の巡りとともに動き変じ、自らの魂の帰り着く処を目指し、駆け続ける宿命(さだめ)の中で生かされている。それに抗うことなど何人(なんぴと)にもできはしないのだ。たとえそれが、己を艱難辛苦の逆巻く怒濤の中へ放りこむことになろうとも。
引き返すことの出来ない分かれ道がすぐ目前まで迫っていることなど、そのときのスグリには、まだ知るよしもなかった。
それは始め、ほんの僅かな綻びとしか思われなかったのだ。けれども少しずつ、確実に、目に見えぬところで動き出していた。
まるで、積もった雪が少しずつ解きほぐされながら、いつか春の陽光に誘い出され堰を切り、雪崩となって渓を駆け下るそのときを待ちわびるように。
* * *
「スグリ」
不意に背後から呼ばれ、スグリは振り向いた。声の主は義姉のカガリだった。
「母さんが呼んでいる。そろそろ帰ろうって」
彼女の面(おもて)は黒い頭巾ですっぽりと覆われていたが、その声音にははっきりと不機嫌そうな響きが聞きとれた。怪訝に思いながらも、スグリは手早く目の前の蔦を籠に放り込み、籠を背負った。
そこかしこかで鳥たちの囀りや雪解け水の流れる音が響き渡り、うるさいほどだった。解け残りの雪が、道の至る所でこんもりと小さな山をつくり、春の日差しをきらきらと照り返している。もうもうと冷たい湯気を立てつつ聳えるその姿は、いずれ跡形もなく己の姿が溶け消えるそのときを、待ち遠しんでいるように見えた。
雪が姿を消し地表が露わになった場所には、気の早い草木の新芽や虫たちがいそいそと顔を覗かせている。星ノ森の民が指折り数えて待ち望む春は、もう、すぐそこまでやって来たのだ。
もたつく彼女を尻目に歩いて行く義姉を慌てて追いかける。突如、その後ろ姿がぴたりと立ちま止った。義姉が背負う籠に危うく顔面をぶつけそうになったスグリであったが、すんでのところで足を踏ん張り難を逃れた。
「ねえ……。近頃、変じゃない?」
囁くようにそう言って振り返った義姉の顔を、きょとんとして見つめる。
「何が?」
「里のみんなよ。……母さんも。なんだか近頃、みんなあんたをやたらと遠ざけている。今日だって、そう。みんなで蔦を探しに来たはずなのに、いざ山に入ったら、母さんはサユリを連れてアプト小母さんやサマニと一緒、あたしたちだけ少し離れた場所で、なんて。……おかしいと思わない?」
「それは……」
そこまで言って、スグリは言葉に詰まってしまった。
今日、スグリたちはサマニの女家族とともに、里のすぐそばの山裾へ来ていた。食糧探しのついでに、ウリュウたち夫婦の新居に使う、蔦を手に入れるためだ。通例、若夫婦の新居を建てるときは、夫婦の家族同士で協力して資材を集める。木材は男たちで、その木材をつなぎ合わせるための蔦や、屋根を葺くための草は女たちで。
特に女ばかりで山に入る場合、雪解け時期の山はいつどんなはずみで雪崩が起きるか分からないから、みな互いに目の届く所で固まって行動するのが普通だ。ところがこのところずっと、山に入ると、それとなくカガリとスグリの二人だけ離れた場所へ追いやられるのだ。
山での資材集めばかりではなく、里での生活の中でも、どこか、以前にも増して遠ざけられているように感じることがしばしばあった。スグリもうすうす気づいていたが、もしかしたら自分の思い過ごしかもしれないと、あまり気に留めないようにしていた。
「喪に服しているあたしをサマニから……ってのは、まあ、わからなくもないけど。あたしを、というより、あんたを遠ざけたがっているように見えるの、あたしだけかしら。……ねえ、何か心当たり、ある?」
自分の方に振り向きながらそう言ったカガリに、スグリはかむりを振って応えた。
「特には」
「そう」
小さく溜息を吐きながらそう言うと、カガリは再び前へ向き直り歩き始めた。スグリもその後に続く。
そのとき、ふと、数日前のシュマとのやりとりが脳裏を過ぎった。
——あいつが死んだのはお前のせいじゃないのか?自分が結婚できないからってやっかんで、呪いでもかけたんだろう。ヨタカの孫なら、それくらい朝飯前だもんな——
何故その言葉が蘇ったのか、彼女自身わからなかった。けれどもその刹那、背筋に冷たいものが走るのを、確かに感じたのだ。それはまるで、自分の与り知らぬどこか物蔭で、己の意志ではどうにもできない力によって、少しずつ何かが崩れ、変容していくのを垣間見たような空恐ろしさだった。
「そういえば、あんた、もう母さんたちには話したの?文身が完成して、もうこの春で家から出て行くこと」
「……まだ」
カガリが大仰に溜息を吐きながら言った。
「やっぱり。さっさと言っておきなさいよ、後々面倒だから。あんたって、ほんとう、人にはあれこれ聞きたがるくせに、自分のこととなると、話すのを勿体ぶるんだから」
顔が熱くなるのを感じながら、スグリは言い返した。
「ウリュウたちの結婚の仕度が落ち着いたらって思っていたの。みんな忙しいだろうから……」
スグリが話さずにいる本当の理由はそんなことではなかった。雑用の人員が一人減ることを除けば、自分がいなくなることで家族にかかる負担など、食い扶持が一人減ることと差し引けば瑣末なものだろう。スグリ自身の身支度も然程手間のかかるものではないはずだ。
彼女が何よりも恐れていたのは、自分が居なくなる、ということを家族に意識されること、ひいては、それによって、自分がいなくなるまでの間、自分が里の営みから外れた存在として意識されること、だった。
スグリの巣立ちは、他の者の巣立ちとは全く異なるものだ。通常、子が親元を離れる理由は結婚か、あるいは何かの事情で他所の家へ養子に入るとき。そのどちらも、住む家と、暮らす相手とがかわるだけで、生活の場は星ノ森の中のまま、その輪の中で生きていく。一方自分はそのどちらにも当てはまらず、ヨタカとなる修行のために里を出て、里の人々の生活の輪から外れた存在になるのだ。
加えて、文身が完成した、ということは、スグリが少なからず己の出生について知った、ということも意味する。実父の生死に少なからず関わっているであろうマシケや、恐らくは多少の事情を知っているであろうナナエに、そのことを悟られることにも、言いようのない不安を感じていた。
恐らく養父母も勘づいているだろうことを承知の上で、スグリはずっと、家族に文身が完成したことも、この春ミクリの元へ移り住むことも打ち明けられずにいたのだ。
「そんなの待っていたら、間に合わないわよ。家が建つ頃には、とっくにコブシの花が開いて、星追いの祭りになって、あっという間にあんたがミクリ様の元へ行く日が来てしまうでしょうよ。あんたの身仕度だってあるんだから、そんなにのんびりしていられないのよ。……まったく。別に、あんたが死んで今生の別れってわけでもないんだから、さっさと報告すればいいでしょう」
義妹の内心にはお構いなく、頭から火を噴きださんばかりにまくしたてる義姉だった。その剣幕にたじろぎつつ、彼女は観念して言った。
「……わかったよ。だったら、今夜話す」
不安は相変わらず彼女の中で燻っていたけれど、カガリの言うとおり、実際、然して気に病むほどのことではないのかもしれない、とスグリは思い直した。打ち明けることで、スグリが突然別の何者かになってしまったり、ましてや命を落としたりするわけではないのだ。先ほど感じた得体の知れない悪寒も、もしかしたら、しぶとく居座る冬の精霊が彼女の心の隙間に入りこんで感じさせたものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、スグリは遠方に見えたナナエやサマニたちに手を振った。彼女たちの様子がどこかぎこちなく、よそよそしく感じられたのも、きっとこの寒空の下で彼女たちの身体が凍えてしまったせいなのだ、と自分自身に言い聞かせた。
その夜、スグリはとうとう、カガリ以外の家族にも、文身が完成したことと、それに伴い、自分がこの家を出てミクリの庵へ移り住まなければならないこととを打ち明けた。
家族は皆あっさりとそれを受け容れ、とりたてて騒ぎ立てることもなかった。ナナエから、文身ができた日のうちに言ってくれればよかったのに、と軽くなじられたきりだった。
いったんはほっと胸を撫でおろしたスグリであったが、家族がそれを当然のこととして予期していたことに、一抹のもの寂しさも感じた。スグリが思っていた以上に、自分が異質な存在とみなされていた、という事実を突きつけられたような気がした。
スグリの打ち明け話の後は、星追いの祭りまでに済ますべき諸々の仕度について、ひととおりの確認や算段の話に終始した。ミクリへの礼や、一応の“独り立ち”などに入用な品は、彼女の予想よりもはるかにあれこれあるらしかったが、両親はさして慌てた気色も見せず、かなり前から仕度が進められている様子だった。
やはり、養父母にはとうに気取られていたのかもしれない。こんなことなら、もっと早いうちに伝えておけばよかったとスグリは後悔し、急かしてくれたカガリに感謝した。
ちらりと義姉の方に眼をやると、彼女もスグリの方に顔を向け、黒い頭巾の下で小さく顎を突き出すような仕草をするのが見えた。きっとあの頭巾の下で、ほら見なさい、と言わんばかりのしかめっ面をしていることだろう。
スグリはお返しに、少し唇を突き出して軽くしかめっ面をして見せた。それを盗み見していたらしいウリュウが白湯を啜りながら、実姉と義妹とを素早く交互に見やったのにスグリは気がついた。自分だけのけものにされていたことに気づき、幾らか不服に思っている様子だった。
まだ幼い双子のトーマとソーヤとは、姉兄たちの剣呑な無言のやりとりになど気付かぬ様子でじゃれ合い、一番下のサユリなぞは母親にもたれかかったまま、うつらうつらと船を漕いでいる。こんなやりとりをできるのも、こんな光景を眺めていられるのも、ほんとうに残りわずかな間なのだ。スグリは噛みしめるような気持ちでそっと目を閉じ、冷めかけた白湯を啜った。
「そうと分かれば、スグリ。あんたにもちゃんと、埋め火の作り方を教えておかないとね。ミクリ様のお世話をするときに、ご面倒をお掛けてはいけないもの」
埋め火とは、囲炉裏の火を消す際にわずかに残しておく火種のことだ。翌日労せず火を点けるため、燃えさしの炭を使い、灰の中に隠しておく。火が燃え盛り薪を減らさぬように、けれども消えぬように、ぎりぎりの加減で上手く埋めなければならない。
娘の結婚が決まった母親は、皆冬の間にその作り方を娘に教え込むのだ。カガリも、ムビヤンの死を知らされるまでの間は、毎晩ナナエに埋め火の手ほどきを受けていた。
家政を預かる主婦たちにとって、埋め火を作れるかどうかはとても大切なことだった。たとえ結婚が決まっていても、冬の間に新婦がその術を会得できなければ、結婚が翌年の春に先延ばしにされることもあるという。焔も凍ると言われる星ノ森の冬の夜。明け方に目覚めてから、いかに手早く囲炉裏に火を灯せるかで一家の生死が分かれると言っても過言ではないのだ。
「まあ、あんたのことだから、カガリに教えていたのを散々見て、いくらかは頭に入っているのでしょうけれど。あんたはもの覚えが恐ろしくいいものね。……ミクリ様やあの子に似て」
あの子とは、恐らく実母のマツリのことだろう。最後の一言にどこか険があるように聞えたのは、スグリの気のせいだったのかもしれない。
スグリの弟子入りのことについて、マシケとナナエとで数日中にミクリの庵を訪ねることが決まったところで、その夜は皆床に就いた。
* * *
夢の中を漂っていたスグリは、突如揺さぶり起こされた。目を開くと、家の中はまだ深い夜の闇が支配している。寝ぼけ眼のまま何事かと顔を上げると、すぐ耳元で囁く声がした。
「他の者を起こすな」
養父の声だった。スグリは思わず息を呑んで身を固くした。考えるより先に、身体は彼の命令に従っていた。身体を固くしたままじっとしていると、続けてマシケが言う。
「ついて来い。音を立てぬようにな」
訳もわからぬまま、スグリは寝床から抜け出し、マシケの後について外へと出た。
[newpage] 夜空には潤んだ瞳のような星が物憂げに瞬き、まるでそれを隠そうとするかのように、けぶる雲がゆったりと漂っている。水気をたっぷり含んだ空気はしっとりと重く、髪や身体にまとわりついた。ゆっくり息をすると、ひんやりとした、けれども柔らかい春先の空気が喉や胸に滑りこむ。
養父の背中を追いながら、スグリは胸の鼓動が早まるのを感じていた。こんなふうに、他の家族抜きで養父と二人きりになるのは初めてのことだ。思い返してみれば、長年家族として暮らしを共にしながら、彼と一対一でまともに口をきいたことすらなかったことに今さらになって思い至り、スグリは緊張を覚えた。
「ミクリ様から、聞いたのか」
軒から少し離れた所で立ち止まると、ふいにマシケが口を開いた。その言葉の意をつかみかねて、スグリは黙って養父の背中を見つめ返す。スグリの反応を探るようにしばし口を閉ざしてから、マシケは再び言った。
「文身ができたということは、聞いたのだろう。お前の生まれについて。……お前の母親と父親のことも」
少し躊躇った後、スグリは意を決して応えた。
「はい」
静かに溜息を吐いてから、マシケがぽつりと言った。
「そうだろうな。……それを、冬の間ずっと、知らぬふりをしていたのか」
「ごめんなさい」
「いい。責めるつもりはないのだ。ただ、お前が一人でずっと抱えこんでいたことに驚いている。最後にミクリ様の元から帰って来たときの様子を見て、うすうす気づいてはいたが……」
何も言えずにスグリは俯いた。背中越しで顔は見えなかったが、嘆息混じりの養父の声音には、どこか気落ちしたような、それでいてもの寂しげな響きがありありと聞き取れた。養父がこれほどまでに感情をあらわにしている姿を見るのは、スグリが熱を出してミクリの庵へ運ばれたとき以来だ。
「やはり、親子とは似るものだな。そうやって、大切なことほど飲み込んでしまうところなどそっくりだ。……それだけではない。お前は、年を重ねるごとにあの子に似てきている気がする。顔つきはあまり似ていないはずなのにな。声音や立ち居振る舞いか……。あるいは、その瞳の色が彼女を思い起させるのか」
そう言ってマシケが振り向き、鳶色の瞳でスグリを見据えた。その眼差しは、スグリの方を見ながら、どこか遠くを見ているようだった。これまで見たこともないような養父の表情に、スグリは息が詰まるような心地を覚えた。
「母さまに?」
戸惑いつつ聞き返すと、マシケが頷く。
「ああ。……あれの眼を見る度、どこか禁域の、底知れぬ淵の奥深くを覗きこんでしまったような、落ち着かない気分になったものだ。最後まで、彼女は私に胸の内を見せてはくれなかった。……いや、もしかしたら、私が彼女を見抜ける器でなかっただけなのかもしれぬ。同じ祖父母より生まれ、物心つく前から兄妹のように育ちながら、彼女と私とは、まるで異なる世界に生きる者のようだった」
後半は、ほとんど独り言のような呟きだった。平生、養父の口からマツリの話が飛び出すことはめったにない。それどころか、こんなにも饒舌な養父を見るのは初めてのことであった。その様子に何かただならぬものを感じたスグリだったが、その正体が何であるかはわかなかった。
そのときふと、ながらく胸に引っ掛かっていた、ある問いが頭を過ぎった。少し迷った後、スグリは言った。
「私の父親は、生きているのでしょうか?」
すると、マシケが驚いたように眉を吊り上げ眼を見開いた。
「ミクリ様からきいていないのか?」
思いがけない反応に面食らいながらスグリはかむりを振った。
「おばあ様は、ご存知ないと……」
「あの方が、そう言ったのか?」
「はい」
こくりとスグリが頷くと、マシケは落ちつかなげに眼を逸らし、聞き取れない小さな声で何か呟いた。不安な気持ちのままスグリが黙りこくっていると、やがて顔を背け、吐き捨てるように言った。
「死んだ」
「死んだ……?」
殺したではないのか、と畳みかけようとした矢先、マシケが言葉を続けた。
「ああ。ミズホの地へ送り返す道中、山道で急に逃げ出したんだ。そして、自ら崖から飛び降りた」
言葉を失ったままスグリは立ち尽くした。マシケの言葉がほんとうのことだという証はどこにもなかった。けれどもその言葉に、スグリはどこか救われたような、それでいて、何かに見捨てられたような心地になり、肩の力が抜けるような感覚を覚えた。
「忘れろ。無情なミズホの男のことなど。……お前の父親は私だ。ほかにお前の父などいない」
素っ気なく言うと、養父は不意に天を仰ぎ、ため息を吐いた。
「話し過ぎたな。もう随分と経ってしまった。……そろそろ、家へ帰ろう」
そう言ってマシケが踵を返す。スグリは慌てて後に続いた。
「春になれば、お前もヨタカ見習いか……」
低い声でそう呟くと、背中を向けたまま養父が言った。
「お前は、不服に思わないのか。生まれたときからヨタカになることを定められ、他の者から隔離され独りで生きることを、そして、それを強いられることを」
突然の問いに、スグリは答えあぐねた。しばらく考えこんだ後、言葉を絞り出す。
「生まれたときから、ずっとそういうものだと思っていたから。……それに、里の中の決まりに縛られながら伴侶を選び子を生し老いていくのと、ヨタカとしてあの庵に縛り付けられるのと、大差ないような気がします」
半分は本心だったが、半分は強がりだった。ほんとうは、なぜ自分だけが違う道を歩まねばならないのかと、今も気持ちの納まりなどついていない。けれど、その想いを口にしてはいけない、ということも解っていた。
「そうか。……彼女も、同じことを言っていた。やはり、親子とは知らぬうちに似るものなのかな」
そう言って、マシケが乾いた笑い声を上げた。
「それとも、ヨタカとなるべくして生まれついた者の辿りつく答えがそれなのか。……人と人とを結ぶものとしては、血よりも、宿命(さだめ)の方が濃いのかもしれぬ」
低い声で唸るようにそう言った養父は、見知らぬ人のようだった。
家へと入る刹那、遠くからあの歌声が聞こえてきた。あどけない少女のように澄んだ、それでいて永い年月を生きた老女のように深い不思議な声で、胸を締め付けるような調べを途切れ途切れに紡いでいる。
思わず立ち止まり振り返ったスグリを、マシケが怪訝な顔で見つめる。
「どうした?」
「歌が……」
「歌?」
養父に得体の知れないものを見るような目で凝視され、スグリは慌ててかむりを振る。マシケには、この歌声が聞こえないのだろうか。
「なんでもない」
家の中に入り、寝床に戻った後も、その歌声は続いた。まるでスグリにだけわかる言葉で、何かを伝えようとするかのように。目を瞑ったところで、その歌声を振り払うことなどできはしなかった。スグリはぎゅっと瞼を閉じ、家族の寝息に集中することで、ようやく眠りに就くことができた。
* * *
「里の外から、歌声?」
怪訝な顔でそう言ったカガリに、スグリはこくりと頷いてみせた。
「そう。……女の人の声で、何かを歌っているんだけど、何て言っているかわからないの。多分、南山の向こうからだと思う」
「なによ、それ。……あたしには、そんなの聞こえたこと、ないけど」
そう言うと、カガリは小首を傾げてスグリを見据えた。なんとなく居心地の悪さを覚えて、スグリは俯いた。
「そっか…」
それきり、二人は春先の早朝の光の中を黙々と進んだ。二人の足音をかき消すように、雪解け水が渓を削る音がこだまする。その合間を縫うように、鳥たちの囀りがときおり響く。
水汲み場と星ノ森とを繋ぐ小道には、彼女たちの外に人の姿はなかった。
昨晩のマシケが見せた表情に、もしかしたらあの歌声は自分にしか聞こえていないのかもしれない、とスグリは疑念を持った。そして早速、翌朝の水汲みの折、カガリに尋ねてみたのだ。その返答は、スグリが予想したとおりのものだった。
「それ、いつから?」
義姉の問いに、スグリは一瞬戸惑った。しばらく記憶を辿り、ようやく思い出して答えた。
「多分、この前の秋。私が熱を出して、ミクリ様の庵へ連れていかれた夜から」
「ふうん」
上の空とも、何かしら考えこんでいるともとれる曖昧な言葉を漏らしたきり、カガリは黙りこんだ。うっすらと地面を覆う、溶け残りの雪を踏む音だけが、二人の沈黙を覆い隠すように耳を塞ぐ。
やがて、カガリがぽつりと言った。
「やっぱりあんた、“ヨタカ”なのね」
その意味を掴みかねて、スグリは義姉を見上げた。
「どういう意味?」
「ヨタカって、他の者には聞こえないものを聞き、見えないものを見ることができるんだって、母さんが言っていた。……人の“本性”を視ることができるのも、そのひとつでしょう?」
彼女の言葉に、シュマから投げつけられた言葉を想い出した。
——ヨタカになる者は皆生まれながらに、人の生き死にや盛衰を見通して、その運命を組み替える能力(ちから)を持っている——
スグリは言葉に詰まった。ヨタカとして成すべきことについて、ミクリからまだ何も教えられていない彼女には、カガリやシュマ、そして里の人々から投げかけられるこうした問いや疑いに答えることはできなかった。
スグリ自身、自分に特別な能力があるとは思えなかったし、その有無も分からぬ胎児の頃にヨタカとなるよう定められたのだ。ただ漠然と、特別な能力がなくとも、何かしらの方法があって、それを習い覚えれば誰でもできる役目だと思っていた。
もしも、彼らの言うことが正しかったとしたら、そしてもし、ヨタカとしての役目を果たせるほどの能力が自分になかったとしたら……。無用の存在として、この里から追い出されてしまうのかもしれない。
そんな考えが脳裡を過ぎり、スグリはぞっとした。彼女の心中を知ってか知らずか、義姉はいつになく明るい調子で言った。
「ねえ。もしあんたに、ほんとうに、見えないものを見る能力があるなら、教えて欲しいことがあるんだけど……」
と、そのとき、里を目前にした曲がり道の辺りから、人影がぬっと現れた。ぎょっとして見るとそれは、あのシュマだった。
スグリはとっさに、道を空けながら足を早め、カガリを背後に匿うようにして少し前に出たまま、彼の脇を通り抜けようとした。ところが、シュマはまるで二人がやって来るのを予め知っていたかのように、横柄な態度で声をかけてきた。
「よう、根暗女とちびガラス。今日も二人仲良く水汲みかよ」
カガリもスグリも、その言葉か聞こえなかったふりをして、すぐさま立ち去ろうとした。すると、シュマが大きく舌打ちをした後、更に大きく耳障りな声で叫ぶように言った。
「寄り道せずに、せいぜい急いで帰れよ。家に着いたら、泣いて喜ぶような報せが待ってるぜ!」
この言葉に、カガリが立ち止まり振り返った。スグリは慌てて義姉の手を掴み引きとどめる。そして話すことのできない彼女の代わりに声を張り上げた。
「何の話?」
「さあな」
人をくったような物言いに苛立ち、スグリは思わず鋭い声で言った。
「あんたが言ったんでしょう」
「帰ればわかるだろ。……それに、お前はともかく、そこの根暗女にはわかったんじゃないか?」
すかさずカガリを見やったが、顔をすっぽりと覆う頭巾の上からでは何も読み取れなかった。けれども、義姉の様子から、彼女がひどく狼狽えていることだけはわかった。
「カガリ?」
恐る恐る声をかけたスグリの腕を振り払い、カガリが走り出す。慌ててその後を追った。背後から、シュマの声が届く。
「そろそろ観念しろよ。お前らのどちらにも、逃げ場なんてないんだ。……考えてもみろよ、毎朝毎朝、今時分だけ、お前ら以外の里の連中が水汲み場を使うのを避けるのは何故なのか」
* * *
「ねえ、カガリ!……ねえ、どうしたの!」
一目散に駆けて行く義姉の背中に向かってスグリは叫んだ。けれども、彼女からの返答はない。まるで、彼女の耳にはスグリの声など届いていないかのようだ。
と、突然、前方を行くその後ろ姿がよろめき、地面に倒れ込んだ。スグリは慌てて、跪いた義姉に駆け寄った。
「カガリ!……大丈夫?ねえ、どうしたの。シュマは、いったい……」
そこまで言ったところで、カガリがぴしゃりと遮る。
「別に。なんでもない」
「でも……」
「何でもないったら」
食い下がったスグリを振り払うように言い放つと、彼女は膝についた泥を払い落とし、立ち上がる。
「どうせ、いつものあいつの手よ。さも意味ありげで、人の不安を煽るようなことを言って。実なんてありもしないのに。……その反応を見て、愉しむの。陰険で、無神経で、傲慢で……。ほんとうに、嫌なやつ」
吐き捨てるようにそう呟いてから、カガリは歩きだした。もうすっかり、いつものつっけんどんで無愛想で気丈な義姉に戻っているようだった。スグリは慌ててその後に続く。
しばらくすると、背中を向けたままカガリが言った。
「ねえ」
「なあに?」
スグリは心持ち顔を上げて、前を行く彼女を見やった。
「さっきの話の続きなんだけど……。あんた、人の運命を見透すことはできるの?」
少し躊躇った後、スグリはもごもごと答えた。
「わからない」
「そう……」
平静を装ってはいたが、義姉が落胆しているのが伝わってきた。スグリは慌てて、これまでに自分の身に起こったことなどを思い起こしながら、しどろもどろに言葉を紡いだ。
「はっきり、そうとは言えないけど……。小さい頃から、なんとなくこうなるんじゃないかなって思ったことが、当たることは、よくあったよ」
それはほんとうのことだった。それは予感として直に頭の中へ届くこともあれば、目の前にありもしない光景として顕現することもあった。
そんなときは決まって、目の前にある景色とは別の場所を見ているような感覚に襲われるのだ。目の前の現(うつつ)と、己の内との狭間に在る、淡(あわい)の場所にすっぽりと納まってしまったような不思議な感覚。それはスグリにとって、心地よさと恐ろしさとの狭間に身を委ねる瞬間でもあった。
すると、一呼吸置いてからカガリが言った。
「あの人のときも?」
「あの人?」
「私が、あの人が帰って来れないんじゃないかって、不安がっていたとき」
恐らくはムビヤンのことだろう。不意に胸の奥を握り潰されるような心地を覚えて、スグリは深く息を吸いこんだ。痺れたようになる舌と喉とをなんとか動かして、彼女は応える。
「……うん。なんでかわからなかったけれど、彼が無事に帰ってくる姿を思い描けなくて、怖かった。サマニから、ウリュウについて同じことを言われたときは、戻ってくるウリュウの姿が、はっきり目の前に浮かんだのに」
「そう。……そう、だったの」
そう言ったきり、カガリは黙りこんだ。てっきり、嘘を吐いたことを咎められるかと思っていたが、義姉はそのことには頓着していないらしかった。
やがて、再びカガリが口を開いた。
「もし、ほんとうに、あんたに先を見透す能力があるなら、教えてよ。……あたしは、誰と結婚するの?」
その声はどこか弱々しく、不安げに震えているような気がした。スグリは少し目を伏せ、目の前の景色から僅かに離れた、淡の場所を見定めようとした。
けれども、どれほど意識を研ぎ澄ましても、義姉の花嫁姿も、その傍らに立つ花婿の姿も視えてはこなかった。
しばらく頑張ってみたが、とうとう諦めてかむりを振りながら、スグリは言った。
「わからない」
「わからないって?」
「……なんにも、視えないの」
気まずい沈黙の後、義姉が吐息紛いの微かな声を漏らした。
「……そう」
「ごめん……」
ひどくみじめな気持ちでスグリが詫びると、目の前の頭巾に覆われた頭が横に弧を描くように揺れた。
「こっちこそ、変なことをきいて、悪かったわ。忘れて」
それだけ言うと、カガリは前を見据えたまま黙々と歩き続ける。その足取りには迷いも躊躇いもなかった。
その後ろ姿には、まるで己の周りにある全てのものを拒絶しているような、危ういまでの真っ直ぐさすら感じられて、スグリは不安を覚えた。
* * *
家に帰り着いたスグリたちは、先ほどのシュマの言葉が、ただのからかいではなかったことを思い知らされた。
彼女たちが水汲みに出ている間に、里長のカタヌシが家を訪れていたのだ。それも、あのシュマの、求婚の伝令として。彼が伴侶として望んでいるのは、もちろんカガリだ。
ナナエからの報せを聞いた途端、カガリは半狂乱になって叫んだ。
「いやよ。あんなやつの妻なんて、死んでもいや!」
「末っ子とはいえ、里長の息子よ。悪い話ではないでしょう」
なだめすかすような声音で、すかさずナナエが諫める。すると、カガリが鋭い声で言い返した。
「冗談ではないわ。……だいいち、あいつは何を考えているのよ。私はまだ、あの人の喪に服しているというのに……」
「そんなもの、通用するわけないでしょう。確かに、あなたたちは結婚を誓いあってはいたけれど、実際には夫婦(めおと)になっていないもの。あなたのそれだって、周りから見れば、ただの子どものごっこ遊びに過ぎないわ。……そろそろ、目を覚ましなさい。今のあなたは、自分の立場をわかっていないのよ。シュマを断って、外(ほか)にあなたの相手になってくれる男がいると思うの?」
ナナエがぴしゃりと言った。彼女にぴったり寄り添うサユリがむずかり始めている。険悪な空気を察したのだろう。
彼女の言葉が決して単なる脅しの言葉ではないことは、スグリにもわかった。
今のところシュマ以外に、カガリと釣り合う年頃で、結婚相手の決まっていない青年は里にいない。そして、シュマがカガリに求婚した今、彼の申し出を断ったとしても、次の求婚者が現れることはないだろう。
彼女と結婚すれば間違いなく、この里にいる限り、シュマやその取り巻き連中から嫌がらせを受け続けるのは目に見えている。自分を無下にした女とその夫とを、あの男が許すはずはないだろう。数日前、シュマが言っていたことは嘘ではないはずだ。
「ここで返答を間違ったら、この里に、あなたの居場所がなくなってしまうかもしれないのよ。ただでさえうちには、白い目で見られる材料が、すでにひとつあるのだから」
そう言った瞬間、養母がちらりと自分の方を見やったのを、スグリは見逃さなかった。我知らず、顔が熱くなるのを感じた。
「夫婦にもなっていないのに、そんな大仰な真似事なんてしても意味はないのよ。……お願いだから、聞き分けて頂戴。明日、カタヌシ様が返事伺いにいらっしゃるわ。それまでに、その縁起の悪い頭巾は外しておきなさい」
ナナエがそこまで言ったところで、それまで下を向いたまま黙りこんでいたカガリが不意に口を開いた。
「……なったわ」
「なったって……何が?」
怪訝な顔でナナエが問い返すと、ガガリが顔を上げ、ナナエを真っ直ぐ見据えて言った。
「夫婦になったわ。……あの人と」
ナナエはきょとんとした顔で娘を見つめた後、困り果てた様子で言った。
「何を言っているの?そんなこと、できるわけ……」
「ほんとうよ。夫婦になったのよ、私たち。……あの人が遠出する前に」
ガガリとナナエが無言のまま見つめ合う。刺さるような沈黙に、スグリは今すぐにでも逃げ出したい気持ちになった。
やがて、養母の顔がさっと青ざめたかと思うと、すぐさま朱色(あけいろ)に染まる。その刹那、凄まじい剣幕でナナエが叫んだ。
「なんてことを……!!」
それに応えて、どこか勝ち誇ったような、それでいてどこか泣きそうな口調でカガリが言い放つ。
「このことを知ったら、あいつも目を剥くでしょうね。いい気味だわ!」
そう言い終わるか終わらぬかのうちに、乾いた音が響いた。ナナエが、カガリの頬を平手でしたたかに打ちつけたのだ。
ナナエの傍らで不安げに震えていたサユリが、ただならぬ空気を察したのか、火がついたように泣き始める。
「なんて莫迦なことを……!」
唇を震わせながらそう言ったナナエから顔を逸らしたまま、カガリが鼻で笑った。
「莫迦ですって!……ただ生きるために、あんな男を夫に選ぶ方が、ずっと愚かしゃないかしら?」
そう言い捨てると、カガリは炉端から立ち上がり、家から飛び出した。
ナナエは項垂れたまま炉端に座りこんでいる。泣きわめくサユリの声も、今の彼女の耳には届いていないらしかった。
* * *
スグリは始終話について行けぬまま、二人のやりとりをただ見つめていることしかできなかった。そして、放心した様子の養母と、泣きじゃくる義妹とともに居間に取り残され、しばらく途方に暮れた。
しかし、やがて我に返り、慌てて義妹の元へと駆け寄る。
泣き止まぬ彼女をあやすため、抱き上げようと手を伸ばしたそのときだった。それまで呆けた様子で宙を見つめていた養母が突如、声を張り上げた。
「触らないで!」
とっさに手を止めたスグリを押しのけるようにして、ナナエがすかさず我が娘に手を伸ばす。そして、まるで彼女をスグリから庇うように抱きかかえた。
「汚らわしい!」
そう言って自分を睨みつける養母の凄まじい形相に、スグリは肌が粟だち、身体に震えが走るのを感じた。その瞬間、スグリの目の前にいたのは、彼女のよく見知った養母ではなく、自分を憎悪し嫌悪する、見ず知らずの何者かとしか思えなかった。
「かあさん?」
震える声でそう言った彼女を、ナナエは侮蔑の籠った眼差しと声とで遮った。
「かあさん、だって?あんたにそう呼ばれるだけでぞっとする。あたしは、あんたなんか産んだ覚えはないんだ、この化け物!」
わけがわからぬまま、スグリは唖然として養母を見つめる。
「かあさん、何を言っているの」
「しらじらしい。どうせ、あんたがあの子をそそのかしたんだろう。そうしておいて、あの子の夫を呪い殺したんだ。里の者は、みんな知っていることだよ。あの子だけが夫を持つのが、そんなに妬ましかったの?……おまけに、それだけじゃ飽き足らず、あたしの夫まで、夜中にこそこそ誘い出して、たぶらかそうとして……」
ほとんど恐慌状態のまま、スグリは懸命にかむりを振って声を張り上げた。
「そんなの、知らない。あたし、そんなことしていないし、できっこない!」
「うるさい!あんたみたいな気持ち悪い化け物の言うことなんて、信用できるわけないだろう。……ほんとうに、母親そっくりの、薄気味の悪い子だよ。もう、顔も見たくない。家から出て行きなさい!さっさとヨタカの元へ行っちまえ!」
そう言うが早いか、ナナエが手を振り上げ、スグリ目がけてその手を振り下ろした。スグリは思わず目を瞑り、身体を固くした。しかし、予期した痛みが襲ってくるまでに、やけに間が空いた。
不思議に思い恐る恐る目を開けると、眼前には、振り下ろされたナナエの腕と、それを掴むマシケの腕とがあった。
「何をしているんだ」
抑えた声でそう言った養父の眼差しは、これまで目にしたことがないほど冷たくて、それでいて燃え盛る焔を思わせる、ぞっとするようなものだった。ナナエは突如現れた夫の姿を呆けた様子でしばらく見つめていたが、やがて我に返った様子で言った。
「何って……。見れば分かるでしょう。この化け物を、この家から追い出そうとしてたのよ」
途端に、マシケのこめかみがぴくぴくと痙攣したのをスグリは見た。養父がこの上もない怒りを、信じられない精神の強靭さで抑えつけているのは明らかだった。
「お前……。自分が何を言っているのか、わかっているのか。仮にも自分の養い子を……」
すると、ナナエが侮蔑の籠った笑いを浮かべ、マシケの言葉を遮った。
「ほんとうのことでしょう。……あなた、すっかりこの化け物にたぶらかされてしまったのね。この子の母親と同じように。……嫌な予感はしてたのよ、あなたがこの子を引き取るって聞いたときから。最初から知っていたわ。今も昔も、ほんとうはあたしのことなんてどうでもよくて、あなたの従妹の、あの気味悪い女のことしか眼中にないってこと。あたしを妻に選んだときだって、あなたの眼はあの女の横顔を追っていたじゃない」
マシケの赤黒い顔が、さっと紅潮した。
「そんなのは、お前の考え過ぎだ」
「考え過ぎなんかじゃないわ。……とにかく、その手を放してちょうだい。あなたも、この化け物も、気持ち悪くて仕方ないのよ。あたしに気安く触らないで!」
そう言ってナナエは夫の手を振りほどくと、その場にわっと泣き崩れた。その傍らでは、幼いサユリが怯えた様子で泣きじゃくっている。
スグリは途方に暮れて養父を見たやったが、すぐさま決まり悪そうに顔を背けられただけだった。怒りでも悲しみでもない、言い表わしようのない荒れ狂う気持ちを抱えたまま、スグリは家を飛び出した。
外へ出ると、家の前には人だかりができていた。恐らく皆、言い争う声に引き寄せられ、一部始終聴き耳を立てていたのだろう。彼女が出て行くと、人々は蜘蛛の子を散らすように四散した。
その場に残ったわずかな者たちは遠巻きにスグリを取り囲んだが、誰もかれも、スグリと眼が合うと、まるでおぞましいものを見たように顔を歪め、顔を背けた。彼女が一歩踏み出しただけで、短く叫び声を上げ後じさりする者すらいた。
その人垣の中には、サマニとウリュウの姿もあった。スグリと眼が合うと、彼女の顔はさっと蒼ざめた。そして、傍らのウリュウにすがりつき、見たくないものを見た、とでも言うように彼の胸に顔を埋めた。ウリュウもまた、険しい顔でスグリを見つめた後、俯いた。
そのとき、彼女はようやく悟った。この里には始めから、どこにも自分の居場所などありはしなかったのだ。身体からどっと力が抜けていくような心地になり、スグリはひ膝から崩れ落ちそうになった。
なんとか踏ん張り、スグリは態勢を立て直す。今この場で彼女が倒れたとしても、手を差し伸べる者などいはしないだろう。彼らにとって、自分はそもそも同胞などではなかったのだ。そう思うと、意地でもここで倒れてなるものか、という気になった。宵闇に耀く熾き火のような気持ちが彼女を支えていた。
目の前の人々が、急に遠い存在のように思えてくる。彼らの眼差しも、息遣いも、囁き合う声も、まるで遠くで響く沢のせせらぎのようだった。
そのとき、不意にカガリのことを想い起した。先ほど家から飛び出した後、彼女はどこへ行ったのだろう。
とっさに辺りを見回したが、彼女の姿はなかった。嫌な予感がした。誰にともなく、スグリは尋ねた。
「カガリがどこへ行ったか、知っている?」
しかし、それに対する返答はなかった。まるで彼女の発した言葉そのものが、目の前の人々には解することのできない、異郷のそれででもあるかのようだった。スグリは小さく溜息を吐いた後、踵を返してその場を離れた。
* * *
里を抜け出したスグリは、ひとまず水汲み場へと続く路を辿った。雪解け水でいくらかぬかるんだ小径には、老若男女様々な足跡が入り乱れ、その往来の跡を残している。
この路の外にも、山へ分け入る路などにいくつかの足跡があったが、スグリはそちらには頓着しなかった。雪もまだ解け残り、子育てで気が立っている獣たちもひしめく春先の山へ単身で踏みこむなど、命を捨てに行くようなものだ。どれほど取り乱していたとしても、スグリの知るカガリはそんな愚行に及ぶ娘ではない。義姉も間違いなくこの路を選んでいるだろうとスグリはふんだ。
黙々と泥路を歩いていると、先ほどの家での出来事が想い起されてくる。ナナエとカガリの意味深なやりとり、ナナエから自分と実母とに向けられた憎悪、養父母の諍い……。そのひとつひとつが、スグリの中でぐるぐると渦を巻き、彼女の心を千々に乱した。
まるで、自分が信じてきた全てのものが、何か生臭くておぞましいものを覆い隠すための、薄っぺらいまやかしの寄せ集めであったことを見せつけられた心地がした。幼い頃の自分の頭を撫でていた養母の手も、冗談を言って笑い合った義兄の笑顔も、自分を慰めようとしたサマニの言葉も、全て偽りだったのだ。
心が、どこか暗く冷たい場所へ落ち込んで行くような気がした。スグリは努めて、それらの連想を頭から追い出し、義姉の行方を追うことに専念した。
そのうち、小径に残る足跡の中に、ついてから一際間がないらしいものがあるのに気がついた。大きさや形から見ても、カガリのものに間違いなかった。
その足跡は、始め水汲み場を目指していたようだったが、途中で路傍へと逸れてしまっていた。それを目で追ったスグリは、その足跡が、里の外れの泉を目指しているらしいことに気がついた。ムビヤンが亡くなって間もない頃、カガリが夜中に家を抜け出して目指した、あの泉だ。その瞬間、その足跡の主が義姉であることを確信した。
と、その足跡に続くような形で、もうひとそろいの足跡があるのをスグリは見とめた。カガリのものよりずっと大きい、大柄な男のものだ。跡の残り具合や、ところどころでカガリの足跡を踏みつぶしているところを見ると、彼女が通った後、それを追って泉を目指しているのは間違いなかった。
その歩幅や大きさ、そして、こんな人気のないところまで、わざわざ彼女を追い駆けて来るような者となれば、その主など一人しか思い当たらない。それが誰であるか思い至ったスグリは、頭から血の気が引くのを感じた。急いでそれらの足跡を追った。
* * *
スグリが泉のほとりへ辿り着くのと、女の叫び声が上がるのとは、ほとんど同時だった。慌てて声のした方へ駆け寄ると、そこにいたのは案の定、シュマとカガリだった。
二人は水際で揃って倒れ込み、罵り合いながら取っ組み合いをしているようだった。仰向けのまま必死に抵抗するカガリの上にシュマが覆いかぶさり、抑えつけようとしている。カガリの方が不利なのは火を見るより明らかだった。
スグリはもみ合う二人のもとへ突進し、シュマに掴みかかった。しかし、自分の倍ほどの背丈もあろうかというシュマには敵わず、軽々と振り飛ばされてしまった。地面に身体をしたたかに打ちつけられたスグリは、その痛みでしばらく身動きがとれないまま、眼前に星がちらつくのを眺めるしかなかった。
「何だ、こいつのおまけのチビ鴉か!あんまり小さくて真っ黒いから、ハエか何かかと思った」
カガリを組み伏せたまま、振り返ってシュマが言った。と、そのとき、シュマの注意がスグリの方へ向いたのを見計らって、カガリがシュマの指先に噛みついた。シュマが短く叫び声を上げる。
「こいつ!」
そう言うと、シュマはカガリの頬をげんこつで殴りつけた。カガリの頬と鼻の下に血が伝う。鼻血は彼女のものだったが、頬の血は、恐らくカガリに噛み切られた、シュマの指先の血だろう。
「女だと思って手加減してやってたのに、調子に乗りやがって!」
そう言うと、シュマは何度もカガリの顔めがけて拳を振り下ろした。始めは抵抗して悪態を吐いていたカガリの声が聞えなくなり、抵抗の身振りも弱々しくなっていく。
「カガリ!」
スグリが叫ぶと、シュマが振り向き言った。
「なんだよ、しらじらしいな、化け物のくせに。……そういえば、里の連中、お前のこと恐がってただろう。ヨタカには人の生き死にを操る力があるって、俺が話したからな」
* * *
頭から冷水を浴びせかけられたような心地を覚えながら、スグリは言った。
「なんで、そんなこと……。まさか、私がカガリをそそのかして、彼に呪いを掛けたって言いふらしたのも、あんたなの?」
「別に、俺がそう言ったわけじゃないぞ。里のやつらが、最近お前が気味悪いって言ってたから、親父から聞いたヨタカの話をしてやっただけだよ。あと、お前がやたらとこいつにへばりついてて、水汲みの最中あいつと仲良さそうにしてる脇で不機嫌な顔してたぜって言ったんだ。お前がときどき人目を盗んで、腰に提げた袋からあやしげな塊を取り出して、こそこそ何かやってたってこともな。そしたら、勝手に皆でお前が呪いをかけたんだって言い始めたんだよ」
「でたらめなこと、言いふらさないで!」
スグリは睨みつけたが、シュマは平然と言い放った。
「でたらめ?言いふらす?俺はただ、聞かれたから、ほんとうのことをありのままに話しただけだぜ。……お前、そろそろ気づけよ。嫌われてるんだよ、里の全員から。気持ち悪いって、みんな言ってるぞ」
それだけ言うとシュマは向き直り、カガリの上に屈みこんだ。
痛む身体とぐらつく頭を叱りとばしながら、スグリはなんとか起き上った。そして、まだ力の入りきらない腕で弓矢をつがえ、シュマめがけて引き放った。
矢は宙を飛び、彼の肩に勢いよく突き刺さった。シュマが低い呻き声を上げ、スグリの方に振り返る。
身体が言うことを聞き始めたのを確かめながら、スグリは立ち上がり、立て続けに二番、三番の矢を放った。今朝毒を塗り直したばかりの矢だけを選んだ。毒とはいっても、身体の動きを鈍らせるだけのものだ。彼の動きを封じ、カガリの逃げる隙を作ることができればよかった。
続いて放った矢は、彼の腹と脚に命中した。シュマは低く呻くと、いまいましげに自分の身体から矢を引き抜いた。毒がまわるまでにはまだ間があるだろう。
そのとき、シュマの隙をついてカガリが起き上った。そして、そのはずみで体勢を崩したシュマ目がけて、彼女は何かを振り下ろした。
次の瞬間、シュマが苦痛の叫びを上げてカガリから身を離した。見ると、彼の肩の、先ほどスグリの矢が刺さった辺りに大きな切り傷ができ、血が流れ出している。カガリの方に眼を移してみると、彼女の右手には、血がべったりついた短剣が握られていた。
「気持ち悪いのはあんたの方よ!二度と、あたしの前に現れないで!」
怒りに震える声でそう言うとカガリは立ち上がり、ふらつく足取りでスグリの方へ駆け寄ってきた。そしてスグリの元へ辿り着くと、そのままどっと倒れこんだ。
「カガリ、大丈夫?」
スグリが声をかけると、カガリは首を横に振って応えた。
「あんまり。……あいつの臭い息と体のにおいで気を失うかと思った」
そう言ってから、カガリはシュマの方に向き直った。シュマは茫然とした様子でへたりこんだまま、カガリとスグリとを見つめていた。しかしやがて我に返ると、悪態をつきながら立ち上った。
「お前ら二人とも、そうやってひっついてろよ!気持ち悪いやつらだな。俺にここまでして、ただで済むと思うなよ。二人仲よく、この里に居られないようにしてやるからな!」
そう捨てぜりふを吐くや否や、シュマは駆けだした。ところが、突然よろけたかと思うと、崖に向かって傾いた方へふらふら進んで行く。矢に仕込んだ毒が、今になって効きだしたのかもしれない。
危ない、と思ったときにはもう手遅れだった。躓いて転んだかと思うと、そのまま崖の方へと真っ直ぐに転がり落ちていく。そしてそのまま、崖の下へと姿を消してしまった。続けざまに、何かが地面に叩きつけられる音と、呻き声とが響く。
慌てて駆け寄り崖を覗きこんだが、鬱蒼と茂る樹々に紛れ、シュマの姿は見つからなかった。もしかしたらどこかの木にひっかかっているのかもしれなかったが、崖の下は狭い急流で、下りて助けることはできない。仮に生きていたとしても、けが人が自力で這い上がることは難しいだろう。
突然吐き気に襲われて、スグリは泉の方へ引き返した。ひととおり発作が治まってから顔を上げると、目の前にカガリがいた。黒い頭巾は取り去られ、彼女の傍らに置かれている。泉の水で顔についた血はあらかた洗い流したようだったが、無残に腫れあがった頬や瞼が痛々しかった。
彼女の顔を目にした途端、力が抜けたようになった。目の前で起こった一連の出来事と、自分のしでかしたことを想い起すと、身体が震え始めた。シュマに向けて弓を引いた感触が、まだ腕や肩、指先に生々しく残っている。
「あいつ、死んだの?」
無表情のまま、冷ややかな声でそう言って、スグリの顔を覗きこむ。スグリはとっさに返事をできず、黙って義姉の顔を見つめ返した。顔の造作は醜く歪んでいるはずなのに、彼女の顔は、まるで朝日に耀く氷柱のように綺麗に見えた。
「死んだのね」
「……多分。生きてたとしても、助けられないし、助からないと思う」
スグリが辛うじてそう応えると、カガリは黙って頭巾を被り直した。
「そう。……それなら、いいわ」
呟くようにそれだけ言うと、カガリは座り直して言った。
「もう少し休んだら、里へ戻りましょう」
少し躊躇った後、意を決してスグリは言った。
「だめでも、助けを……」
「いいのよ、あんなやつ」
カガリがぴしゃりと遮った。
「でも……。あたしが……」
「このことを知っているのは、あたしとあんただけ。それに、あんな崖に落ちたら、きっと誰も気づきっこないわ。里に戻って、あいつがいないことについて誰かから聞かれても、知らんふりすればいいのよ。あいつを殺したのは、あんたでもあたしでもない。あいつが勝手にあたしたちを襲って、勝手に死んだのよ」
酷薄なもの言いに、スグリは寒気すら覚えた。
「カガリ?」
「そろそろ、戻った方がいいわね。行きましょう」
「カガリ……。ごめん、あたし、もう、帰れない」
「どうして?」
一息吐いてから、スグリは言った。
「かあさんに……。化け物って言われた。気持ち悪いって、家から出て行けって」
スグリには構わず、カガリは早足に歩いていく。と、突然立ち止まると、呟くように言った。
「自業自得よ」
「……何が?」
「あいつ。自分の手であの人を殺して、それと同じような方法で、自分も死んだのよ。自業自得だわ」
その意味が飲みこめず、スグリはカガリを見つめた。しかしやがてその意味に思い至り、息を呑んだ。スグリの心の内を見透かしたようにカガリが続けた。
「あんたは気持ち悪くない。……気持ち悪いのは、あんたを利用して自分たちの醜さから目を背け続ける里の皆よ」
* * *
その後、カガリと共に家へ帰り着いたスグリを、家族は黙って迎え入れた。ナナエは彼女の顔を一度たりとも見ることはなく、他の家族も、誰一人として彼女に声をかけることはなかった。
まるで、ここにありながら、自分が居ない者となってしまったようだった。その日から、スグリは里の者とも家の者とも、ほとんど一切話すことはなくなってしまった。ときたま口を開いても、彼女の言葉は誰にも受け止められることなく黙殺されるばかり。養父のマシケと義姉のカガリとだけが、辛うじて、彼女を“居る者”として扱ってくれた。
シュマが行方知れずとなった後、カタヌシが音頭をとり、いく度となく里の者総出で探した。しかし、スグリたちにとって幸いなことに、彼が見つかることはなかった。彼の死にスグリたちが関わっているということすら、里の者たちに気取られることのないまま、真相は闇に葬られたのだ。
カタヌシがシュマを探すことを諦めたという話を聞かされたとき、カガリもスグリもほっとして、そして同時に強烈な後ろめたさも覚えながら、思わず目を見交わした。しかしそのときも、ナナエは、義姉妹がシュマとの結婚話が消えたことに安堵していると決めてかかっているようだった。
「何をほっとしているの。これで、あんたの結婚がまた遅くなるのよ。……ただでさえ、あんたは独り身の娘たちの中でも年長なんだから、このままでは、ほんとうに、大変なことになるかもしれない」
とげとげしい声音でそう言ったナナエを、義姉妹二人は黙って見つめ返すばかりだった。もっとも、ナナエにとってスグリは居ないも同然の扱いで、スグリの眼差しを彼女がかえりみることはなかった。
そうこうするうちに、里の周囲の雪は陽差しの強まりとともにみるみる融け消え、日増しに春めいていった。そうして、あっという間に、スグリがミクリの庵へ移り住む日がやってきた。
里からヨタカの庵へ行くまでの道連れ役はカガリが担った。本来は母親の役目だったが、ナナエが頑として拒んだようだった。マシケもカガリもはっきりそうとは言わなかったけれど、二人を除く誰一人として見送りに現れなかったことからも、推し量ることは容易かった。
スグリの庵入りの日取りが早まったのもそうだ。もともとは同席するはずだったウリュウとサマニの結婚式は、まだ先だった。
昼下がりに里を出て、日が暮れる前にはミクリの庵に辿り着く。道連れが養母でないことに、祖母は然して驚きを見せなかった。もしかしたら、そうなるであろうことを、うすうす予感していたのだろうか、とスグリは危ぶんだ。あるいは、単に関心がなかっただけなのかもしれない。
その後すぐに、カガリからミクリへと、スグリを受け渡す義礼を済ませた。マシケたちからの礼の品の引き渡しも済むと、ミクリが用意した質素な祝いの膳で饗応を受ける。それも終われば、スグリはもう、ヨタカ見習いとして、生家のものたちとは異なる岸の者となるのだ。
全て終わった後、今度はスグリがカガリを見送る者となった。庵を背に、二人は粛々と進んだ。どこか遠くで、二人の別れを急かすように鴉が鳴くのを、スグリは聞いた。
湿原へ出る路の辺りまで差し掛かったとき、不意にカガリが立ち止った。
「もうこれで、あんたとは義姉妹でなくなるのね」
何の感慨も含まないもの言いだった。その面は黒い頭巾に覆われ、読み取ることはできない。
返答の言葉に窮して、スグリはカガリの黒い頭巾を見つめ返した。すると、彼女はふいと顔を逸らし、続けた。
「あの里で、明日からあたしは独りぼっちになるわ」
「独りぼっち?カガリが?……独りぼっちはあたしの方でしょう」
思わず素っ頓狂な声を上げて、スグリは義姉を見上げた。
「あんたには、ミクリ様がいるでしょう。“ヨタカ”であることを分かち合える、たった一人の肉親」
突き放すようにそう言い返すと、カガリは顔を伏せた。
「あたしには、いない。誰も、いないのよ」
日暮れ間際の冷たい風が、二人の間を通り抜けた。その拍子に、カガリの眼前を覆う黒い布が揺れ、彼女の白い頬や顎にまだ紅く残る、痣や切り傷を露わにする。
たとえその傷が癒えたとしても、彼女が負った目に見えない傷は、生涯彼女を苛み続けるだろう。そうして、それを分かち合うことのできる者は、あの里には一人としていないのだ。そのとき、スグリは初めて、里の者たちから置き去りにされるのは自分ばかりではないのだと悟り、愕然とした。
「ねえ、スグリ。どうしたら、あんたのいる“そっち側”へ、あたしも行けるの?」
震える声でそう言ったカガリを、スグリは黙って見つめた。この冬から春にかけて、彼女の負ったものの重さも痛みも、スグリの想像を絶するものだろう。それを彼女が独りで抱えこれから生きて行くことを想うと、胸が痛んだ。
けれども、彼女が彼女の重荷を抱えているのと同じように、スグリもまた、彼女にしか背負えないものを、望む望まないに関わらず背負わされてきたのだ。誰とも分かち合えず、呑みこみ己の中に沈めるしかなかった想いも、数えきれないほどある。
少し躊躇った後、ひとつ息を吐いてから、はっきりとした声でスグリは応えた。湧きあがる怒りとも悲しみともつかない感情を、できるだけ声音に出さないよう、細心の注意を払いながら。
「それじゃ、代わりに教えて。……どうしたら、あたしは“そっち”に残れたの?」
カガリが、はっとしたように息を呑んでスグリを見た。二人の間に、互いに探り合うような沈黙が走ったのは、ほんの束の間だった。すぐさま、義姉が彼女の意図を察したらしいことが感じられたし、スグリがそれを感じとったことも義姉に伝わったようだった。
もの心つく前から、互いに異端にありながら、互いに誰よりも親(ちか)しい者として相育った同士だからこそなせる業だろう。しばらく黙ってスグリを見つめた後、大きく溜息を吐いた。
「そうね。今さら足掻いたって、どうにもならないのに。……ごめん。ばかなこと言ったわ」
「ううん。……あたしも、ずっと思ってたことだから」
そう言って、スグリはゆっくりかむりを振った。どこか遠くで鴉が鳴き交わす声が響く。陽がぐんぐん傾き、樹々の描く影がどんどん濃くなっていく。吹き付ける風からは春のぬくもりが消え、冬の名残が顔をのぞかせ始めていた。
「早く、帰らないと……」
そう言ってから、今の自分の言葉は、誰を、どこを指して発せられたものなのだろう、とスグリは危ぶんだ。
そのとき、不意にカガリが頭巾を取り、義妹を真っ直ぐ見据えた。
「ねえ。最後に、義姉妹として、お願いがあるの」
「なあに」
我知らず、泣き出しそうな情けない声でスグリは応えた。冷たい風が容赦なく吹きつけ、身体の熱を奪っていく。わけもなくみじめな気分になって、スグリは危うく泣きだしそうになった。
「これ」
そう言って、カガリが腰袋から何かを取り出した。見ると、それは翡翠の耳飾りだった。彼女の夫となるはずだった、ムビヤンのもの、今となってはたった一つの彼の形見だ。
「それが、どうしたの」
鼻をすすりながらスグリが問うと、取り微笑んだ。久しぶりに見た彼女の笑顔は、痛々しくひき吊っていた。これが最後に見る、義姉としての彼女の表情なのかと思うと、どうしようもなく胸が締めつけられた。
彼女がゆっくりと口を開く。その口から飛び出した言葉に、スグリは耳を疑った。
「ここに埋めて行きたいの。……手伝ってくれない」
「どうして?埋めるなんて……大切なものでしょう」
「いいから、手伝って」
有無を言わさぬ調子でそう言うと、カガリは辺りを見回した。そして、埋めるのに丁度よさそうなところに目星をつけると、すたすたとそちらへ向かっていく。スグリは慌ててその後を追い、不承不承ながらも義姉の願いに従った。
近くに落ちていた小枝を使い、地面に拳から肘までほどの深さの穴を掘る。そしてその中に、美しい刺繍の入った布地に包まれた耳飾りを納める。
「ここに埋めて、どうするの。……もしかして、忘れるつもり?」
恐る恐るスグリは尋ねた。すると、カガリは、ふん、と鼻で笑って応えた。
「まさか」
「じゃ、どうしてこんなこと……」
スグリがたたみかけると、義姉は薄く、いくらか皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「忘れないために、よ。ここに埋めて、ここを通る度に思い出すの。一生、死ぬまで。……あたしにとっての、“埋め火”ってところかしら」
「”埋め火”……」
冬の間、幾度となく目にした、ナナエとカガリとの特訓の光景を想い出した。灰と炭との間に隠すように、けれども火種を絶やさぬように、夜毎残し置く埋め火。
たとえどんなに表からは消えているように見えても、炉の奥深くで火種は息づいているのだ。それは、その家の炉に火が点されたときから途絶えることなく、家人とともに生き、その暮らしに熱を与え続ける。
きっとその埋め火のように、ムビヤンの形見とともに、彼との想い出ここにも置いていくつもりなのだろう。たとえ、里での生活がどれほど彼女を圧しようとも、彼女の魂はここにあって、生き続けるのだ。そこまで考えたとき、自分の心はどうなるのだろう、とスグリははっとした。
スグリの心を置く場所は、里にも、もちろんこれからミクリと暮らすあの庵にも、どこにもない。そのどちらかに心を置こうとすれば、きっと彼女の心も魂も死んでしまうだろう。そう考えるとぞっとした。考えるより先に、言葉が口を突いて飛び出した。
「ねえ、カガリ」
「なあに」
少し迷った後、スグリは意を決して言った。
「あたしも、ここに何か残していきたい」
土をかぶせる手を止め、考え込むような顔でスグリをじっと見つめた後、カガリがあっさりと頷く。
「いいわよ。……それで、何を埋める?」
「えっと……」
スグリは慌てて腰袋の中をまさぐった。然ほど深く考えずに口走ったため、とっさに思い浮かぶものがない。と、そのとき、柔らかいものが指先に触れた。取り出して見ると、見慣れぬ刺繍の施された、赤い布袋だ。あの、ウメチヨという異郷の少年から贈られたものだった。布袋は夕陽を浴びて、実際よりずっと赤く見え、まるで燃えているようだとスグリは思った。
目にした瞬間、これだと直感した。まだ僅かに残った木の実の香りを思い切り吸いこんだ後、スグリは宣言した。
「これにする」
「なあに、それ。どこで手に入れたの?」
もの珍しそうに眺めまわしながらカガリが尋ねた。もったいぶってスグリは応える。
「内緒」
「なまいき。……まあ、大して興味ないけど」
にやりと笑ってカガリがスグリを小突く。スグリも思わず笑った。こんな風に義姉と笑い合うのは、もう随分と久しぶりだった。気持ちが変わってしまう前に、そそくさと小袋を穴の中に放り投げる。
この袋とともに、自分の心をここに置いて行くのだ。決して見ることの叶わぬ異郷の地への、焼けつくような憧れも、まやかしに過ぎなかった、星ノ森での温かい想い出も。
これからあの庵で暮らすのは、人殺しの罪を背負った、スグリという名の冷たい抜け殻に過ぎない。
そう思いながら土で穴を塞いでいたら、不意に涙が溢れてきた。決まりが悪くて義姉の方を伺うと、彼女もまたぽろぽろと涙を流していた。スグリの眼差しに気がつくと、彼女は決まり悪そうに顔を顰めた後、俯いて涙を拭った。二人とも、お互いの思い入れの品に、黙々と土を被せ続けた。聞えてくるのは、鳥たちの鳴き声と風の音、そして、互いのしゃくり上げる声と鼻をすする音ばかり。
やがて、カガリが口を開いた。
「スグリ、うるさい」
「カガリだって、うるさい」
そう言い合ってから、二人は見つめ合い、無理やり笑い合った。これが、ただの義姉妹として、そして無邪気な“娘”として、互いに向き合う最後の刹那なのだと、はっきり理解していた。
最後の温かい記憶、優しい記憶は、それぞれの身体から離れて、ここで永遠に燻り続けるのだ。各々の心を生かし続けるための、“埋め火”として。
(続)
表紙画像 (C)柴桜様 『いろがらあそび5』作品o.2
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