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理事長 村石久二の想い~財団設立に向けて  自著『澄和(とわ)』より その1

前回まで第1回澄和Futurist賞にまつわることをご紹介してきました。
ここからは、財団 澄和設立について、そこに至る理事長 村石の思いを自著『澄和』からの一部抜粋も併せ、2回にわけてお伝えします。

(ちなみに、村石はこれまで10年毎に自身と会社の歩みを書籍に著してきました。タイトルはすべてオリジナルの造語で、それぞれ『夢現(むげん)』(1984年出版。創業から15年を経て、中堅企業へと進みだした時期)、『汗生(かんせい)』(1994年。バブル経済に翻弄されることなく堅実に歩んだ時期)、『種実(しゅじつ)』(2004年。総合生活文化企業としての拡充期であり、次世代へのリレーが視野に入った時期)、そしてこの『澄和』(2014年。東証一部上場を果たし、和の経営が充実するとともに、人生のミッションを意識した時期)となっています。)

村石は太平洋戦争さ中の1944年9月の生まれ。ところがお父さんがその前に中国へ出征し、漢口(現・武漢)の地で戦病死してしまったのです。我が子を一目見ることもなく帰らぬ人になってしまった父親の無念はどれほどのものだったでしょう。東京から長野に疎開し、大黒柱を失った一家は、戦後の混乱期にお母さんと兄弟4人で厳しい環境に置かれます。そして、貧しい中でも周囲の人たちの温かな手助けにも恵まれ、信州の雄大な自然に囲まれながら育ち、知らず知らずのうちに人一倍強い平和への思い、人の和や自然の大切さが刻み込まれていきました。
24歳で銀行から独立した村石は、半ば当然のように「人の和」を常に中心に置く経営を標榜します。途中からスターツコーポレーション株式会社と名を変えた会社は、順調な発展を遂げました。そして70歳を目前にし自著『澄和』で改めて平和への思いと財団設立への思いを綴ったのです。

次回は、財団設立への思いを『澄和』より抜粋してお送りします。
(澄和 事務局長 青柳信久)