和代
現代俳句から気に入った句の鑑賞文をぽつぽつ書いています。しっかりした感想文というより、ひとりごとや連想ゲームのような感じ。
WEBメディア「閒(あわい)」に短歌を寄稿しました。「うす紅に包まる(短歌15首)」、今までに作った短歌を編み直した連作です。自分の書いてきたもの、これからも書いていくだろうものがふわりと表れているように感じて、面白い作業でした https://awai.jp.net/blog/tanka2-ks
私が一番寂しかったとき 電子ピアノの前に座って じっとしていた 日が落ちた 骨壺のような暗い部屋で 寂しいなんて便利な言葉を知らなかったから 居間では母と叔母と叔父といとこが 静かな声で話している 父は神棚の 小さな白い箱のなか ピアノの蓋を開けて 白鍵と黒鍵を眺めて そっと閉じた 母が階段を上る音がする なにしてるの、と声がする ピアノをみてるの。 私は酷だから 泣かないで。 お母さんが泣くの、わたしこわい。 そうだね、と 母は居間に下りていく 窓を開け
呪いについて考えている。 受験し、無事に合格した県立高校に9日足らずで行けなくなった私は、6月の転入までの記憶があまりない。たぶん、鬱々として朦朧としていたのだと思う。クラスメイトの男の子から心配して電話がかかってきたこと、中学の同級生かつ現クラスメイトの女の子から電話がかかってきたことくらいだ。そして、当時の担任からの呪いの言葉。 担任の家庭訪問や電話は、主に母が対応してくれていた。たまたま電話に出てしまったのは、前述の女の子からの電話の直後だったからだ。彼女が折り返し
edirecoでWEBライターとしてのポートフォリオを作成しました!もしご依頼いただける際は、こちらのページに貼っているGmailアドレスからご連絡いただけると助かります。このつぶやきへのコメントでも対応可能です✨ https://satokazuyo.edire.co/
Webメディア「閒」に短歌を投稿しました! 「ほのあかり(短歌5種」 https://awai.jp.net/blog/tanka1-ks
ワニ、、、。食べたことがない。 「きつとさう」というのだから、作者の村越さんも食べたことはないのだろう。食べたことはないけど「燻製したら美味しい」と、割と強い気持ちで思っている。「きつとさう」という言葉には、不思議な確信を感じる。 「きっと」と「たぶん」。近い意味の言葉だけれど、受ける印象は結構違う。この句だって「たぶんさう」だったら、だいぶ自信なさげになる。 「きっと」は、明るい言葉だ。音としてもか行・た行の響きと、はねる「っ」の音は軽やか。明るく肯定的な予想を感じる。
天王寺・王子・斑鳩。そして「春」。 なんて雅な文字列の並びだろう。 「一切」という強いワード、そしてすべて漢字表記であることが雅さを、というか「平安貴族感」を高めている。 「どこもすべて春であることよ」、異論は認めない。 宮崎の中学生は、だいたい修学旅行が関西方面だ。もしくが沖縄。 私の中学では、5月に奈良・京都・大阪を訪れた。 その頃にはもう体調を崩していたので、あまり記憶がないのだけど。 東大寺や興福寺をガイドさんに連れて行ってもらいながら、わざと列の後ろの方を歩い
テーブルの上のピザ皿から、光があふれる春の野へ。 急なワープが楽しいなぁと思う。目の前30センチの視界から、野原を見渡す視点への移動に爽快感がある。 ピザ、ってなんとなく晴れやかな食べ物だ。どうしたって湿っぽくは食べられない。カラフルだし丸いし、だいたい複数人で囲んで食べるし。 ピザカッターの感触もいい。たららららっ、と転がっていく。 転がっていくピザカッターについていったら、春の祭りが始まるだろう。 (村越敦さんは、俳句会「澤」に所属する俳人です。1990年生まれ、私
油揚げ。 どんな料理を想像しますか? 私がこの句を読んで連想したのは、おいなりさんでした。 春、と入っているからかな。お花見の席に合いそうなものを想像したのかもしれません。 おいなりさん、作るのが結構好きです。お揚げを甘辛く炊いて、椎茸とかにんじんを刻んだものも煮て、ご飯に混ぜ込んでお揚げに詰める。 うちのおいなりさんは三角です。 中身はお家によって結構違いますよね。うちは椎茸と人参を入れるけど、ご近所さんからもらったのは酢飯とごまだけだった。それも美味しい。 ふと
なんてチャーミングな句…! 例えば、連休明けのオフィス。少し空いた時間に、同僚たちと連休の話をしたとき。 「連休何してましたー?」 「彼氏とディズニーランドに行ったんです~♡パレードでめっちゃ写真撮ったんですよぉ、見てくださいこれ~」 という、女性社員のマウント交じりのエピソードトークが始まる横で、中山さんは言うのです。 「わたし、スプーン曲げの練習してたら連休終わっちゃったんですよー」 コインは消せるようになったんですよ、ほら。と、手近にあった10円玉を消す中山さ
中学生のころ、夏の文庫フェアで平積みされていた桝野浩一『ショートソング』を手にとりました。 そこから少しずつ短歌を好きになり、今も地元の文学賞に投稿したりしています。 さっき、ふとしたきっかけで「謝られ」の方を思い出しました。結構頻繁に頭をよぎる歌で、きっと私の価値観の一端を作っているのだと思います。 「だれからも」の方もそう。私を鼓舞する歌の1つになっています。 ずっと、枡野さんの作だと思っていたのですが改めて調べてみると宮田ふゆこさんという方の短歌なのだそうです。 2
エッセイを寄稿しました。 「宝探しと、宝だった時間のこと」 https://awai.jp.net/blog/essayks
AとB、どちらの考えも理解できるというのはつまり、私自身のことは誰にも理解してもらえないことを示すのだと思う。私は誰の仲間にもならない、なれない。 いつでもどこでも誰といても、私は私の「月の裏」にいる。 https://note.com/nagomnagom/n/necf39e3d09ce
秋はじめ、うちにはあるだろうか。 オーソドックスに夕飯にサンマが並ぶと「秋が来たなぁ」と思うけど、この句のように「わけわかんない」ではないなぁ。 ガーデニングが趣味の母には、きっと「秋はじめ」がたくさんあるのではないだろうか。この花が終わったら秋、葉っぱの水分が減ってきたら、この虫が減ったら。植物と関わるのは季節に敏感になることでもあり、俳句向きの趣味だなぁと思う(母は俳句に興味がないですが)。 よそのお家の慣習って、だいたいわけわかんない。友達であっても、なんなら叔母の
ロシアの民芸品、マトリョーシカ。 入れ子構造になった可愛らしい人形は、箱根細工の七福神人形がもとになった説もあるそうだ。 大きさこそ違えどフォルムは同じ人形は、それだけで一体感がある。 まさに「我々はマトリョーシカぞ」。1列に並んだ状態かもしれないけど、1つにまとめられた状態で士気を高めていると考えるのも面白い。 いや、士気ではなくて「秋気」なのだけども。 ひんやりとした秋の空気の中、マトリョーシカは誇り高い。 *** 現代俳句・短歌を好む私が、ひとつひとつの作品を読
こんにちは。かずよです。 4月も9日が過ぎましたね。 月末に30歳になります。びっくり。本当ですか?のお気持ちです。 29になったくらいから、「私は本当に30まで生きてるのかな」と疑問でした。これ、だいたいもっと若い頃に抱く疑問らしいのですが、30歳を目前に控えたくらいから思うようになった。あまりにも現実感がなくて… どうやら本当になるようです(1か月無事でいれば)。 3月に読んだ本を紹介します。 5冊読みました。1冊漫画を入れていますが、今回は特別。面白かったのでお