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感謝病に罹っていたな、、、

坂爪圭吾さんの少し前の記事を改めて読んでいたら、今の私にぐさりと刺さる内容だったので記録しようと思う。

私の根っこにあるのはこういう事なんだろうなー。

初対面の人が多い場に呼ばれて行ったとする。表面的にはいい人で明るい人が多いのだが「なんだか苦手だな」と思ったら、すぐに出た方がいい。呼んでもらったのに悪いなとか、声をかけてくれたことに感謝だとか思って長居をすると、どんどん生命感が死ぬ。反動にやられる。ノーと言えないと奴隷になる。恩を感じる必要はない。恩は鎖だ。恩の反対は愛だ。恩とは、愛についたゴミである。恩を感じると奴隷になる。愛は無条件。恩は借金。あの人には恩があるなどと思う必要はない。恩とか情とか忠とか義とか、持てば持つほど奴隷になる。「恩の気持ちを忘れたら人でなしになるのではないか」と思うかもしれないが、ならない。恩が消え去れば、ただ「好き」と言う気持ちだけが残る。

「感謝をすると奴隷になる。」坂爪圭吾さんのnoteより


私は重篤な「感謝病、ありがた病」に罹っているなと思う。
有難くもないのに、ありがたいと言わねば、ありがたがらねば、と思ってしまう。

意識してなくても媚びへつらう精神がデフォルトに染み付いてるんだよなぁ、、、

「息を吐くように嘘をつく」なんて言葉があるが、息を吐くように「ありがとうございます!」と、たいしてありがたくもないのに一日何回口にしているだろうか。

大袈裟に「ありがとう」と言っていれば、良い人だと思ってもらえるとか、信頼に値する人間だと思って貰えるとか、そんなセコい思惑があったと気付いた。
もちろん無自覚で。

私は誰に頼まれてもないのに、自ら進んで「奴隷」に志願している。

たいして尊敬もしてない相手に、感謝してるだのなんだのと、本気で思ってもいない嘘を吐いて、媚びへつらい、仲間に入れてもらおうとしてる。

それで気に入らなくなれば、「しょーもないやつらだった」と悪態をついて切り離す。

支配されてる振りをして、支配しようとしていたんだな。
タチが悪い。
それがこれまでのパターンだったんだなーと。

そもそも「仲間」なんてのは、能動的に「作る」ものじゃないよね。
ましてやお金を払って、入会金を払って作るものじゃない。
金で買える「仲間」なんて、薄っぺらな幻想だよなぁ、、、

そもそも「仲間」というのが自分にとってなんなのか? 必要なものなのか?ってとこから、見直さなくてはだね。

とりあえず、「ありがとう」ではなく「どういたしまして」と言い換えることをやってみたいなと思えた。

「ありがとう」以外の言葉を思い付かなかったからな。

「どういたしまして」でいいんだ。
いい言葉だな。

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