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【クルマのお話】女神~Renault 21 Turbo Quadra~
北野坂の西村珈琲から車に戻ると、女性が一人、車の傍に佇んでいた。
多分年上で、短過ぎないスカートから綺麗な脚が伸び、アンクレットが光っている。
別嬪だ。
山と海に挟まれた小さな街は、これから人と車が増えていく。
彼女も人待ちなのだろう。
その後ろを通り、ドアロックを解いてノブに手を掛けると、
「あの・・、ルノーですよね。ヴァンテアン(21)」
という声が届いた。アリュールがふわりと香った。
顔のイメージから想像するより低いトーンだが、声も“別嬪”だ。
「?」
「ごめんなさい。珍しいな、と思って」
「そう、ヴァンテアン(21)ターボ。もう20年以上前の車です。この車の名をご存知の女性の方がよほど珍しい」
それが別嬪なら更に、とは言わなかった。
「でも、20年前の車には見えません。とても綺麗」
「レストア・・、いや、修理したんです。エンジンも内装も、塗装もやり直しました。今夜は完成後の試運転なんです」
「レストア、分かります」
「素人にできるところだけ、ですけどね。大半はプロにお任せ。僕がやったのは掃除と細かな補修と、後は電気周り。それでも半年以上かかりました」
話している間も、彼女は車を見ていた。よほどの車好き、フランス車好きなのか。
『さりげなく、さり気あるもの』
まだ免許も持たない、高校生の頃に読んだ雑誌で、かの徳大寺さんがそう評していた。
初対面の女性を車内に誘う性格でもなく、レストア自慢をする場面でもない、と思い、
「それじゃ」
と挨拶して車に乗り込んだ。
「お気をつけて。大切にしてくださいね」
という声が聴こえた。
どうもありがとう、と言おうとして振り返ると、もうそこには誰もいなかった。
待ち人が来たにしては周囲に車はないし、立ち去ったにしても速過ぎる。
気をつけて、という声だけが耳に甘い。
「?」
大振りなシートに身体を預け、コーヒーの入ったボトルを助手席に置いて、改めてポジションを合わせる。
ガレージからここまで走ってきた感触は悪くなかった。いや、期待以上と言っていい。
ボディの補強、電装系の引き直しから、エンジンのバランス取りと若干のチューン。
あくまで控えめに、それを良く知る者でなければ分からないほど密やかに、内外装・機関にアップデイトを施したヴァンテアン。
「・・シュペール・ヴァンテアン」
そう独りごちてキーを捻り、エンジンをスタートさせる。スタート/ストップのプッシュボタンが流行りだが、これはこれで悪くない。低い音質でアイドリングが始まる。
元々2リッター4気筒にターボをかけたエンジンは、エンジンフードを上げて見ても変わり映えしないが、僅かにボアアップしたし、タービンも最新のものに換装している。
バランス取り、鏡面研磨、etc。免許取立ての学生の頃、自動車雑誌の紙面を飾っていた古(いにしえ)の技法の数々。エンジンの要素技術やメーカーの生産技術・工作精度が格段に上がった現在ではさっぱり聞かなくなったし、当時だって、実際に見たことはなかった。
でも、その頃の憧れを思い切り我侭に詰め込んだ車が一台、今確かにここにある。
ステアリングコラムから伸びた独特のライトスイッチを捻る。目の前を照らす光は21世紀のそれだが、メーターを照らすのは20世紀末に視た、どこか柔らかなオレンジ。
右にウインカーを出し、ギアを1速(ロー)に入れて静かにクラッチを繋いでいく。今となっては小振りで、端正な4ドアのボディが、再び路上に滑り出していく。
二十代の半ば、さほど程度のよくなかった個体を憧れと勢いだけで手に入れ、次々に起きるトラブルに翻弄された。修理費用にも泣かされたけれど、それよりも、好きで手に入れた車に乗っているのに、乗っている間ずっと、その車に全幅の信頼を置けないでいる気分に、僕は耐えることができなかった。
ある年の冬、交換したばかりのバッテリーが一晩で上がった時に、僕はその車を手放すことを決めた。限界、だった。個人売買のコミュニティサイトで見つけた相手に、伊丹空港の駐車場で引き渡した。
空港からの帰り道、モノレールの座席の隅っこに座り、ポケットに手を入れたまま、ホッとしたような、寂しいような、納まりのつかない気分で家に帰ったことを、寒空とともに記憶している。
あの頃の手触り。あの頃の景色。
でも、あの頃と違うことも確かにある。
僕は今、この車のことを隅々まで知っている。全てが分解され、正しい形状に修正され、磨き上げられて、また一台の車に組み上げられる様子を、僕はずっと見てきたし、その作業の幾つかには、僕自身も加わった。プロの仕事を目の当たりにして、驚きもしたし、感謝もした。
これは佳い車だ。
そう呟いた瞬間、仄かにアリュールが香り、先程の女性が思い出された。
・・・そうか
この車のブレーキキャリパーも、整備の際に磨き上げ、控えめな金色に塗っている。
加速していく景色の中に、足許を飾る甘やかな輝き。
貴女とは長い付合いになりそうだ。
(了)