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ディア【第4章】
第4章 風呂敷を広げられない
Monday,5/10/2027
毎週月曜日は、消耗品の買い足しや在庫の確認、簡易清掃から始まる。というか、始めることにした。そうでもしなければ、生活力を母体に残してこの世に生まれてきてしまった小豆沢先輩の手によって、検閲室が瞬く間に優雅と雑多のカオスに後戻りしてしまうからだ。
「おはようございます」
挨拶をして検閲室に入室したものの、当然返事はない。振り子時計は8時42分を指している。
まずは自席にビジネスバッグを置き、局員証をタイムレコーダーにかざす。昨日残業してやっとのことで片付けた午後の便を整理して、藤さんに預ける支度をする。
「今日は書棚の整理やな」
と本日の狙いを定め、窓際の書棚から中身を全て引っ張り出す。
パッチワークのように色とりどりのリングファイルが床一面に並ぶ。その一つ一つには、せとうち支局検閲室がこれまでに担当してきた郵便物に関する情報が事細かに記載されている。とは言っても、何月何日何曜日、誰が誰にこういう手紙を送った、などと個人情報丸出しで残しておくわけにはいかない。
そこで、用いられるのが検印だ。検閲を担当した郵便物には検印を押すことが義務付けられている。書類には、そのナンバーと担当検閲官の名前が記載される。そうすることによって、何か問題が起こった時に、「この手紙の検閲を担当したのは、某支局の誰それだ」と特定することができる。
ただ、検閲の際に何かトラブルが起きたり、事件性が怪しまれたりした事案に関しては、その詳細が包み隠さず記載されている。それらの整理も我々検閲官の大切な仕事だ。
リングファイルを古いものから順に並び替えていると、あるファイルに目が止まった。
「はようございます」
8時58分。先輩がネクタイを結びながら検閲室へ入ってきた。
「先輩、これは何ですか」
私は、今日も始業ギリギリに打刻をする先輩にそのファイルを突きつけた。
「それは、あれですね。一ヶ月前の事例の報告書」
「『犯人は玉ノ井漣』事件」と題されたファイルを一瞥して先輩は軽く言った。
「いやあ、あれは面白い事件でしたね。中原さんも大活躍やったし」
「勝手に事件にしないでください。こんな適当な名前で管理していて問題ないんですか」
「朝から片付けって、中原さん元気ですね」
私の言葉を受け流しながら、先輩は自席へと向かった。本日のスケジュールを確認しながら、大きなあくび。私は諦めて書棚に泣きつく。これで良いのか、せとうち支局検閲室。
何を隠そう、小豆沢先輩はこれらの事務作業がてんで苦手だ。今も、ほら。なぜか書類の中に領収書が挟まっている。これは一体いつのものやら。
「先輩、この領収書って」
私が再び振り返ると、先輩は思ったよりも近いところに立っていた。
鮮やかなパッチワークの中からファイルを一つ取り上げたかと思うと、先輩は淀みなく呟いた。
「The only way to deceive people`s eyes is retro.」
「え、あの、」
私はその表紙を下から覗き込む。
「レトロ事件、ですか」
ファイルから視線を上げた先輩が、思い付いたように言った。
「中原さんは、大学生の時ですか」
「はい、もう2年も前の話ですね」
先輩は、手に持った黒いファイルの一ページ目を捲った。
「中原さんも一度見ておいた方がいいかもしれません。俺がまだ高校で講師をしとった時の話になりますけど」
「講師ですか?」
しかし、先輩はそのことについて話す気はないらしく、文字を指で追いながら書類を読み上げ始めた。
「事件の始まりは2025年4月1日火曜日。朝の5時47分。岡山県通信指令システムに『爆破予告の手紙が届いた』との入電がありました。ごく普通の一般家庭からです。エイプリルフールっていうこともあって、始めは特に相手にされんかったみたいですけど、6時から8時の間に全国各地で同様の入電が相次ぎました。予告は、一般家庭や学校、警察署、公共交通機関にまで及んだとの話もあります。通勤ラッシュ時に重なったこともあって、全国的に大規模な混乱が起こったのは、中原さんも覚えとると思います」
私は一度頷いて見せる。
その事件を知ったのは、大学へ向かう高徳線の車内だった。
曇天を睨みつけて、今日の予報は雨やったかなと天気予報を開いた時、ふ、と目に飛び込んできた速報があった。
「相次ぐ通報! 全国各地に爆破予告か」という題字に頭を殴られたような衝撃を受けた。次第に、同じニュースを見たのか、車内の中にも動揺の声が広がっていった。私はイヤフォンを繋いで速報のニュース動画を再生した。
その時はまだ事件の概要が明らかになっておらず、報道も曖昧な点が多かった。そのため、「凄いことになっとるなあ」とどこか他人事だった。
ただ、大学の最寄り駅に到着し、改札へと向かう途中で急に不安に駆られ、自宅に連絡を入れたことは覚えている。
「そして、9時24分。爆破予告が届いていた香川県のある小学校が実際に爆破されました。幸い、その小学校は予告を受けて休校措置を取っていたため、児童に被害は及ぶことはありませんでした。けど、まあそのニュースが全国で放送されて、日本は文字通りパニック状態に陥りました」
先輩は一つページを捲る。
「昼も夜もひっきりなしにそのニュースは続き、予告が届いた場所は捜索が行われるようになります。そして更に厄介なことに、ネット上には嘘の映像と共に『○○、爆発した!』というようなコメントを添えたフェイクツイートやフェイクニュースが多く出回り始めました。虚偽の通報が相次いだとの報告もあります。この一件がきっかけで、ここ数年のサイバーセキュリティーやバーチャルパトロールは年々厳重になっとります」
「最近、その類の話は本当によく聞きますね」
「それだけレトロ事件が世間に与えた衝撃が大きかったってことでしょうね。事件から一週間もしないうちに、偽物の爆破予告が郵送される事例も発生しとるみたいです。まあ、どんな時代にも暇な奴はおるもんです。ですが、本物だろうと偽物だろうと、予告が届いた限りは安全が確保されるまで、いつも通りっていうわけにもいきません」
またページが捲られる。改めて辺りを見渡してみると、床に散らばった他のファイルより、このファイルは圧倒的に分厚い。
「そのような状況の中、捜査本部の捜査により、犯人の手口が明らかになりました」
私は思わず書類から顔を上げた。その話は知らなかった。さすが専門機関。一般人じゃ知り得ない情報の宝庫だ。先輩は続ける。
「犯人グループはあらかじめ、郵便局員の中に内通者を忍ばせていたと考えられています。そして全国のあらゆるポストから無差別に予告を投函。その内通者たちは、郵便局に運ばれてきた予告を自動押印機には通さず、そのまま書状区分機に紛れ込ませました。そして、何も知らない郵便局員に予告を配達させたんです」
「つまり、内通者を介したことによって、消印を押さずに配達させることができたということですか」
「御明答。これで、どこの郵便局から配達されたものなのかすぐには足がつかない状態となります。これがかなり厄介やったようで、犯人特定のために大規模な捜査が行われたんですが、結局は何の罪もない配達局員が疑われる始末となりました」
窓の外でバイクのエンジン音が鳴る。私は、無意識のうちに拳を固く握っていた。
「ただ、手口が分かったことによって、本物と模倣犯との見分けがつくようになりました」
「その予告に消印がついているかどうか」
声に出したつもりはなかったが、先輩の口角が、にやッと上がったところを見るに口から漏れていたのだろう。
「そうです。消印があるものは、模倣犯による偽の予告だと判断することができるようになりました」
つくづく、これがたった2年前、令和の時代に起こった出来事とは到底思えない。先輩の手が次のページへ進む。
「そして、実際に爆発した小学校ですが、清掃員に扮した内通者が台車に乗せた爆弾を校内へ持ち込む姿が防犯カメラに映っていました」
私の心臓は壊れたように一度だけ大きく跳ね上がる。
知ってる。香川県の東讃地域にある小さな小学校だ。今はもう、その忌まわしき記憶を塗り替えようと、新校舎の建築が進められているはず。
先輩は、一瞬深い黒へと落ちた私の瞳に気付いたのか、それとも気付かない振りをしたのか、曖昧な間を空けて話を再開した。
「犯人の目的は、犯罪者たちにインターネット以外の手段を提示すること。一種の思想犯とも言えます」
思想犯。国家体制に相反する思想に基づく犯罪。悪のカリスマなんてフィクションでしか聞かない言葉だが、当時、取り締まりを強化していたインターネットに限界や不満を感じていた多くの人間が、彼らに傾倒していったことは事実だ。
「最初の爆破から約一ヶ月が経過した4月29日木曜日。東京駅に予告が届きます。消印は無く、これは本物の予告だと駅は終日閉鎖されたそうです。当日その場に居合わせた人物いわく『異様なほど静まり返っていて不気味だった』とのことです。しかし、東京都全域に厳戒態勢が敷かれたものの、いつまで経ってもその静寂が破られることはなく、警察が捜索に踏み込んだ時には、ある一枚のカードが発見されただけであった、と記述があります」
先輩は、トン、とページのある箇所を弾いて見せた。
「The only way to deceive people`s eyes is retro.」
私は呟く。先輩のように流暢な発音ではなかったやろうけど。
「そう、人の目を欺く唯一の方法はレトロだ。多くのメディアで取り沙汰された有名な文言です」
この文言は全国へと広がり、それ以降、郵便を介した犯罪が増加していくことになる。
今やインターネットは、彼らのプラットフォームではなくなっているのだ。
「そして、その東京駅の一件を機に、ぱたりと予告は届かなくなります。そして、事件発生から約一ヶ月半が経過した5月19日月曜日。警察は、予告が届いていた全ての場所の捜索を終えたことを発表しました。しかし、犯人グループに繋がる手掛かりは何ら得ることができず、現在に至るまでその足取りは掴めていません」
「それ、気になってたんですけど、本当に一人も逮捕できなかったんですか」
「末端の人間は確保できたようなんですが、彼らも事件の全容は知りませんでした。中には学生もいたようで、アルバイトで指示通りに手紙を配達しただけだと供述しています。まあ、いわゆる最近問題視されている」
「闇バイト」
私は思わず先輩の言葉を奪ってしまった。
しまった、と顔を上げたが、先輩は何ら気にする素振りを見せなかった。
「そういうわけです。以上のことから、事件の主要人物に繋がる証言は得ることができず、今に至るというわけです」
先輩は分厚いファイルを、パン、と閉じた。そして、一度溜め息を吐いて続けた。
「犯人グループがこのように面倒な手段を取ったのは、世間へ自分たちの思想を知らしめるためという目的もあったんでしょうけど、それと同時に捜査を撹乱するためでもあったんでしょう」
「確かに、直接予告を届けるのはあまりにリスクが高過ぎます。そのために、郵便という手段を使ったということですね」
「ほんま、うまいこと使われたってことですね。まあ、そのおかげで俺たちは今この仕事をしとるわけですけど」
そう言って書棚から振り返った先輩の目はひどく落ち着いていて、というより、もはや冷め切っていて、いつの日か思った通り、赤よりも静かに燃えたぎる青をその瞳の奥に見た。
「あの、」
さて、仕事仕事、と自席へ戻る先輩の背中を私は呼び止めた。
「どうかしました? あ、もう始業時間過ぎとりますね。藤が来る前に昨日の午後の便、さっさと片付けときましょ」
「あの、小豆沢先輩はどうして検閲官になったんですか」
暖簾に腕押し、糠に釘、豆腐に鎹。先輩の言葉はいつも掴めない。水に浮かぶ油のように、捕まえようとすると、するりと指から抜け出してどこかへ泳いでいってしまう。
先輩は、はたりと動きを止めてこちらへ振り返る。私には、いつも通りの先輩に見えた。
でも、違うのかもしれない。だって、子どもの頃におばあちゃん家で初めて見たガスコンロの炎は、熱そうな赤色よりも、静かにゆらゆらと燃える青色の方が、ずっと温度が高かったから。
「どうして気になるんです?」
先輩は手元の資料に視線を落として聞いた。
私は反射的に、あ、かわされたと感じた。質問を間違えたと、そう悟った。
「あ、いや、やっぱり何でもないです」
私はまた自分を包み隠す。
他人に踏み込む勇気も踏み込まれる勇気もなくて、また一つ線を引いてしまう。
大人ぶっているようで、実は拒絶を恐れているだけだと、自分でも痛いほど分かっている。
知りたい、知って欲しいと、なりふり構わず自分という人間を開示できる人を羨んで、でも心のどこかでは軽蔑している。
70点を盾にして、適度な距離を守って、そんなことばかりがうまくなっていく。
自分から突き放したくせに勝手に孤独になって、無意識に誰かを求めている。
そうしている間に、もう取り返しのつかない歳月だけが音もなく過ぎていく。
私は息を吐く。
変なことを聞いてすみませんでした、と平謝りをしながら最後の一冊を書棚へ戻す。
「じゃあ、中原さんは」
先輩の言葉が、ゆっくりと私に降り注ぐ。振り返って、先輩を見る。
「中原さんは、どうして検閲官になったんですか」
私は、直面して初めてその質問の鋭さに気が付いた。「何を」や「どのように」はまだ簡単だ。いくらでも婉曲できる。
でも、「どうして」は辛い。身体中が痛いと叫ぶ。自分がこれまで背負ってきた大きな風呂敷の中身を、その人に広げて見せなくてはならないから。
それはきっと、自分の本棚を他人に覗かれるくらい、誤魔化しの効かないことだと思うから。
私は無意識のうちに、この人の風呂敷を無理に広げさせようとしていたのかもしれない。
私が口をつぐんだのを答えと受け取ったのか、先輩は、へらっと笑って見せた。
「ほんまに誠実ですよね、中原さんって」
言葉の意味はよく分からない。
この人は至極したたかで、私の知らない処世術を身に付けていて、いつもさらりと立ち回る人だ。
それでも私は、この人も孤独を知っているのかもしれないと、この時ばかりはそう思った。
廊下から、タタッタタタンと軽快な足音が近づいて来る。沈黙が破られるまでに、そう時間はかからないだろう。
窓の外には曇天が広がっていた。午後からは雨が降るらしい。
私は、風呂敷を広げられない。自分でも何が入っているのか分からないからだ。物は試しと、風呂敷に片手を忍ばせて、触れたものを引っ張り出してみる。少しぞッとした。
トラウマを永遠に植え付けられたから、その報復です。
そんなこと、到底言えるわけもなかった。