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ディア【第3章-③】

社用の固定電話の前に立ち尽くす私。
先輩いわく、「検閲を担当したのは中原さんやから、その責任がある」とのことだったが、良いように使われている気がしてならない。というか、あの人は面白がっとるだけや。

「大丈夫ッスかあ」
なぜか私よりも緊張している藤さんのおかげで、幾分か気持ちが楽になる。

私は何度か深呼吸をした後、祈るように両手を握り締めた。
こんな形にはなってしまったけれど、憧れの玉ノ井先生とお話ができる。高校生の頃から憧れ続けた、あの玉ノ井先生と。

今でも鮮明に覚えている。初めて玉ノ井先生の作品を読んだ時、私は衝撃を受けた。
読後に訪れる、他の感情の追随を一切許さない圧倒的な放心状態。聴覚が異常に冴えてくる感覚。秒針の音、服の擦れる音、何なら空気の流れる音までが耳に届く。手の平の汗や、ぼんやりとした背中の痛み。後から追ってくる満足感。ずるい。それが私の第一の感想だったように思う。

でも、仕事だ。これは、やるべきことなのだ。それを他でもないこの私が仰せつかったこと、この上なく光栄に思う。
70点は人生の平均点。私はそれをマークし続ける箸にも棒にもかからない優等生で居なければならない。

受話器を手に取り、手元にメモした番号にダイヤルする。ポーっと丸い音が聞こえた後、ピッポッパッと心地好いリズムが跳ねる。心臓の音が騒がしくて、呼出音が近くで聞こえたり、ずっと遠くで聞こえたりする。

5回目のコールの後、相手側の受話器が取られた。私は一気に喉が渇いていくのを感じた。

「あの! 玉ノ井漣さまのお電話で間違いありませんでしょうか」
「・・・・・・はい。玉ノ井ですが、どちら様でしょうか」
受話器の向こうから、鈴を振ったような声が聞こえる。生きているのだ、この人は。そんな当たり前のことを自覚して、ほろりと涙を流しそうになる。肉声の力、恐るべし。

玉ノ井先生はメディアへの露出を控えている。そんな中でも開催されるトークショーやサイン会などの情報から、二十代後半の女性であることは確認済みだ。随分と若い作家ではあるが、彼女が大学在学中に新人賞を受賞したこともあって、今年でデビュー7年目を迎える。

「もしかして、ファンの方? 電話番号はどちらからお聞きになったのかしら」
ふ、と声に影が差す。筋金入りのファンはすかさず訂正を入れる。
「ご不安をお掛けして申し訳ございません。私、郵便保安局せとうち支局の中原と申します。本日午前中に配達された郵便物についてお伺いしたいことがございまして、ご連絡を差し上げました」

なぜ私がこれほどまでにスラスラと会話ができているのかというと、一重に川崎市局長が残してくれた目の前の台本の力に尽きる。本当なら、硬直して足先から崩れ落ちてしまっているところだ。

すると、玉ノ井先生は、ふふ、と電話口で微笑んだ。
「あら、もしかして気付いちゃいました?」

その茶目っ気たっぷりな台詞の可愛らしいこと! チロッと舌でも出しているんじゃないかと思うほど、電話口でもその天真爛漫な可愛らしさが伝わった。
いや、しかし、これは仕事だ。隣で盗み聞いている先輩が訝しげな顔を向けている。

「あの、気付いちゃったというのは一体どういう意味でしょうか」
私は受話器を握り直して、問う。
「中原さん、あの手紙に隠されたメッセージには気付いてくれましたか?」
「はい、僭越ながら。『犯人は玉ノ井漣』というメッセージを」
「あら、やっぱりこのトリックは古典的過ぎたかしら。ねっ、どこからそう分かったの?」
玉ノ井先生がお茶会の温度感でそう尋ねてくださるものだから、私も台本を見ずに会話をすることができた。

「・・・・・・と、いうことで玉ノ井先生にお電話をさせていただく運びとなりました」
「なるほどねぇ」
私が事の経緯を説明している間、玉ノ井先生は電話口で何かメモを取っているようだった。

「とても貴重な意見をありがとう。あなたの先輩にもそう伝えてくださる?」
「は、はい。それで、特にお困りのこととか、事件に巻き込まれていることとか、そういったことは無いということでよろしいでしょうか」
「ええ、勿論。誤解をさせてしまって申し訳ないわ。騙すつもりはなかったのだけれど、今度の作品に郵便物を使って暗号のやり取りをするシーンを取り入れたくって」
「それって! 『藪から棒』の続編ですか」
飛び出た言葉に思わず口を塞ぐが時すでに遅し。いや、時なんていつだって気付いた時にはもう遅いのだけれど。向こうでは先輩がケラケラと声を上げて笑っているし、藤さんに至ってはオロオロし過ぎて部屋のゴミ箱を蹴り倒してしまっている。
「あら、あなたもしかして、本当に私のファンの方?」
首元にナイフを突き付けられて、私は、あぅ、と情けなく肯定することしかできなかった。

「はい。誤魔化してしまってすみませんでした。先生の作品、全部読んでます。ですが、決して公私混同などではなくてですね。本当は作品の感想や先生への感謝を今ここで述べたいところですが、仕事中なので辞めておきます」
玉ノ井先生はまたも、ふはは、と声を上げて笑った。
「とても素敵な方がファンで居てくださって嬉しいわ、ありがとう」
それはまた次の機会に、と続けてくれた。社交辞令だろうと構わない。ファンにとってこれほど嬉しい言葉があるだろうか。幸せを噛み締める反面、帰り道は背後に気を付けようとも思った。徒歩2分やけど。

「それでね、私の知識じゃ、郵便物がどうやって検閲されて、どうやって配達されるのか分からなかったから、それならどこまで通用するのか実際に試してみようと思って。結局、検閲の段階で気付かれてしまうのね」
ほんとうに良い勉強になったわ、と続ける玉ノ井先生に、私は慌てて弁明する。
「いえ、今回は優秀な検閲官がいたおかげで気付くことができたんです。私一人だったら、きっと見逃していました」
自分でも、尻すぼみになっていくのが分かる。

「検閲は郵政の最後の砦」と、繰り返していた講座長の言葉が蘇る。今回は先輩がせき止めてくれたから良かったものの、今日の私の働きは及第点とは言い難い。

玉ノ井先生は、ううん、と一つ唸った。その沈黙が、自分の不甲斐なさを裏付ける。憧れの人を困惑させていることに気付いた私があたふた弁明しようとすると、でも、と玉ノ井先生が続けた。

「それでも、私はあなたを優秀な検閲官だと思うわ。そうでなきゃ、今こうやって中原さんとお話することも叶わなかったはずよ」

玉ノ井先生の言葉は、ベールのようにやわらかく私を包み込む。時に人は、根拠のない自信に強く勇気付けられるらしい。それが憧れの人からの言葉なら尚のこと。
「ありがとう、ございます」
「いいえ、私の方こそご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした。でも、とても楽しい一時だったわ」
お仕事頑張ってくださいね、という玉ノ井先生の言葉を聞いて、私は、ふとこの電話の終わりを悟った。秋風に頬を掠られたような気分。

すると横から長い腕が伸びて来て、私の手から受話器を奪った。
「あ、ちょっと」
「どうも、お電話変わりました。中原の上司の小豆沢と申します」
先輩は、例のごとく伸び切った声で電話を引き継いだ。
「先輩!」
「ええ、ええ。今回は問題なく処理させていただきます。ええ、ああ、まあ大歓迎とは言えませんが。はは、俺はあまり偉くないので、そこら辺の権限はなくてですね」
先輩は、受話器を取り返そうと手を伸ばす私をやり過ごしながら軽く笑って言った。
「でも、まあ、一つ言えることはそうですね。どんな手紙が来ても絶対見逃してはやりません、ってところでしょうか」

私の中にずっと巣食っていた疑問がこの瞬間、パチンと弾けた。
この人は、私を初めての後輩だと言った。それまでの検閲室の室員は一人。私が来るまでの一年以上の間、ずっと一人。私ならとうに見落としているであろう小さな違和感を見逃さないように、視線を張り巡らせてきたということなのだろうか。たった一人で。

人を見る目に自信があるわけではないけれど、私、この人がただの自信過剰な人には思えない。それなら、何だ。玉ノ井先生を相手にここまで言ってのけるほどの実力を兼ね備えて、あの雑多な部屋でたった一人、手紙と向き合い続けてきたというのか。そんなの、そんなのって。

「ほれ、最後に質問があればどうぞ、ですって」
そうやって思考を奪われていると、先輩がこちらに受話器を押し付けてきた。私は、条件反射で受話器を受け取ってしまう。

「え、質問って、何を」
「知りません。中原さんが聞きたいこと、何でも聞けばいい」
エマージェンシー、エマージェンシー、全身に緊急信号を駆け巡らせるけれど、良い質問は一つも浮かばない。
「ええ、と。あの、その」

中途半端に開いた窓から、風が吹き込んでくる。春色が零れ落ちてしまいそうなやわらかい風。前髪を撫でる。ネクタイを揺らす。

「ほら、バシッと聞いてやりなさいよ」
先輩が私の背中を、押す。
「っ、あの!」
風が吹く。気持ちの良い春の日が、私の隣を駆け抜けていく。


「あの、春のミルク祭り! シールが溜まったら何と交換する予定なんですか」


大事件だなんて、そんな大それたものではない。
きっと、誰もが通るイニシエーション。けれども、歯車が噛み合ったその日。私という人生がようやっと身体に馴染み始めた。そんな気がする。

後ろで先輩が盛大に吹き出したことは、もう語るに及ばない。

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