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ディア【第5章-②】
Thursday,10/21/2027
翌朝、エントランスへ出ると、ソファに座る先輩と目が合った。
「はようございます」
「あ、おはようございます」
聞きたいことはいくらでもあったが、
「今朝は早いんですね」
と、無難に留めておいた。
まあ、と先輩が歩き出すので、私もその後に続く。自動扉を潜ると、乾いた風が髪を撫でていった。
「今日は肌寒いですね」
「ああ、そうですね」
「雨、降るんですかね」
「どうでしょうね」
そして、ワンテンポ遅れて昨日の話を思い出した。
「もしかして、真昼のロミオですか」
聞きたいことはいろいろあったが、自惚れも甚だしいので心の中に留めておいた。
「まあ、どうせ同じところから同じところへ行きますからね」
しかし、先輩の言葉は、括弧で括られた(自惚れも甚だしい質問)に対する答えのようでどこか歯痒かった。
検閲室までの道中、特にそれと言って不審な点はなかった。勿論、真昼のロミオと思わしき男性も見掛けなかった。
昨日、藤さんが笑顔の市局長に御指導を受けた後、彼からも直々に注意喚起がされた。支局としてもかなり警戒しているらしい。
とは言っても、今日も容赦なく郵便物は届けられるし、世界は回る。仕事はいつも自分からやってくる。
いつもなら見えない尻尾を勢いよく振りながら検閲室へやって来る藤さんも、昨日のことを受けて、今日は少し大人しかった。
午前の便のミケンボックスを開いて郵便物を捌く。検閲室には秒針の音が刻まれていく。
「あ、」
その沈黙を破ったのは、あろうことか私だった。
「何か気になるのありました?」
先輩は、手元に視線を落としたまま聞いた。
「あ、いえ。些細なことなんですけど、昨日話していた手紙が」
「ああ、例の返信のない手紙。また届いたんですか」
「はい。でも今週はこれで2通目になります」
私は、手紙を掲げて先輩に見せた。
昨日スイレンで話した野崎さん宛の手紙。
一週間で2通も届くことは初めてだったので、目に止まったというわけだ。
「別に、相手が忙しいだけでしょう。そんな一つの手紙に深入りしよったら、時間がいくらあっても片付きませんよ」
しかし、先輩は一瞥しただけですぐに視線を手元に落とした。先輩の言葉を他所に、私は腕を組む。
「もしかしたら、孤独死とか行方不明とか。誘拐って線もあります。事件性があるかもしれないので、報告しておいた方がいいんじゃないでしょうか」
すると先輩は、早くこの会話を切り終えたいと言わんばかりに足早に言った。
「そもそも、相手がわざと手紙を返していないだけかもしれません。返したくない相手とか、思い出したくない相手とか」
「ですが、送り主は相手の身を案じているんですよ。どれほど嫌な相手からでも、中身くらいは見るんじゃないでしょうか」
自分の中で、疑問は確信へと変わりつつあった。私はやっぱり、足りないピースを訴えることが苦手なようだ。
先輩は初めて顔を上げて、私を正面から見た。
「俺たちは何でも屋じゃありません。目の前の手紙に問題があるのかないのか、それを見極めるのが仕事です。検閲は、見ていることを極力意識させないように振る舞う必要があります。そうでなければ、何の権限で他人の領域に踏み込むことが許されるんですか。その先にある一人一人の人生にまで介入しとったら、それこそ盗み見ですよ」
人間の中には稀に、コミュニケーションを直球のみで勝負してくる人種が存在する。そうだ、そうだった。この人は、なぜこうやって相手と正面から向き合うことができるのだろうか。
私は食い下がる。
「でしたら、相手に意識させないように対処します」
負け惜しみだということは重々承知している。苦しい言い分だ。だけど、こんなことを言うなんて自分でも珍しいことだと思った。
「相手に返信の意志がないなら、俺たちにできることは何もありません」
先輩はその姿勢を崩さない。
「返信の意志があるかどうか現時点では分からないから、せめて相手の安否を確認しようとしているんです」
私は少し声を荒らげる。その行為が、余計に論理の脆さを露呈していた。
「お得意の70点はどうしたんですか」
先輩の言葉が心臓を突いた。私は言い淀む。
──今日も今日とて70点をキープせよ。
いつからか、この信条を掲げるようになっていた。決定的なきっかけがあったわけではない。
ただ、100点は時に生き辛いということを私はもう知っている。70点。それで満足だと思っていた。
相手を知るために、自らが裸になることはない。だから、傷付くこともない。でも、相手のテリトリーに迎え入れてもらえることもない。
自分にも他人にも期待しない。だから、裏切られることもない。でも、「期待に応えたい」と思うことも、思われることもない。
傷つくのは痛いから、裏切られるのは怖いから。しかし、それは綺麗事で、本当の私はちゃんと傷付いたり、ちゃんと裏切られたりする勇気がないだけだ。70点は私なりの処世術、逃げの一手なのかもしれない。
だが、先輩はこの隙を見逃してくれない。
「言い訳のための生活信条ほど、土壇場で本性が出るもんです」
なぜそうやって瞳の裏を見ようとするんだ。人が必死に隠している本性を見透かして、それでいて何も言わない。何も言われないから、拳が空を切って言い返せない。
「わ、私は」
「二度は言いませんよ」
心臓が潰れる感触を覚える。
おこがましいことに、私は、先輩が心に飼っている猫と、自分のハリボテの生活信条はどこか似ているものだと思っていた。
でも違っていた。私は自分を守るために信条を振りかざし、先輩は相手のテリトリーを守るために猫となる。他人の領域を不用意に荒らさない。気まぐれで、冷酷で、他人と分かり合うことを心のどこかで諦めている。
私は、弾かれるように検閲室を飛び出した。
結局、雨が降ってきた。私は秋入梅の曇天を睨みつける。
飛び出したところで行くあてなどない。雨宿りの屋根欲しさに、私はとりあえず最寄り駅まで走った。制服に斑模様が浮かぶ。
木造の駅は、濡れた木の匂いに満ちていた。むわり、と立ち込める湿気に思考ごと呑み込まれる。ホームでは、車体にイエローのラインが入った電車が私の到着を今か今かと待っていた。
何も考えずにその口元へ滑り込むと、プシューっと息が漏れて扉が閉まる。平日の昼下がりということもあって、車内はかなり空いていた。
私は空いている席に重い腰を下ろした。
ガタリと車体が揺れて、電車はゆっくりと動き出す。車窓は流れ、少しずつ景色が移り変わっていく。身体に心地好い振動が伝わり、逆立った心臓がようやく落ち着きを取り戻してきた。
ほんの少し微睡んでいる間に、瓦町駅までやって来てしまった。
ホームへ降り立つと、ここはもう人の音で満ちていた。耳に残った静寂は、人の声に横殴りされて頭から追い出されていく。
どこまで行ってしまおうか。ここまで来てしまったのなら、実家を目指すのも悪くない。そう思って、私は志度線へと乗り換えた。
今度はピンク色のラインが入った車体が、二両編成で停車している。私は、後部車両に乗車して出発を待った。
しばらくすると、目の前の席に白い道中着の男性が腰を下ろした。笠を被り、袈裟を掛け、手には金剛杖を持っている。この地域では、足し算を習うよりも先に教わる風習。すぐに、お遍路さんだと察しがついた。
後部車両には、私とお遍路さん、あとは数人が腰を下ろしていた。
定刻、ホームにベルが鳴り響き、電車はゆっくりと発進する。
雨粒が窓にぶつかり、力なく流れていく。沖松島駅、屋島駅、六万寺駅、八栗新道駅まで来たところで、後部車両の乗客は私と目の前のお遍路さんだけになった。
窓いっぱいに瀬戸内海が広がる。高校生の頃、学校帰りに自転車を漕いでよく来たなあ。そんな懐かしさに浸ってみたものの、曇天のせいでその色はいつもよりも濁って見えた。
「もしかして、検閲官の方ですか」
ふ、とそんな声が聞こえた。声の主は明確。そして、誰へ向けた質問なのかも明確だった。
「えっと、はい」
一瞬、どうして分かったのか疑問に思ったが、すぐに答えが分かった。制服とは厄介なものやな。
「立派なお仕事や。どちらにお勤めで?」
「せとうち支局です」
「せとうちですか」
お遍路さんは私の答えを聞き、そうかあ、縁があるもんですなあ、と感慨深そうに呟いた。
「せとうち支局って言いましたら、かなり西の方やないですか」
「ご存知なんですか」
「ええ、まあ。知人が勤めてましてね」
彼は、倉田と名乗った。
「私は、中原風鈴と申します。風鈴と書いてカリンと読みます」
言い慣れた自己紹介をする。倉田さんは、手の平に文字を書きながら
「ほう、風鈴と書いてカリンですか。良い名前をいただきましたね。風鈴は良いですわ。我が家では一年中縁側に出しっぱなしになっとります」
と、笑った。その後も何気ない会話は続く。
「もう次で八十六番ですか、あと少しですね」
「ええ、本格的に寒うなる前に結願を迎えられそうで良かった」
「倉田さんはどちらから?」
「出身は京都になります。今はこっちの方に住んどりますよ。中原さんはどちらの方?」
「私はずっと香川で、地元がこの辺りなんです」
「ほほう。ほんなら、今日はお仕事でこちらの方へ?」
倉田さんは、日に焼けた顔に皺を寄せて笑った。先輩とは違った目力を感じる。見透かしているのではなく、全てが見えているかのような心地の良い圧力。私は、少しだけ甘えてしまうことにした。
「先輩がいるんです、猫みたいな」
「それで検閲室を出てきてしまったと」
「お恥ずかしながら」
結局、ここへ来るまでの経緯を話すことになった。勿論、守秘義務の範囲内だが。
倉田さんは、ほほう、とどこか楽しげに見えた。
自分のことを話す時、いつも綺麗事に着地してしまう。心のどこかで、悪く思われたくないと良い子ぶってしまっているのだと思う。まとまらない話を、倉田さんは最後までにこやかに聞いてくれた。
「その先輩とやらは、一体何をやっとるんでしょうね」
思いもよらない矢印に、私は慌てて修正を入れる。
「いえ、私が悪いんです。それは分かっているんですけど、ちょっと自分の中で整理する時間が欲しいと言いますか。だからこうやって逃げ出してしまって。自分がこんなに頑固だとは思いませんでしたけど」
はは、頑固ですか、と倉田さんは愉快そうに笑った。そして、ううん、と一度唸って続けた。
「その先輩は、中原さんのことをどのように評価しとるんでしょうね」
予想外の質問に、私の思考も鈍くなる。
「評価、ですか。少なくとも、今の私は優秀な検閲官とは言えないと思います」
たとえ玉ノ井先生の言葉があったとしても、その評価は覆らない。
しかし、倉田さんはそんな自嘲の棘を柔らかに折った。
「いやいや、そういう評価やありません。中原さんの話を聞く限り、その先輩はやっぱりあなたとよう似とる気がします。自分をさらけ出す勇気も、他人に踏み込む勇気もないんです。 他人など、肚の底では何を考えとるのか分からないと、心のどこかで諦めとる。そんな彼が、あなたには説教じみたことをした。それは、打算のないあなたを見所のある後輩やと考えているからではないでしょうか」
ひなた雨のような、温かい言葉の雨に降られる。
「打算ですか」
「ええ。その人は、きっと人付き合いがうまく、武器となる処世術をいくつも隠し持っていて、何でも卒なくこなしてしまう。 しかし、それは上辺だけで、本当は誰よりも苦労してそんな自分を演じとるだけやと思います。 そんな彼にとって、打算もなく他人へ飛び込んでいけるあなたは、これまでになかった新しい可能性に満ちとるはずです。見放されたと落ち込む必要はありません」
言葉が身体に染みていく。たとえば、年の初めに引いたおみくじが一年経って財布から見つかった時のような。ずっと求めていた言葉が、じわりと身体に染みてくる感覚。
「ありがとうございます」
他に伝えたいこともあったけれど、自分のものだけにしておきたくて鼻を啜って誤魔化した。
すみません、私ばかり話して、と主導権を倉田さんに譲ることにした。倉田さんは、にこやかな否定で返してくれた。
「えっと、倉田さんはどうして遍路道を歩こうと思ったんですか」
窓の外では糸のような雨が降っている。電車は、原駅を出発したところだ。
「やっぱり自分探しとかですか?」
すると倉田さんは、いやいや、と愉快そうに笑った。
「例えばね、中原さんが落とし物をしたとしましょう。その時、君ならどこを探しますか」
唐突な質問に、私は首を傾げる。
「それは、今まで通ってきた道とか、行ったことのある場所とか」
すると、倉田さんは満足気に頷いて言った。
「そう、それが答えですわ。落とし物なら、自分がこれまで歩いてきた道を探さんと。行ったこともないインドやアメリカに落ちとる訳ないですから」
倉田さんは一度金剛杖を握り締めた。
「答えは大抵身近な所にあるんですわ。年寄りになると身に染みてそう思います」
次は、志度。終点志度に停まります。車内にアナウンスが鳴り響く。車体は速度を落としていき、私たち二人を乗せた電車が終点に到着した。
「行きましょうか」
倉田さんの後を追うようにしてホームへ降り立つ。屋根もない古びたホーム。雨の中、めいっぱい木の匂いを吸い込む。雨粒がビーズのように髪の毛を伝っていく。
駅員さんに切符を渡して駅舎へ入る。ベンチが4つ、券売機や公衆電話、貸し出し用の傘。あの頃と何ら変わらない風景に、ほ、と胸が溶けていく。
「この足で志度寺へ向かうんですか?」
私は、倉田さんを振り返って聞いた。
「そうですね。早めに参った方が良さそうです」
倉田さんは手元の地図を広げながら言った。
「志度寺なら、この道をしばらく左に進んで源内通りへ入った方が近道です。源内通りをずっと東に進んでいくと、その突き当たりに志度寺が見えます」
「ありがとう。この辺りの地理には自信がなかったから助かります」
「いえ、地元なのでお気になさらず」
雨は変わらず降り続いていた。さァッ、と昼下がりを掠めとっていく霧雨。
傘立てを、ちらりと見下ろす。貸し出し用のビニール傘が1本だけ残っている。
私はもう一度、駅の外を見た。これくらいの雨なら、傘がなくても何とかなる。そう思ってシャツの袖を捲った時、
「中原さんは、世界中の人に自分の傘を差してあげたいと考える人なんでしょうね」
倉田さんは言った。私は振り返る。
「え?」
「例えばね、あなたは傘を差して帰っている。そんな時に、傘を持たずに駅まで走っている人とすれ違う。私はね、中原さんなら自分の傘を貸してしまうと思っていたんです。でも、もしかすると違うのかもしれない」
「どういうことですか」
言葉の真意を図りかねて、私は素直に聞いた。
「あなたはね、世界中の困っている人に自分の傘を貸してあげようとするんです、きっと。そして、全員を助けようとする挙句、結局は誰にも傘を貸すことができないんです」
倉田さんは、笠を深く被って駅舎の軒先へ出た。みるみるうちにその肩が濡れていく。
「あなたの持っている傘は1本しかない。目の前の人は助けられても、他の人は助けられない。それが痛いほど辛い。でもね、あなたが世界中の悲しみを背負おうとする必要はないんです。まずはあなたが雨にうたれないこと。その余った分を、困っている人にお裾分けする。手の届く範囲だけでいい。それくらいの心持ちでおったらよろしい。その余分を、残りの30点にしたらよいのだと、私は思います」
白雲の隙間から微かに陽の光が零れる。文字通り、ひなた雨。倉田さんはその中心で、幸福の雨に降られている。
「あ、あの」
「まあ、今日ばかりはその傘を使う必要はなさそうですけどね」
そう言った倉田さんの視線を追う。駅舎の前に、白い車が停まっている。その横に、紫陽花色の傘が見えた。
「先輩!」
私の姿を認めると、先輩は道路を渡って駅舎の方へ近付いて来た。
やっぱり、言いたいことは沢山あった。しかし、結局は多くの疑問が衝突し合って、たった3文字に落ち着いた。
「なんで⋯⋯」
しかし、それは私のものではなく、先輩の3文字となった。目を丸くして倉田さんを見る先輩と、愉快そうに彼を見上げる倉田さん。ますます状況が呑み込めない。
いや、しかし、何よりもまずは。
「何で先輩がここにいるんですか」
私は二人の間に割って入った。先輩がようやく我に返る。
「何でって、別に。傘、持っとらんと思っただけです」
彼の手にはもう1本の傘が握られている。
本当に猫は気まぐれだ。私も少し言い返してみたくなった。
「人に興味あるんかないんか、どっちですか」
「中原さんこそ結局70点はどうしたんですか。鴨川にでも捨てたんですか」
「鴨川って、ここは香川ですけど」
「ああ、そうですかい。ほんなら春日川にでも流したんですか。今頃、瀬戸内海行きや」
すると、隣で倉田さんが豪快に吹き出した。私たちは思わず顔を見合わせて押し黙る。
そして、しばらく笑い転げた後、確かにこう言った。
「息が合ってるね」
「え?」
「はい?」
──いきがあってるね。平仮名に変換して一文字ずつなぞってみるが、全くもって意味が分からない。
「ありがとう、中原さん。おかげで楽しい一時を過ごせました」
倉田さんは、ポン、と先輩の肩を押して何か呟く。
「君が気に入るのも納得のお嬢さんでしたわ。大事に育てなさいな」
倉田さんは、立ち尽くす私たちを置いて満足気に歩き出してしまった。
「どういうことでしょうか」
私は先輩を見上げる。先輩は、彼の後ろ姿を目で追っていた。道中着の白に、この世の全ての光が集まっているように見えた。
「全くもって余計なお世話や」
先輩は、遠ざかる背中に向かってそう呟くと、珍しく気まずそうに頭を掻いて持っていたビニール袋を私に押し付けた。
「え、何ですかこれ」
私はその中身を検める。コンビニの袋にスイーツが3つ入っている。私は先輩を見上げる。
「勿体無いって言いたいんです」
何の脈絡も無く、先輩はそう言い放った。
「はい?」
「昔から嫌なんですわ。本気出したら100点取れるやつが、手ぇ抜いて周りに合わせるの。別に逃げも隠れもしたらよろしいが、自分の力を甘く見ることだけはせんといてください」
言葉が、スっと胸に落ちてくる。これまで四方八方に矢印が向いて、結局行き場を失っていた。
しかし、今この人の手によって、その方向が定まりつつある。言葉にするならそんな感覚。
行き場のなかった30点が不格好ながらに形成されていく。
「帰りますよ。はよ帰らんと藤が怒る」
そう言って、車へ向かおうとする先輩の後ろ姿を見る。落し物は、これまで通った道にしか落ちていない。私が見落としてきたこの人の本質も、辿れば見つけられるだろうか。
私は、押し付けられたスイーツを見る。本当は器用なくせに、粋がってますね。粋がってるね。いきがあってるね。
「あ、」
私はこの時、平仮名の真意に少しだけ気付くことができた。
先輩は、助手席の扉を開いて私を待っている。
私は慌てて乗り込み、勢いをつけて扉を閉める。車内は、宇宙へ放り出されたような静寂。先輩がボンネットの前を横切って運転席へ乗り込むと、真空パックに詰められたまま、車は丁寧に発進した。
駅前の交差点へ入った頃、ようやく先輩が口を開いた。
「さっきの人」
「えっと、倉田さん」
私は、久しぶりの酸素を思い切り吸い込んだ。
「そう。自分知り合いです?」
「いえ、それはこっちの台詞です。私はたまたま電車で乗り合わせて、数十分お話しただけです。先輩こそ、お知り合いですよね」
「まあ、知り合いっていうか」
先輩の呟きは最後の方に途切れ、再び車内に沈黙が降る。雨粒がフロントガラスにぶつかって、力無く流れていく。
車が赤信号でゆっくり停車すると、先輩は突然カーナビの設定を始めた。
「道、私が案内しましょうか」
「いや、それは大丈夫なんですけど。ああ、やっぱり45分くらいはかかるな」
到着予想時刻は13時42分になっていた。
「ほんなら、まあ。別に聞かんでもいい話やけど、暇つぶし程度に話付き合ってもらえます?」