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ディア【第3章-①】
第3章 大事件にはほど遠い
Thursday,4/1/2027
濡れた土の匂いがする。わたしは満月を見ている。いや、見ているようで、実は見られているのかもしれないと思ってぞッとする。迫ってくる。落ちてくる。この青い星はいつか侵略される。
夜空に空いた、まんまるい穴。あの穴は宇宙につながっていて、あの穴から金平糖のような惑星がすべり込んでくる。天の川が流れ込んでくる。あの穴の向こうから、いつも誰かがわたしを見ている。わたしは、いつも見られている。 じッと見ていると、あの日の三白眼を思い出す。今夜もわたしは、見ている、見られている。
濡れた土の匂い、ふくらはぎを擽るカラスノエンドウ、赤くて小さな鳥居。肩にかかった髪、水色のランドセル、翻るプリーツスカート。そんな記憶が不格好に縫い合わさって、不完全な夢をみせる。
わたしは、これが夢だと知っている。 わたしは動けない。毎夜、わたしは彼女を助けない。水の膜を張ったその瞳に射られる。その日から、わたしは動けない。
夢でなければ、どれほど良いものか。
時刻は6時。残月がぼやりと街の輪郭を照らし出している。携帯電話のアラームで目を覚ました私は、瞼に残る眠気としばらく格闘した後、ゆっくりと上半身を起こした。
ベッドに落ちたカーテンの影は、まるで漣。夢の記憶が引いては押して、また引いて。結局いつも夜の淵に引っ掛けたまま、どこかに置き忘れてしまうのだ。空咳を二、三吐いて、ようやっと布団から抜け出し、フローリングに足を着く。冷えたフローリングが春眠の熱を掠め取っていく。ふはっ、残酷。
偏平足がフローリングに見えない足跡を残す。まだ醒め切っていない頭を起こすべく、洗面所へ向かって頭にヘアバンドを通す。お湯になるのをしっかり待って、顔をざぶりと洗う。肘まで伝ってきた水滴ごと、スポンジケーキのようなタオルで拭き取る。あ、タオルの繊維が口に入った。それならば、ついでに歯磨きまで済ませてしまおう。慎重にチューブを絞ると、フランス色の歯磨き粉が歯ブラシの上に整列する。この作業が好きだ。
しゃこしゃこと、5年かけてようやっと矯正を終えたばかりの歯を磨きながら、リビングに戻ってカーテンを開く。分厚いカーテンを開くと、冷気がフローリングへ舞い降りてきた。山際は既に明るみ始めていて、「春はあけぼの」と残した彼女の気持ちが今朝はよく分かる。
窓の外では、宿舎に面する喫茶店・スイレンで美沙さんが店支度を始めていた。犬の散歩をしている老夫婦。ポストへ新聞紙を取りに出てきた主婦。大きな荷物を背負って部活動へ向かう学生たち。少し遠くに目をやると、在来線が最寄り駅へ次々と吸い込まれていく様子も見えた。この街に、無条件に朝が運ばれてくる。
思わず窓を開ける。とろん、としたやわい風が滑り込んでくる。心なしか、少し甘い。寝癖だらけの髪の毛を撫でた風は、部屋中をぐるりと掻き回し、またどこかへ流れて出ていく。最近はこうやって、ぼうっと窓の外を眺めていることが多い。この街へ越して来て1ヶ月。それでも毎日見ていると愛着が湧くようで、まるでこの街でめくるめく青春時代を過ごしてきたかのような、そんな不思議な錯覚に囚われそうになる。
危ない、危ない。また、存在しない青春時代を回想してしまうところやった。
すっと窓を閉めた私は、静電気を帯びた猫っ毛を撫でつけながら洗面所へと後戻り。私の朝が始まる。
2027年、日本はある局面を迎えようとしていた。長年に渡って問題視されてきた少子高齢化問題。昨年の統計で高齢化率が人口の3割を占めたことを皮切りに、日本は異次元の少子高齢社会へ突入した。政府の対策も現状に追い付かず、慢性的な人手不足に伴い、全国的な政治的結束は弱体化の一途を辿っていた。
昨日何となく見ていた深夜帯のニュース番組によると、ここ数年、地域経済の活性化や地域における雇用機会創出などを目指し、自分たちで政治を進めていこうとする「主体的かつ自立的な政治的取り組み」というものが各自治体で進められているそうだ。若そうな政治家がマイクの花束を片手に熱弁している姿が数秒間だけ映し出され、話題は次のトピックへ移った。
次は、「増加するサイバー犯罪! 検挙件数は過去最多」という特集で、この話題についてはここ最近よく耳にするものであった。
インターネットを悪用したサイバー犯罪の検挙件数が過去最多を記録したというニュースは、昨年大々的に取り上げられた。当時、絶賛公務員試験勉強中であった私にとっては、格好の時事問題であった。そのこともあって、サイバー犯罪に関する書物や記事を読み漁っていた時期があり、多少の知識は持ち合わせている。確か、あらゆる犯罪を未然に防ぐことを目的として、サイバーセキュリティーの厳格化やバーチャルパトロールの導入が近年注目を集めているという。
大学で文学ばかりを勉強してきた私ではあるが、流石にあれだけやったものは一年経っても覚えている。アブラハム・マズロー氏に欲求八段階説について直々に講義をされるという謎の悪夢にうなされた甲斐があった。おかげで今もこうやって新しい制服に腕を通すことができているわけで、マズロー氏さまさまなのである。
ブラウスの固いボタンをとめて、臙脂色のネクタイを締める。こういう時に、高校時代の制服がブレザーで良かったと思う。キャラメル色のベストに深緑のバッチが鈍く光る。先週支給されたばかりの制服は、まだ糊の効いた匂いがして、私を新人たらしめている。深く息を吸うと、少し酔ってしまいそうだった。
朝食は自家製のヨーグルトにした。現在、春のミルク祭りが絶賛開催中であり、先日そのシール欲しさに一人暮らしの身の上も忘れて、牛乳を3本も買ってしまった自分への戒めである。
牛乳パックに乳酸菌飲料を注いでヨーグルトメーカーにセットし、ボタンを押して眠るだけで翌朝には自家製のヨーグルトが完成している。何という画期的な発明だろう、と実家にいた頃に母と感動したものだ。このような諸事情もあって、ここ最近は一日に2食このヨーグルトを食べている。賞味期限との闘いは熾烈を極めるのだ。つくづく懲りない人間だと思う。
この春のミルク祭りは、シールを集めるごとにグッズがプレゼントされるというなんとも魅力的な催しだ。丸いシールを30枚集めてハガキを送れば、なんと! 憧れのホットサンドプレートが手に入るのだ! 朝から出来たてのホットサンドを食べることだけを夢に見て、今日も大量の乳酸菌を腸へ送り届けていく。
適当な量のヨーグルトをガラスカップへ移して、その上に輪切りのバナナ、手製の苺ジャム。その辺に余っていたグラノーラをかける。スプーンを刺すと、ザクザクとした感触が指に伝わる。自宅で発酵させたヨーグルトは市販のものより酸味が強くて、ゴロゴロとした果肉満載の中原家特製ジャムと良く合う。
毎年この季節になると、親戚から苺が送られてくる。今年は実家から宿舎へ仕送りがあった。中原家では昔から、「ジャムの方が日持ちするから」という理由で、頂いた苺の半分ほどを煮詰めてジャムにしてしまう。
3月1日付けでこの部屋に越してきた私は、まばらな家具の隙間を縫って、まず何よりも先にジャムを作った。
大鍋に砂糖、レモン汁、苺を加えてじっくりと煮込む。最初こそ、ヘラにしっかりとした果肉の感触があるものの、上白糖を被った春の宝石たちは、時間を泳ぐようにゆっくりと溶けていく。腹に溜まる甘い匂いが部屋に充満し、私は慌てて換気扇のスイッチを付けた。チョコレートが型に流し込まれていくように、その多幸感は確かな質量をもって身体の奥底へと流れ込んでくる。
越してきたばかりの部屋には、まだ何もなかった。とりあえず数日分の食料として持ち込んでいた食パンの袋を開ける。プラグを差し込み、トースターに食パンを一枚放り込む。カーテンすら付いていない窓を開け放ってみたけれど、弥生の夕刻はまだ少し寒かった。
チン、と軽い音がしてパンが勢い良く飛び出す。きつね色のトーストを白いお皿に乗せ、スプーンで煮詰まった苺ジャムを広げる。机など無い。まっさらな部屋で私は一人、フローリングに座って手を合わせた。先月の歯科検診で顎関節症を指摘されたため、やや控えめに口を開く。一口、また一口。腹の中に確かな重みを感じてようやく安堵する。最寄り駅で手を振って別れた家族の顔が蘇る。
よく煮込んだ鶏肉のように、どこか一箇所でもつつかれたら思わず、ほろりと崩れ出してしまいそうだった。少し広過ぎる部屋の真ん中で、私はやっぱりまだ肌寒かった。その静けさを誤魔化すように、私はトーストを食べた。そういえば、今朝から何も食べていなかった。口の中に押し込み、押し込み、それでも押し込み。結局、食パン一斤分を平らげてしまった。
どこからか、17時を知らせる鐘の音が聞こえてきた。フローリングにはパンの屑が散らかり、夢中でトーストに齧り付いていた口周りには、艶のある甘みがべったりと残った。
深呼吸をしてみると、なんだかこの部屋と初めて息が合ったような気がした。よし、掃除をして明日の食材を買いに行こう。私は立ち上がる。お腹には安心感が溜まっている。大丈夫、この場所で生きてみようと思う。
その決意から早1ヶ月。今では、椅子に座ってスプーンでヨーグルトを頬張りながら、何となくテレビを付けるまでには成長できた。時刻は7時32分。賑やかな音楽と共に、最近話題の写真映えスポットや便利グッズの紹介コーナーが流れる。
その鮮やかな色彩の合間に「レトロ事件から早2年」という重々しい文字が挟まる。そうか、2年か。
歳を取ると時間感覚が早まると言うのは、どうやら本当らしい。昔聞いた話によると、人生の体感時間を全部で百とすると、19歳の時点で既に五十を過ぎるらしい。つまり、そこからは坂道を転がるように体感速度が加速していくと言うことだ。高校生の頃には心底恐ろしいと思えたこの仮説も、最近、自分の中ではやや真実味を帯びつつある。
2025年4月1日火曜日。郵便を利用して爆破予告が無差別に配達されるという前代未聞の事件が発生した。通称、レトロ事件。
インターネットが発達したこの時代に、あえて郵便という一昔前の手段が選ばれたという皮肉が、この俗称には込められている。
大学3年生の頃の話なので、私もよく覚えている。最悪のエイプリルフールとして、人々の記憶に今も鮮明なはずだ。そして何より、私がこの制服に袖を通すきっかけとなった事件でもある。確か、犯人グループは現在に至るまで逮捕されていないはずだ。
数珠つなぎにそんなことを考えながらも、私は無意識のうちに咀嚼を急いでいた。2年が経つのも早いが、朝のこの時間ほど慌ただしく過ぎていくものもない。瞬きをする度、テレビ画面に映し出される時間が無慈悲に過ぎていく。それにこのヨーグルト、自家製なだけあって水っぽくなるのも早い。「時間はない。作るものだ」という、大学時代お世話になったバイト先の店長の言葉がよぎる。分かってますって。
今日の占い結果が6位だと早々に発表されたところで、ご馳走様と手を合わせた。何とも言えない結果に喜んで良いものかどうか悩みながら、食べ終わった食器を食洗機にかける。
この宿舎に来て、一番感動したのがこの一人暮らし用の食洗機だ。有難い。こちらにも手を合わせておこう。
最低限の身支度を済ませて玄関に向かう。支局長との待ち合わせまでには少し余裕があるが、手持ち無沙汰も嫌なのでパンプスを履いて早めに部屋を出た。
窓から覗く残月はもう随分と朧げで、昇ってきた太陽に舞台を明け渡そうとしていた。
宿舎の階段を降りてエントランスの自動扉をくぐると、私の中に朝が流れ込んできた。往来を行く人々、自転車が駆け抜ける音、踏切の音、美沙さんの淹れるコーヒーの香り。ジャージ姿の中学生たちが、わ、と何かに群がったかと思えば、その視線の先には腹を出して居眠る猫。線路沿いの桜が、舞う。
その花弁の行く先に気を取られつつも、私は宿舎の隣に位置する敷地へと足を踏み入れた。その門隣では、翠玉色の美しい門標が私を出迎えてくれている。
県境郵便保安局 香川─四国地方支局
通称、せとうち支局。今日からここが私の勤め先となる。やったぜ、通勤徒歩2分。
庭は丁寧に剪定されており、芝生も豊かだ。石造りの建物は二階建てで重厚感があるものの、どこか温かい雰囲気を纏っている。建物の陰で水仙の白がしなやかに揺れている。
体重任せに両開きの扉を開くと、メインフロアが私を迎え入れてくれた。臙脂色のカーペットが敷かれたフロアには、ステンドグラスが鮮やかな朝日を落としている。
小さな温泉街には似つかわしくない豪華絢爛なお屋敷にも見えるが、元々は有名な建築家が休暇を楽しむために自ら設計した別荘だったと言う。支局の試験運用に伴い、取り急ぎ根城として利用していたものを、今でも引き続き利用しているのだ。
そのこともあってか、この建物は、街に残る古き良き日本の伝統建築とはまた一味違う、どこかアンティークな年の取り方をしている。
腕時計を見ると、8時24分を指していた。待ち合わせまで6分を残したところで、中央階段から一人の男が降りてきた。
「やあやあ、中原君。待たせてしまって申し訳ない」
「川崎支局長、おはようございます」
臙脂色のネクタイにキャラメル色のベスト。私と全く同じデザインの制服には、彼の姿形に沿った深い皺が刻まれており、私のそれとは全くの別物に見える。その柔和な笑顔が親しみやすい印象を与えつつも、胸元に輝く金色のバッチが彼の威厳を確かなものにしていた。しかし、謙虚で驕らない人柄は第一印象の通りで、部下からの信頼も厚いと聞かされている。お噂はかねがね。
分厚い丸眼鏡の奥で、腹の底まで見透かされてしまいそうな観察眼が光っている。やはり、支配者の目というものは一様に分かりやすいもんやな。
川崎支局長は一歩踏み出して、私に右手を差し出した。私も慌ててそれに応える。
「改めて。ようこそ、せとうち支局へ」
「よろしくお願いします」
郵便保安局。郵政の治安維持を目的に設置された日本郵政グループの新規支部。
先に述べた2025年4月に発生したレトロ事件をきっかけに、手紙や郵便物を介した犯罪件数が増加した。インターネット上のやり取りは、消去しても何らかの形でその形式や証拠が残ってしまう上、足も付きやすい。そこで、手紙によるアナログな手段を用いた情報交換や、郵便物での物々交換が横行した。その煽りを受け、レトロ事件以降はこういった新しい犯罪スタイルへの対策が各自治体での急務となっていったのだ。
そのような現状を踏まえ、国は、各県境に郵便保安局を設置した。これにより、県を越えての郵便物には保安検査または検閲が義務付けられ、現在に至る。
ちなみに、首都・東京都には中央郵便保安局なる親玉が設置されており、各都道府県にはそれに準ずる県境郵便保安局、通称支局が順次設置中である。
保安局員は地方公務員という扱いになる。そのため、昨晩のニュースでも話題になっていた通り、雇用機会創出という各自治体のニーズとうまく合致し、多くの自治体からの賛同を得ることに成功。これにより、ここまで大規模な変革が、約二年という異例の速さで全国に広まることとなった。
まあ、何もかもが円滑に進んだという訳でもない。かつての日本には郵便法というものが存在しており、その第七条には「郵便物の検閲は、これをしてはならない」と検閲の禁止が明確に定められていた。しかし、レトロ事件発生後、郵便局のシステムに疑念や不満の声が挙げられたことをきっかけに、それは渦を巻くように膨れ上がり、最終的には郵便法改正運動にまで発展した。結局、同年の秋頃、その世間の声に押される形で、政府は現法の改正へと踏み切ることになった。翌年3月には郵便法の改正と共に、郵便保安局法が施行。試験運用を実施した2026年には、郵便を利用した犯罪の検挙件数が昨年から八割以上減少したことを受け、今年度から本腰を入れての運営が開始される運びとなった。
そうは言っても、発足からまだ一年という若い組織。実際の運営は各自治体の手による部分が多く、運営方針も支局によって大きく異なっている。そこで、全国規模での統一が難しいというこの現状を打破するべく、今年度は中央郵便保安局から派遣された優秀な局員を支局長として迎え入れることになった。それがこの人、川崎理人支局長というわけだ。
「案内します。とは言っても、私も先月来たばかりの新人ですから、何も緊張することはありません」
アンティークドアが並ぶ廊下を、私たちは音もなく通り過ぎていく。歩きながらも美しい標準語は続く。
「一階部分はメインフロアと保安室になっています。中原さんの部署は主に二階です。ご存じとは思いますが、郵便保安局には2つの機能がありまして」
斜め前を歩く川崎支局長の革靴を眺めながら、彼の話を何となく聞いていた。
郵便保安局の主な仕事は大きく分けて2つ。
1つ目は、郵便物に危険物が紛れ込んでいないか、違法性がないかどうかを検査する保安検査。2つ目は、手紙やメッセージなど、人の手による文章に問題がないか、犯罪を示唆する書き込みがないかどうかをチェックする検閲。それぞれの業務は、保安室と検閲室の室員が分担で行っている。
私は今日からせとうち支局の検閲官になる。
せとうち支局は、香川県と四国地方を往来する郵便物を取り扱う県境郵便保安局で、私の地元から電車を乗り継いで2時間ほどの所にある。
レトロ事件以降の郵便保安局設置計画にあたって、割と早い段階からシステムを整えて試験運用を始めており、実績としては中堅といったところだ。しかし、扱う郵便物の数や抱える局員数は全国的に見ても小規模で、少数精鋭の支局であると聞かされている。
「ここが検閲室です」
検閲室は、建物二階の最南端に位置している。周りの部屋より広い設計なのか、一部屋だけ両開きの扉になっていたので外から見てもすぐに分かった。
「中原君の上司は小豆沢という男性局員です。風変わりですが、優れた観察眼を持つ面白い人です」
「アズサワ」
彼は一度満足げに頷いて見せると、自分の仕事はここまでだと言わんばかりに
「それでは私は一度退席します。支局長室におりますから、何かあったらいつでも声をかけてください」
と、元来た廊下を引き返して行った。その背中が角を曲がったのを見届けた後、私はこの巨大な扉と対峙した。
扉の目の前に立っても、人の気配は感じられない。現在の室員は一人だと聞いている。それが例のアズサワさんなのだろう。
腕時計に視線を落とすと、8時43分を指していた。もしかすると、まだ出勤していないのかもしれない。
私は大きく息を吐く。与えられた仕事をそれなりにこなして、それなりに生きていけたらそれで良い。
廊下の窓が中途半端に開いている。春色が零れ落ちてしまいそうなやわらかい風が、前髪を撫でる。ネクタイを揺らす。私の背中を、押す。
ドアのハンドルに指を掛けて、一度だけ私の信条を呟いてみる。
──今日も今日とて、70点をキープせよ。
「それ何? 合言葉?」
それは夕立のように降ってきた。音を認識し、それが言葉だと気付き、その意味を理解するまでにたっぷり3秒使って、ようやく私は、ドンと床を蹴って飛び退いた。
「おお、床に穴空くかと思った。そんなことしたら川崎さんに怒られますよ」
あの人、怒ると怖いけんなと飄々とした声が続けて落ちてくる。
猫のように飛び上がった心臓を押さえ付けながら振り返る私と、それを見下ろす黒猫のような男。
危うく視線が交錯しそうだったのをなんとか回避して、エスケープした視線の先で彼の胸ポケットを見た。緑のバッチ、検閲官だ。
こうして対面したその男は背が高く、日本の平均身長を誇る私には見上げる必要があった。
アーモンド型の猫目に、涼やかな顔立ち。その顔に影を落とす黒髪には緩いパーマがかけられている。彼の姿勢に沿って皺が寄った制服は、支局長のそれとは違って、威厳ではなく彼の生活力の乏しさを刻んでいる。
ありありと目を見開いて立ち尽くす私を気にも止めず、彼は、
「新しい検閲官の人ですよね。俺は小豆沢暦です。よろしくお願いします。立ち話も何やし、中入りましょうか」
と両開きの扉を易々と開き、我が城と言わんばかりに室内へと入っていった。私も慌てて後を追う。
彼の言葉を冷静に聞いてみると、独特な訛りとイントネーションが耳に残る。こっちの人ではないんかもしれん、と直感した。
室内の東側に設置された大きな窓からは、朝日が燦々と降り注いでいた。絹を広げたようなやわらかな陽光が、この広い部屋を春色で満たしている。朝方の花冷えはどこへやら。今年もどうやら春麗らかな季節となりましたとさ。
真紅のカーテンは金のタッセルで束ねられており、絨毯の臙脂色と相まって絢爛ではありつつも、全体的に品良くまとまっている。私なら、黒電話でも置きたくなるようなレトロな一室だ。
と、まあここまでは良かった。しかし、視線を巡らせてみると、窓際には大きなアンティークデスク、ファイルが詰まった書棚、紅茶の缶が散乱したマントルピース、部屋に似合わない最新式の印刷機と、あれは何だ。コピー機のような機械がもう一台ある。
とにかく物が多い。部屋自体も広いのだが、それさえ窮屈に思わせるほど、家具や雑貨が所狭しと並んでいる。優雅と雑多のカオス、ここに極まれり。
極め付きは、部屋の中央に置かれた革張りのソファとローテーブル。その中央には、まさかとは思ったが、使いっぱなしのティーセットがそのままの形で埃を被っていた。化石だ。
私も特別綺麗好きというわけではないが、それでもこの部屋の惨状には思わず目を剥きそうになった。入室して、退室してしまおうかと一歩下がって、それでも、いやいやこれは仕事だと意を決して一歩を踏み出した。
小豆沢さんは特に何を気にする様子も見せず、私を例のローテーブルへ案内した。その様子が尚更、このカオスが何の変哲もない日常であることを裏付けていたが、何とか正気を保って革張りのソファに腰を下ろす。目の前には、化石が眠っていた。何か浮いてる。
「お茶でも淹れましょうか。頂き物のちょっと良い茶葉があるんで」
小豆沢さんの心底素敵なお誘いを全力で遠慮すると、「まあ、おやつにはちょい早い時間ですか」とあっさり引き下がってくれた。おかげでようやく落ち着いて対面できた。
小豆沢さんはその底の見えない瞳で、じッと私を射抜いた。顔の裏まで見透かされるのではないか、と私は反射的に視線を泳がす。
どうやら、こちらの一言目を待っているようだ。私は、一つ深呼吸。
「中原風鈴です。風鈴と書いてカリンと読みます。本日よりお世話になります」
小豆沢さんは、ほほうと背中をソファに預け、手の平に漢字を書きながら聞いた。
「フウリン? 風に鈴の?」
「はい。父が名付けたそうです」
小豆沢さんは、へえとか、ほうとか、文字に起こせない呟きを何度か空中に放った。
「ええ名前ですね。風鈴は俺も好きです。茹で上がりそうに暑い日も、風鈴の音がするだけで、なんやもう戻れん特別な日みたいに思える」
「……そうでしょうか」
人間の中には稀に、コミュニケーションを直球のみで勝負してくる人種が存在する。事実、私は彼の直球を喰らって動けなくなってしまった。
「ええ名前やから呼びたくなりますけど、まあ中原さんって呼ばせてもらいますね。俺のことは、そうやな、まあ、呼びやすい名前で呼んでくれたら良いです」
私は、顔に熱が集まっていることに気付かないふりをして、縋る思いで壁に掛けられた振り子時計に目をやった。時刻は9時2分を指している。
今この時点で換算すると、今日の私は甘く見積もって15点だ。残り14時間と58分。
果たして、巻き返すことができるのだろうか。