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ディア【第2章】
第2章 ある昼下がりのこと
Wednesday,10/20/2027
「些細なことなんです」
私は、ヴィンテージソファに体を預けながら言った。手の平に収まるコーヒーカップは、喫茶店・スイレンに併設されている陶芸教室で、美彩さんが焼いた一点物。ころんと収まりの良いフォルムを撫でながら、私は自分の言葉を頭の中で反芻した。
──些細ことなんです。
睫毛に絡まる湯気。ふ、と息を吐く。広がる波紋と芳醇な香り。本日の気まぐれブレンドに誘われ、こくりと口を付けてみると、ブラックコーヒーとは思えないフルーティーな甘味が残った。
カウンター席に並んで腰掛けていた先輩は、くちへ運ぼうとしたハムチーズサンドを持ったままフリーズしている。
どうせ、「あの中原が主体的なことを! 明日は雪やな」と失礼なことでも考えているのだろう。
でも実際、そうかもしれない。否定はしないでおく。
時刻は14時28分。
昼食時を過ぎた店内は落ち着いていて、私たちを含めて二、三組しか客はいないようだった。店内を流れる洒落たジャズに時折、誰かが新聞紙を捲る乾いた音が重なる。私はもう一度コーヒーを啜ってから、カップをコースターの上に置いた。
「何ですか、その顔は」
「顔なんか見えとらんでしょう」
「横顔だけでも緩んどるのが分かります」
へいへい、そうですかと先輩は言い返すのを諦めて、食べかけのハムチーズサンドを持ち直した。
「風鈴ちゃん、おかわりは?」
カウンターの奥から美沙さんが顔を出す。
「今日はやめときます。早く戻って午後の準備したいんで」
「あ、美沙さん。俺は同じのもう一杯」
「ダメですよ。そんな時間ありません」
私は慌てて先輩のカップを手の平で制す。
「ちぇっ」
「あら、お仕事大変なのね」
そうやって困ったように微笑む彼女こそ、喫茶店・スイレンの店主だ。店内の雰囲気に呑まれて思わずマスターと呼びたくなってしまうものの、美沙さんはそれを嫌がる。私の申し出も、「やだ、マスターだなんて。よしてよ、笑っちゃう」と、柔肌も傷つけない口調でやんわりと断られてしまった。それ以降、私はこの淑女のことを美沙さんと呼んでいる。
「じゃあ良いものをあげましょうね」
そう言うと、美沙さんはブラウンのエプロンで手を拭きながら、キッチンの奥へと消えていった。
「それで、何が気掛かりなんですか。中原さん」
それを好機と捉えたのか、先輩は頬杖を付きながら、ちらりと視線をこちらに向けた。彼の言葉を聞いて、やはり東京仕立ての美沙さんの標準語は美しいなと思う。
アーモンド型の瞳に射られる。猫に見られているかのような、不思議な緊張感がある。どこかへ逃げられてしまいそうで、息をするのも憚られる。
私は、空になったカップへと視線を落とす。黒猫は不吉だ。目を合わせてはいけない。猫は、じッと私の一言目を待っている。まずい、耐久戦ではほとんど私に勝ち目がないんだ。
「・・・・・・半年ほど前の話です」
こうして私は、事の顛末を話し始めることになった。
【せとうち支局検閲室 不在】