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ディア【第1章】

目次

第1章  ディア
第2章  ある昼下がりのこと
第3章  大事件にはほど遠い
第4章  風呂敷を広げられない
第5章  真昼のロミオ
第6章  フロム
            あとがき〜執筆の初感等〜


第1章  ディア

ディア  呉服屋いくゑ  京都本店さま

秋麗の候、金木犀の香り漂う毎日をいかがお過ごしでしょうか。
突然お手紙を差し上げて大変驚かれたこととお察し致します。それもそのはず、家を出て十年も音沙汰のなかった息子からの知らせなど、訃報か、負債か、出戻りか。いずれにせよ、快いもののはずがございません。  
しかし、幸いと記すべきでしょうか。わたくしには、抱える負債もなく、大きな病気もせず、定職に就いて、細々とではありますが貯金もございます。誤ってでも皆さまにご迷惑をお掛けするような事態にはありませんことを、先に釈明させていただきます。
十年前の春、まだ世間を知らぬ御坊ちゃんであったわたくしは、何も言わずに家を発ちました。もう二度とその敷居を跨ぐことはないであろうと愚かながらに思っておりました。
後に聞いた話によると、皆さまには大変ご心労をお掛けしたようで、これまで育てていただいた御恩を仇で返すような真似をしてしまい、その節は大変申し訳ございませんでした。親不孝な息子を、どうかお許しくださいませ。
おふたりは気付いていらっしゃることと存じますが、敷居は跨がずとも、この十年間、都とは連絡を取っておりました。それに加え、盆と正月の二回だけ、この瀬戸内の地で密かに近況を報告し合っておりました。都には散々迷惑を掛けました。あの子は、我慢強く聞き分けの良い素直な子ですから、わたくしも、知らず知らずのうちに甘えてしまっていたのかもしれません。こうなってしまった後では無責任に聞こえてしまうかもしれませんが、都はわたくしよりも人の先頭に立つことに長けている人間だと思います。自慢の妹です。彼女がいくゑを背負って立つその日まで、わたくしは愚かな兄として、この身を尽くしてお力添えを致します。大学に進学したわたくしの口座に毎月匿名で振り込まれていた多額のお金は、手付かずのまま残しております。そちらで、彼女の船出に花をもたせてやってください。
厚かましいようですが、一つだけ申し上げておきたいことがございます。わたくしの恩師につきまして、どうか誤解をしていただきたくないのですが、彼はわたくしの行く道を照らしてくださっただけで、最終的に一歩目を踏み出す決心をしたのは、他でもないわたくし自身でございます。彼は教師として、わたくしを蜘蛛の巣に引っ掛かったままにはしてやれないと思ったのかもしれません。
彼の背中を追いかけ、長男という役割を放棄し、この香川の地を選んだ責任は全てわたくしにございます。許して欲しいとは口が裂けても申し上げられませんが、彼を責め立てるようなことはありませんよう、僭越ながらお願い申し上げます。
閣筆の前に。生意気を申し上げるようですが、わたくしは、これまでの決断に何ら後悔はしておりません。知っての通りと存じますが、わたくしは現在、県境郵便保安局にて検閲官の職を仰せつかっております。今年度は見所のある後輩も入局し、その実力を確かなものにしようと日々奮闘しております。わたくし自身、その後輩の不器用な誠意にあてられ、こうして十年振りに筆を執る事ができております。打算のない人間には、やはり敵いません。
秋たけなわの好季節、くれぐれもご自愛くださいませ。呉服屋いくゑの幸多く、末永いご繁栄を心よりお祈り申し上げます。

フロム

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