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私の青春は、あのコートの中にあったんだ

9月3日。私はテレビに向かって身体を前のめりにして、両手を握りしめていた。

もう少し。

点差は十分についている。このまま残り1分を過ぎれば決勝にいける。

頑張れ。

瞬きをする時間も惜しいほどに画面を見つめ、息ができないほどに唇をギュッと結ぶ。心臓はバクバクと鳴り続け、あと数十秒がとてつもなく長い時間に感じ、もう大丈夫と確信しながらも、私は祈り続けていた。

頑張って。

残り2秒。日本がタイムアウトを取った。一気に緊張が解ける。

「もう勝つよ。すごいことやから瞬きせずに見とき」

大きく息を吸い込んで、隣で一緒に観ていた三男に声を掛けた。「分かった!」と元気に答えた三男は、私に言われた通り、クリクリの目をさらに大きく開いて、その瞬間を待った。

放たれたボールをパスすることなく終了の笛が鳴り、コートに選手達の笑顔が溢れる。

「やったー!!!」

両手でガッツポーズをして、三男とハイタッチをした。

「決勝!決勝や!すごい!!!」

「すごい!すごい!!」

私は興奮を抑えられず、「すごい!すごい!」と連呼しながら画面の中の選手達に拍手をおくり、試合後に声を震わせながら感想を述べる嵐の櫻井君の目に溜まった涙を見て泣いた。

本当にすごい。
パラリンピックで車いすバスケットボールが決勝に進むなんて。

「お母さん、泣いてるぅ」

「だって、ほんまにすごいんやもん」

泣き笑いの顔で私はまた「すごい!」と言い、喜びを噛み締めた。



「一緒にボランティアに行かへん?」

高校1年生の秋、同じクラスで仲良くなったSちゃんに誘われた。

「ボランティア?」

「うん、車いすバスケの」

「車いすバスケ?」

すでに『将来は看護師になって自立する!』と決めていたSちゃんは、障害者スポーツセンターで車いすツインバスケットボールのボランティアをしていた。

「楽しいよ。ナゴミちゃんも一緒に行こうや」

当時、Sちゃんも私も家庭環境がよくなかった。今でいう『毒親』の存在のもとで、『厳しい躾』では済まないほどの傷を負っていた私達だったが、だからといってグレるほどの勇気もなく、クラスでは地味で真面目なグループに属していた。

高校生になっても「どこに」「誰と」「何時まで」を詳細に告げなければ外出できなかった私に、その誘いを断る理由などなかった。世間体を気にする両親は、ボランティアといえば反対はしないだろう。

学校以外で友達と自由に会えるのは嬉しい。しかも、レポートを提出すれば学校から交通費が全額支給されるという。「いいよ」と即答し、その週末からボランティアに通うことになった。


車いすバスケットボールはボールもゴールの高さも通常のバスケと同じだが、車いすツインバスケットボールでは通常のバスケットゴールの他に1.2メートルの低いゴールを使用する。低いゴールはフリースローサークルの真ん中に置いて使用し、通常のゴールと低いゴールを2組使用することから『ツイン』という名前がついている。

障がいのレベルに関係なくプレーに参加して活躍でき、「皆が出場し、皆が活躍する」思想で、より多くの人が楽しめるスポーツだ。

そんな車いすツインバスケットボールのサークルに、Sちゃんについて参加すると、ものすごく歓迎された。メンバーは男性ばかりだったので、女子高校生は可愛いのかな?と勝手に思っていた私は、準備体操が始まってすぐにその考えは間違っていたと気付く。

「二人とも若いから、一緒にプレーしてな!」

「えぇ!?」

驚いてSちゃんの方を見ると、私以上に狼狽えたSちゃんが「うち運動できんって!」と大声を上げた。どうやら彼女は、今までプレーしたことがないらしい。

「二人おるから大丈夫や!そこに予備の車いすあるから」

何が大丈夫なのか分からなかったが、ギャーギャー騒ぐSちゃんと一緒に、ボランティアの人達から「とりあえず乗ってみたらええやん」と促され、恐る恐る車いすに座った。

「うわ!」

距離感が掴めずに、思いの外、勢いよく座ってしまって驚く。軽くはない体重がドシンとのし掛かり、微かに座面がたわんだ気がした。

車いすを押したこともないのに、いきなり座るなんて。

周りの人に教えてもらいながらフットレストに足を置き、ストッパーを外す。両手でハンドリムを掴んで、ゆっくりとこいでみた。

「進んだ!」

当然だ。こいだのだから。

それでも何故だか感動していた。足で自転車をこぐのとは違う、手を使って前に進むなんて、今まで体験したことがない。

競技用の車椅子なので、通常とは形が違い安定感もあったと思うが、それでもいきなり練習に参加した私達はひどいものだった。

まず、真っ直ぐに進まない。
両手でこぐ強さが違うからか、どうしても利き手側が速くなり曲がる。

そして、ボールが持てない。
自走するだけで精一杯なので、ボールに構う余裕など全くない。

若さと元気はあったが、もともと運動神経はよくない二人。お互いに「ひど過ぎやん!」と言いながらゲラゲラと笑い、初日は終了した。


それから回を重ねるごとに、車いすの扱いに慣れていった。しばらくするとゲームに参加できるまでになり、私はメンバーに混ざってゲームをするのが楽しみになっていた。

車いすは速い。
風をビュンビュン感じる。

スピードに乗って、パスを受けて、ターンをして、シュートは、、9割入らなかったけど、ゴールに向かって投げる。お互い手加減はなく本気だ。それが面白かった。

足が遅くて、球技も苦手だった私でも『もっと上手くなりたい!』と思えるほど、車いすツインバスケットボールは魅力があって楽しいスポーツだった。


もちろん、メンバーやボランティアの人達に惹かれたのもある。なんせみんな明るい。

バリアフリーなどの言葉も浸透していなかった時代だ。障がいがある人達にとっては、今よりもっと不便な生活が強いられていたと思う。

それでも月2回、この場所に集まってプレーをする彼らは、それぞれが抱えている問題や苦労を感じさせない勢いがあった。それは、抜け出せないトンネルの中にいた私でも、いつかは光が与えられるかもしれないと思えるほどキラキラしたものだった。

「ナゴミちゃん、焼肉行こうや!」

練習が終わると食事にも誘ってくれた。門限が厳しくて参加することはできなかったが、「ほな、好きなん買うたるわ!」と自販機の前で私に小銭を握らせ、ジュースを奢ってくれた。

「ありがとう!」

受け入れてもらえる場所がある。

それがとても嬉しかった。




日本 vs アメリカ
決勝戦の日は仕事だった。

リアルタイムで観れなかったのは残念だったが、仕事の合間にスマホを開いて、日本が銀メダルをとったと知った瞬間は心が震えた。

「すごい」

私はこっそりと口の中で「すごい」と繰り返し、ひとりでニンマリと笑った。



Sちゃんは高校を卒業すると、専門学校に通い准看護師になった。そして私は20歳の時にヘルパー2級の資格をとり、それから随分経ってから介護福祉士になった。

結婚してから疎遠になってしまったので、Sちゃんのその後の人生は分からない。

介護士を辞めた私のように、今では全く違う職業についているかもしれない。


でも、車いすバスケットボールを観るとSちゃんのことを思い出す。

二人とも決して幸せな高校生ではなかったけど、車いすに乗って風を感じている瞬間はとても楽しかった。


「車いすで走るの、すごい気持ちいいねんで!」

子供達に自慢しながら、16歳の自分に思いを馳せる。必死にコートの中を駆け巡っていたあの日々が、とても懐かしい。

「パリでは金メダルとって欲しいなぁ」

3年後、私はまたテレビの前で身体を前のめりにしながら両手を握りしめているのだろう。

そして、思い出す。

Sちゃんと一緒に感じた風を。

その4年後も、またその4年後も、私の青春はあのコートの中にあったんだと、何度も何度も思い出す。





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