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今日が『最後』かもしれない日々の習慣

最近、三男と仲が良い。
ほとんどの時間を一緒に過ごしている。

思春期に片足を突っ込み始めた周りと違って、小6になっても不意にギュッと抱きついてくる三男は、きっと他の子よりダントツに幼い。丸いほっぺにクリクリの大きな目がついた顔は保育園の頃から変わらないし、まだまだ私を超えそうにない身長とキャハハと笑う高い声は、あと数年も経たないうちに消え去るなんて全く想像ができない。

週のほとんどの時間をミニバスの練習や試合に費やする三男は、3兄弟の中で私と過ごす時間が一番長い。それは私にとっても同じことで、長男や次男が小6の頃とは比べものにならないくらい、三男中心の生活を送っている。

そのせいか、私といることに違和感がない三男は、ミニバス以外でも私と一緒に出掛けてくれる。

「城下町で食べ歩きがしたい」と言えば、「いいね!」と付き合ってくれるし、「カラオケに行きたい」と呟けば、「ボクも!」と言って声が枯れるまで歌う。

予備校に通う長男と高2の次男という、すでに思春期を超えた息子達がいる私は、この時間があと僅かなことを知っている。ぐんぐんと伸びる身長、みるみる低くなる声、親との間にできる見えない壁。子供の成長は止められない。それは嬉しくも寂しくもあるものだと知っている。

だから二人で出掛けた時は、『もう最後かもしれない』と思っている。
最後かもしれない時間を楽しんでいる。



4月下旬、三男が図工の時間に作った工作を持って帰ってきた。板に絵を描いて真ん中にホワイトボードを貼り付けたもので、使うにも捨てるにも不便なサイズで、私は正直面倒だなと思った。

「自分の机に持ってって」

チラリと見てそう言うと、三男は「うん」と言って和室へ行った。
三男は普段、2階の寝室で夫と一緒に寝ているが、学習机は私が寝室にしている和室に置いてある。その机にホワイトボードは立てかけられた。


5月に入ると、ホワイトボードに文字が書かれていた。

突然現れた。


ベットに横になって、スマホの充電をしなきゃと右を向いた瞬間に飛び込んできた文字は、あまりにもストレートだった。

小2の3学期に、三男は書字障害の診断を受けている。今はかなり改善されて、普通級で問題なく過ごしているが、やはり文字を書くことは苦手で漢字もあまり覚えていない。だから私は、文字を覚えたての子供の多くがお母さんに書いてきたであろう、「だいすき」という手紙を三男からもらった記憶がなかった。

『今になってもらうなんて』

可笑しくて、少し笑った。
少し笑って、少し泣いた。

それから毎日、寝る前と起きた時にホワイトボードを見るのが習慣になった。




母の日の翌日、いつものようにホワイトボードを見ると、新たな文字が追加されていた。

母の日バージョン。


「母の日にケーキを買ってあげる!」

5月に入ってからずっと言っていた三男の申し出を、私は断っていた。なぜなら5月は私の誕生日もあって、誕生日プレゼントも買ってくれそうな勢いの三男の懐具合が心配だった。

「母の日と誕生日、一緒でいいよ」

そう諭して納得した三男は、母の日に感謝の言葉を残してくれた。



私の誕生日、三男がロールケーキを買ってくれた。去年より値上がりしたロールケーキに驚くこともなく、財布からお金を出してレジのお姉さんに支払っている姿を、私は少し後ろから見ていた。

「はい、おめでとう!」
「ありがとう」

手渡されたケーキの箱を大切に抱えて帰宅し、夕食後に切り分けて食べた。いつもと変わらない味に心が満たされる。

「あっ、お父さんもおめでとう!」
「…ありがとう」

夫は私と同じ誕生日なのに、毎年忘れられるのもお決まりで、不服そうな夫の顔を見ながら食べるロールケーキは、より一層美味しかった。


そして次の日、なぜかまた文字が追加された。

余白を埋めたかったのかな?


日々はあっという間に過ぎていく。
三男がこのホワイトボードの文字を消す日は、すぐかもしれない。

いつまでこの文字が残っているかは分からないけれど、私は必ず寝る前と起きた時にこのホワイトボードを見ている。ストレートな言葉に、毎日『幸せ』をもらっている。



6月に入っても消されない文字を見続けて、ふと『私はもらってばっかりだな』と思った。いつも三男が投げるボールを受けとるばかりで、その球を投げ返していないことに気付いた。

だから私も書いてみた。


ストレート返し。


何を書こうかと悩んで悩んで、結局『ありがとう』になった。いつ気付くのかと思ったら、翌朝には見つけた三男はランドセルを背負いながら、

「あれ、いつ書いたの?」

と聞いた。

「昨日の夜だよ」と答えると、「へぇ」とか「ふぅん」とか言いながら帽子を被り、水筒を肩に掛けると、「行ってきます」と玄関を開けた。

それは間違いなく思春期の照れ方だった。



今もまだホワイトボードの文字は消されていない。消えるまで、私の習慣は続くだろう。いつまで続くか分からないけれど、今日が『最後』かもしれない日々の習慣を、これからも楽しんで過ごそうと思う。





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