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#13 偏屈男 ~俺たちまだまだ中二病~


そして中二病

卵が先か、鶏が先か。
イケオジが先か、騙される女が先か。

永遠の問いである。

私は自他共に認める偏屈野郎だ。
幼い頃から、どうしてもあらゆる物事を斜めから見てしまう癖がある。

仲の良い友達は「お前は尖ってるなあ」と未だに面白がってくれる。

だがしかし。

私は1998年8月生まれ。
今年でなんと26歳になるのである。

いつまでも童貞の様に性格をこじらせている場合では無いのではないか。
いい加減変わらなければいけないのではないか。

と、最近改めて感じる事が多くなった。

まず読者諸君に、我々偏屈野郎の生態を幾つか紹介したい。

その1、基本我々はとてもプライドが高い

自分は他人と違う」という思春期なら誰もが持ち得る感覚を捨てきれないまま成長する事によって誕生する生き物で、自分自身を馬鹿にされるのが何よりも大嫌いなのだ。

人間関係においても、この“プライド”という奴が例外無くどんな時も邪魔をする。

お前となんか別に仲良くなりたかねえ、ガルル」という気持ちと、
この人の事は大好きだけど、つまらない人間と思われて嫌われたくないから上手く話せないな…
という気持ちが50/50で共存した結果、世間一般でいう「人見知り」「コミュ障」というアビリティを取得するのである。

その2、我々は“逆張り”をこの上なく好む

最初に説明した通り人と違う自分でありたいと常に願う為、周りと違った意見を持つこと、そしてそれを見せつける事が我々にとっては至高である。

「俺はこう思うけどね」
「ちなみにこんな意見もあるけどね」
「俺こんな所も知ってるけどね」

我々はこれらをいつ何時も常備している。

また、折角用意したこれらを見せつけたいあまり、たまに本当の意見を言えなくなってしまうという事すらある、なんとも哀れな生き物だ。

さらに厄介なのが、我々は俗にいう「承認欲求」もすこぶる高い。
常に周りの目線を気にしているし、精神状態によってはそれが本当に怖くなるときもある。

さて、ここまで長々と読んで頂いた諸君には申し訳ないのだが、実のところ我々のこの面倒な生態をわかりやすく一言で表す、ピッタリの言葉がある。

それは、「中二病」である。

そう「偏屈野郎」とはニアリーイコール「中二病」なのである。

…そろそろ私の文字を打つ手がパソコン諸共涙で濡れて限界なので、一旦ここらで解説はやめさせて頂こうと思う。

とにかく、世間でアラサーと呼ばれる年齢になった私は、このままではいけないと今までよりも強く思った。

悪条件を重ねる様で誠に不服なのだが、私は売れないバンドマンをやっている。

金を稼ぐためにも、出役として当然人気者になりたいし、モテたいのである。

その為にも、少しずつでいい、少しずつこの歪んだ性格を直していこうではないか。

そう心に誓ったのである。

いきなり慣れぬことはするな!


まず私は、自分より年下の人間との接触を試みる事にした。

読者諸君は「大学生」という生き物をご存じであろうか?

私は休日よく水族館や動物園に足を運ぶくらい動物が大好きだが、この生き物だけはめっぽう苦手である。

彼らの強さの源はズバリ「若さ」。

私だってまだ20代だ。
全然この武器を持っているし使えるのだが、彼ら「大学生」とは訳が違う。
彼らはこの最強の武器を、周りの反応だけでなく自ら率先して使う事を許された唯一の生き物なのだ。

日本各地に様々な種類が生息しているが、群れで行動し甲高い鳴き声をあげて騒ぐ種や、わかりやすく交配目的のオスメスでお互いを探り合い行動している種は、私にとって特に天敵である。

おっと、既に発作が出てしまっているではないか。
いかんいかん。
これを変えようと、私は先程話したばかりではないか。

とにかく、私は自分直しの一環として試しにバイト先にいる大学生に声をかけてみようと思ったのだ。

あらしのよるに出会ったヤギとオオカミの様に、交わらない生き物との交流によって壁が壊れ、新たな扉が開けるかもしれない。

そんな時たまたま、私は最近職場に入ってきた大学生の女の子の研修を任された。

少し大きめの体型で美人という感じでは無いが、大人しそうで程よく明るい、実に良い子に思われた。然程苦手な種には該当しない。
これはとても好都合である。

しかも私は運良く、出会い頭からこの子にひとつある違和感、可能性を持っていた。

この子、どこかで見た事がある…?

暫く考えていた所、私の脳内コンピュータがぴーんとひとつの答えを弾き出した。

バンド関係の知り合いの方に、よく顔が似ている人がいたのだ。

しかもその方は、珍しい…という程では無いにしてもまあまあすぐ出会う様なレベルでは無い少しレアな苗字であり、なんとその子も同じ苗字だったのだ。

同じ大分県でこの偶然、これはまさか親族ではないか…?

その子は私より当然年下だし、その知り合いの方はまあまあ世代が上の男性だ。

脳内コンピュータは「間違いない、○○さんのお嬢さんだ!」と即座に判断を下し、私は1つ会話の種を手に入れた。

今では、この時の安直な判断を大変後悔している

研修を一通り終え、ちょっとした休憩時間を設けた。
今しかない。
私はその時間を利用して、勇気を振り絞って彼女にこう話しかけた。

「あ、そういえば聞きたかったんですけど、俺○○さんに凄く似てる人を知ってて、お父さんとかって何されてる方ですか??」

実に自然な流れ、自然なトーンで、話題も当たり障りなく完璧である。

かに、思われた。

彼女の返答はこうだった。

「あ、お父さんはもう既に亡くなってて…」




(私の脳内)

ガブ…ガブ…!!!

こんな事になるなら…

…いっそ、あのあらしのよるに出会わなければっ…!

出会わなければっ……

出会わなければっ……

(リフレイン)




「あ、ソウナンダネ!」

私は、私の中で生まれたての様々な感情全てを押し殺して即座に振り返ると、直ぐにその場を離れた。

それからその子と話す事は一切無く、数ヵ月後その子は普通に職場をやめていなくなっていた。

読者諸君よ。
神よ。
教えて欲しい。

これは私が悪かったのか?

勝手に勘違いし先走った私が悪かったのか?

今思えば、顔が似ている、苗字が一緒、
確かにその2つだけである。

でも、でもさ…

そんな事普通想像すらしないじゃないか!!!

私はその夜、世の中の理不尽さと自分の不甲斐なさを嘆き枕を濡らした。

私は幼少期、ポケットモンスターでも最初のバッジすら取れないほどRPGゲームが苦手だった。

草むらを歩いて敵を倒し、レベルを上げる。
その行為が面倒臭くて、なるべく戦闘を避けて先までそそくさと進んでいく。
その結果、強い敵が現れるとレベルが足りずにコテンパンにやられてゲームオーバー、そこですぐ諦めてゲームをやめてしまうのである。
 
今回の場合も、全く同じだ。

マサラタウンを出たばかりのレベル1の私が、レベル49の「大学生」に挑むには、少々早すぎたのだ。

たとえ相手が“草むらで出会った優しそうな女の子”だったとしても、それはレベル89の敵の仮の姿…というレアケを想定しておかなければならなかった。

余程の作戦や確証がない限り、基本慣れない事はしないが吉である。

こうしてまた1つ、私は世界との壁を増やしたのであった。

「人たらし」との差って一体なんだ!


古い記憶だが、ドラえもんにもこんな回があった。

名前までは思い出せないが、のび太たちの同級生に何をしても周りに許される、所謂「憎めない」タイプの男の子がいた。

空き地で遊んでいる時も、ソイツがミスを犯しても皆に笑って許されるが、のび太が同じ事をやるとジャイアンにボコボコにされる。

のび太は人間の不平等さ、世の中の不条理さを嘆き、ドラえもんに泣きつく。

それを受けたドラえもんは道具を出しながらも、

「世の中には、“損する人”と“得する人”がいて、何をしても憎めないやつもいれば君みたいに何をしてもムカムカさせてしまう人もいる

というあまりに厳しい現実を、まだ小学生であるのび太に押し付ける、といった内容だった気がする。

学生時代、私はこの話を読んで酷く納得したのを覚えている。
私はのび太と誕生日が一緒で、幼い頃からどうも他人とは思えない深い縁をなんとなく感じる事が多いのだ。

つまり私は、元来“損する人”であると、その時気づいたのだ。

これを自ら言いすぎてしまうのも、自分のダメな性格に対する言い訳になってしまう気もするし、言霊としてもあまり良くないように思う。

しかし、ドラえもんの言う通りこれはもうしょうがないところも一定あると思うのだ。

ではこの憎めない人、私は「人たらし」と呼ぶが、
我々がこれになるにはどうしたらいいのだろう?

“そんなもん考えてやろうとしている時点でお前にゃ無理だ!”
という心無いツッコミはやめて頂きたい。

そんなことは、ぶっちゃけわかっている

それでも、それでも尚私は、少しでも奴らに近づきたいと切に願っているのだ。

私の周りにも、「人たらし」は結構沢山いる。

我々バンドマンの様に出役の人間達は、この才能があるかないかでスタートラインがかなり違うように思う。

彼らを自分なりに分析してみたところ、1つのある共通点を発見した。

それは、
“人と関わるときに計算しない”
という事だ。

話す前からこの人はどうだ、などと考える前にもう話している。
誘ったら嫌かな…などとモンモンとする前にもう誘っちゃってるのだ。

つまり彼らは、根本的に損得などそもそもあまり考えずに、人と接する事が出来る。

そう、我々と真逆の人種なのである。

たまたま先程TVを見ていた所、
「アメトーーク!」で“後輩との接し方わからない芸人”という回をやっていた。

それを見て共感の余り涙を零したばかりだからか、今、彼らの凄さを非常に身に染みて感じている。

(ちなみにこれは“先輩に可愛がられない芸人”という回の続編であり、この回を見た際も同様に枕を濡らしたことは言うまでもない。)

彼らの行動力の源は、一体どこからきているのだろうか。

以前、私のバンドでサポートとしてドラムを叩いてくれていた後輩の男がいたのだが、彼など正に典型的な「人たらし」であり、年下ながらにそういった部分を非常に尊敬していた。

彼は関西出身で、大学の進学で私の住む大分県に来た。

彼が大分のバンド界隈に現れるやいなや、「なんかおもろいやつが来たらしい」と話題だったのは良く覚えている。

例えば、彼は自分が元々好きだったバンドと対バン(※)が決まった時、そのバンドがライブの前日から大分県に前乗りしているという情報を聞きつけると、いきなりそのメンバーにSNSでDMを送りつけ、面識の無い状態で明日よろしくお願いします!と飲みに行っちゃったりするのだ。

(※対バン・・・ライブイベントにおいて複数のバンドが共演する事、及びその相手を指す言葉。)

底抜けに行動力があり、またドラマーの人口はどこも圧倒的に少ない事から、彼は大分に来てすぐバンドマンたちの中でも人気者になった。

実際に人もドラムプレイもカッコイイ奴であったし、あいつの周りには何かといつも人がいるのだ。

最初は「なんだかキラキラした奴だなあ、あういうタイプは私みたいな根暗には一切興味が無いだろう。」と思って遠くから見ていた。

しかし、そういう奴に限って私の様な中二病も無視することなくうまく懐に入ってきて、すぐ仲良くなり皆と同じ様にかまってくれるのだ。

私の方もまんまと彼に乗せられ、えへへえへへと、あれよあれよと仲良くさせて頂いていた。

さて、対する私はというとどうだろうか。

ライブハウスには高校生の最初くらいから出入りしており、流石の私にも仲良くしてくれる先輩や後輩は少しだけいる。

しかし私ときたら、もう何度も会って話して仲良くしてくれている相手でさえ、自分から飲みに誘うとなると文面やタイミングを考えに考え、冗談抜きで送信のボタンを押すまでに少なくとも1時間ほどかかってしまうのだ。

残念ながら、私にはドラえもんもいない。

1時間悩んで世の中と自分の不条理を嘆いた所で、便利な道具を出してもらえるわけではないのだ。

彼ら人たらしへのコンプレックスは、恐らく今後一生消える事はない。

Youtuber「カジサック」としても活躍している、お笑いコンビ“キングコング”の梶原雄太氏が、相方の西野亮廣氏をはじめとした才能人へのコンプレックスを良く語っているのだが、こちらにも酷く共感する。

ちなみに梶原雄太氏も誕生日が同じだ。
これはもうそういった星に生まれてしまっているのかもしれない。

「色々考える前に行動してみる」

恐らくこれが、彼ら人たらし共に倣う人付き合いの極意なのだ。
 
まあ、分かったところでそれが出来れば苦労しない訳なのだが。

ただ、この理論が正しいのであれば、奴らはもしやボードゲームやカードゲームなどの心理戦には滅茶苦茶弱いのではないか?

よく考えずにプレイして、「ここだ!パチーン!」と速攻2歩とかしちゃうんじゃないだろうか。

この説が立証されれば、「考える前に行動」理論がより信憑性を増すと共に、奴ら人たらしの弱点まで握ってしまうではないか。

先程話に出した後輩のドラマーは現在地元の関西に帰ってしまっているが、ちょこちょこ大分にも帰ってくることがある。

大分か関西か、どちらでも良いが次会うときに一局対戦願うとしよう。

察するに、

「俺結構ゲーム好きなんすよ、やりましょう!」
とノリノリで付き合ってくれるか、

「ミナギさんまた変なこと言ってますね(笑)」
なんて言ってある程度面白がりつつ、いなされる気がする。

想像するだけで100点の後輩ムーブだ。

クソ、やっぱり勝てないじゃないか。

こうしてまた行動する前に考えてしまう私であった。


過去を否定し、ルーツを偽るな!


我々の様に成長しても変われない人間がいるのと同様に、成長するにつれて大事な所まで変わってしまうタイプの人間一定数もいると思う。

バンドマンをやっているからなのか、
それともいい年齢になってきたからなのか、
最近そういった感じの人と出会う機会が多い。

昔の自分と性格や趣味がある程度変わるのは当たり前のことだ。

しかし、自分の核とも言える様な大事な部分だったり、楽しかった思い出だったり、過去の恥ずかしい記憶だったり、
そういった物を否定しすぎるのはナンセンスだし、それで作った今の自分を演じているままだと、後々辛くなってきちゃうと思うのだ。

恋愛なんかがその最たるものではないだろうか。

あれだけ好きだった元カレ・元カノが、思いだしたくもない最悪の思い出となってしまうケースだって世の中にはあるのだ。

そりゃ色んな人がいるので、余程最悪な別れ方をしたのなら話は別なのだが…

でもその人が好きだった時の自分を極度に否定してしまったり、楽しかった思い出すらマイナスなものとしてしまうのは余りに悲しいし、勿体ない。

私の友達が失恋した時の話をしたい。

もう別れて1年程は経っていたと思うのだが、全く笑いに変えれる気配が無い程彼は元カノを引きずっていた。

序盤は面白がって、イジリを交えつつ皆で勇気づけていたのだが、自分から失恋話にもっていく割にはこちらの反応次第で普通にちょっと機嫌が悪くなるので、「厄介だなあ」とこちらからわざわざ話に出すこともそうなかった。

ある日、その失恋した友達本人の運転で数人でドライブしていた時、突然彼が「あっ…やべっ…!」と言い急にハンドルを切ってルートを変えた。

我々は驚き、「どうした、動物かなんかいたか!?警察!?お前酒飲んでないよな!?」と多少慌てて聞いたところ、彼が一言。

いや…この先にある街は○○(元カノ)が住んでたところだからサ…。あんま、近づきたくないんだよね。

“その子に会ってしまうかもしれないから”という感じの理由では無く、
道を通る事で蘇る思い出や、街自体にこの上ない嫌悪感を持っている様子であった。

友よ。それは如何なものか。

街は君になにもしていないぞ

私は、彼が引きずっているその子に告白してOKを貰った時の事や、付き合っているときのキラキラした様子をよく覚えている。

ある日突然夜中に電話がかかってきて、

「○○(元カノ)が熱を出した!この時間、薬局も開いてないんだ!ミナギ、お前薬もってないか!?ちょっとわけてくれ!!」

と矢継ぎ早に伝えると、「あー…多分あると思うよ…」と寝ぼけて気の抜けたこちらの返事を聞き終わる前に彼は即座に電話を切った。

彼と私は徒歩10分程度の距離に住んでいたのだが、約7分後くらいにインターホンが鳴り、その3分間すらもなんとか短縮する為に猛ダッシュしたのであろう汗だくの彼が扉の前にいた

友よ。
○○ちゃんも子供じゃないんだ。

汗だくで彼女のために必死なのは結構だが、
ただの風邪ならば3分程度では、そう変わらんぞ。

この時から、元来の彼の性格である「そうじゃない感」は何も変わっていないが、でもあの時の君は非常にキラキラして微笑ましかったじゃないか。

あの(良くも悪くも)輝いていた友のこういった変化は、私にとって非常に悲しいものであった。

私達20代も含め、今時の若者は「メンヘラ」という言葉が本当に好きだ。

“女好き”と書いてあるのと同じ様なマッシュ髪をぶら下げたクソ甘ったるいインディーズバンドマンやその盲目ファン達の口からなど、「おはよう」「おやすみ」「いただきます」といった挨拶と同じぐらい耳にする。

(※前項でご紹介した「大学生」という生き物達の大好物でもあるので、飼育の際は覚えておこう。)

我々中二病属も一見すると、この“メンヘラ肯定サイド”に思われがちだ。


ところがどっこい、私はむしろ逆である

例えば綺麗な女の子はいつでも俺たちの憧れであって欲しいし、イケメンは嫉妬の対象であってほしい。
真っすぐに恋して、キラキラした素敵な人生を送ろうとしていて欲しいのだ。

なんの濁りもない、清廉潔白な人生を必ず送りなさい!と言っているのではない。

結果はどうあれ、我々のライバルであり憧れ達には、それを諦めて「メンヘラ」なんて言葉で楽するような意志を持つ生き物であって欲しくないのだ。

ライバル、敵である彼らへの一定のリスペクト。

言わばアンパンマンとバイキンマン、トムとジェリーの様な感覚である。

恋愛に関わらず、過去打ち込んできた事や経験は間違いなく今の自分を作っている一つの要素なのだ。

勿論例外もあるだろう。

家庭環境や、元彼の酷いDV。
非合法のクスリにハマってしまっていた経験。


「やめてよかったものは?」
「覚醒剤!」


ニート東京での孫GONG氏のインタビューを引用させて頂いたが、この様な誰がみても否定した方がよい経験は確かに別だ。

しかし、キラキラした素敵な自分の過去やルーツを否定してまで、今の自分を作ろうとするのはやめていこうじゃないか。


偏屈な自分を変えるにあたって、私は自分の核となる部分や思い出は例えダサくとも大事にしていきたい。


…果たして、本当に変われるのか?


年上が好きってだけでお高く留まってんな!


我々中二病属を苦しめるのは、主に年下と同い年だ。

人生の先輩というのは、余程こちらから敵意を向けない限り基本的に優しい。

しかし、同級生や後輩というのは、時に容赦ないのだ。

冒頭に「イケオジが先か、騙される女が先か」と綴ったが、私はもうこの手の連中が昔から死ぬほど苦手である。

年上の彼氏がいるってだけでイキっている女子ってクラスに二人くらいは常にいなかっただろうか?

1個上2個上の先輩、とかならまだマシであるが、オジと呼ばれるレベルの年上男と付き合っているやつなんて、もう目も当てられない

いや、私は何も性的趣向を否定しているのではない。

年上と一緒にいるってだけで自分も大人になった気分になり、周りの同級生を見下してしまうイキりがキツイと言ってるのである。

先輩にばかり媚びを売るコバンザメタイプの男にも同じものを感じるが、なんというか見ていて非常に切ない。

そもそもそいつらイケオジというのは、基本的に実は同級生たちに相手にされなかった売れ残りだという事を忘れてはならない。
目を覚ませ。

このような極端な例以外にも、女性特有の「おじさんを可愛がる文化」が私は非常に許せない。

あれ冷静に考えて本当に奇妙なんだが、一体どういった仕組みなのだろうか?

ただただ我々より少し年を重ねているだけの枯れ果てたおじさんを、さもマスコットキャラクターかの様に扱い、自分の恋愛における甘やかしスキルや範囲の広さをアピールする。

おい、オジさんは近所の犬や猫じゃないぞ。


しかし実はオジさん側からしてもこれは非常に巧妙なトラップを仕掛けられている状態であり、ちょっとでも本気にしてアクションを起こしてしまえばセクハラ裁判まっしぐら、という誰も得しない生殺し具合である。

読者諸君、こんな文化を絶対に許してはならないぞ。

おっといけない。また発作がでてしまっていた。
(お前もう治す気無いだろ、という意見も受け付けない。)

とにかく私は、そんなヤツらに小粋な人付き合いスキルをさらっと見せつけ、同級生として舐められないようになりたいのだ。

世の中にこの同じ葛藤を持っている同士たちは中々多いらしい。
共に立ち向かおうでは無いか!

奴らが年上に求めているものは、主に

「金」「車」「余裕」

そしてそこから来る「癒し」だ。

……言語化しただけで既に心が折れそうだが、我々にはオジにはない、若さがある!!

それに「金」「車」はすぐにはどうにもならないにしても、「余裕」は努力で生み出せそうではないか!

「あ、自分何も気にしてないっすよ」
「別に周りの目とか、どうでもいいんで。」

これを醸し出す訓練をしようじゃないか!!



…その昔、高校時代に男女6人で猫カフェに行った事がある。

私含む男3人は当時からそれぞれバンドをやってた今でも仲の良いメンバーで、対する女の子達は当時ライブを見に来てくれたりもしていた同級くらいの子達だ。

当然後にも先にもこんなキラキラした経験は私には無いため、この青春すぎるシチュエーションをどうモノにするか考えた。

女子ーズはきゃっきゃと猫を愛で、私以外の男2人もハシャいでいた。

私はその時、まさに「余裕」で勝負に出ようと思ったのだ。

「いいハンターは、動物に好かれるんだ。」

HUNTER × HUNTERのカイトの台詞を胸に、窓辺の席でゆったりと寝ている猫をロックオンした私は、注文した暖かい紅茶を片手にその席へ腰掛けた。

皆がはしゃいでいる中、私は1人窓際で1匹の猫と静かにティータイムを嗜む。

それを見た5人は、
「あいついい雰囲気だなぁ、なんだか大人だなあ」と感心する。

そういった魂胆である。


がしかし、私はどうやら良いハンターでは無かったらしい

私が椅子に腰掛けた途端、猫は即座に飛び上がり場所を移動した。

そしてそれ以降、猫は愚か私に寄ってくる生き物は紅茶のおかわりを催促する店員のみであった。

勿論、この1連の様子を見ている者すらいない。

私は、
猫カフェでただゆっくり紅茶を啜る人
となったのであった。



同士の諸君、
見せかけの「余裕」は、「ただ相手にされない」と同義である

私の経験を元に、是非同じ失敗を繰り返さぬ様、見せかけではなく本当の「余裕」を持てるように共に頑張っていこう。

猫は、何不自由なき人生に、
余裕の表情と声色で「にゃー」と鳴いていた。


まだまだ中二病

26年培ったものを、すぐに変えることは難しい。

私を構成した様々な経験や出会った人たち、音楽、映画、本、それらに何ら不満は無い。

実の所、こんな自分が寧ろ嫌いじゃない所もある。

だからこそ人前に立ってバンドなぞやっているし、こうやってつらつらとどうでもいい事を綴っているのだ。

最後に私のバンド Sleeping Girlsの「フリージア」という曲の歌詞の一節を紹介したい。

無理に着るなよ派手な服
無理にきくなよ嫌な声
無理に言うなよそんな事
我慢すんなよデカイ音

なるべくこのまんまでいる事が大切で、
そいつを守る為に今日も俺達は戦ってる

何にも支配されず、自分を着飾らずに生きていける様にと、私は歌を歌っているのだ。

私を救ったロックンローラー達は、決して私を変えた訳では無い。
お前の気持ちわかるぜ、そのままで、その苦しみのままでいいんだぜと寄り添ってくれたのだ。

大好きな音楽や物書きで金が稼げるようになる為、今後も日々奮闘していく所存である。

だから、

俺たちまだまだ中二病、まだまだ偏屈野郎。

中二病で何が悪い!


……いや、やっぱりダメだろ!!!
変わりたいけど変われねぇ!畜生!

私はこれからも、葛藤している自分を人一倍愛し、そんな私の周りに居てくれる人を大切に思いながら、どうせこのまんま生きてくのである。


まだまだ旅の途中。
真人間への道のりは長い。

イケおじへの道のりも長い。
畜生。


#創作大賞2024 #エッセイ部門


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