ワインを「不味い」という時
世の中にダメなワインというものはない。個人の好き嫌いがあるだけだ
かつてのボスで、今でも尊敬するワインメーカーの言葉です。
この言葉を引かなくても、造り手へのリスペクトをもってワインを表現すればそこに「不味い」という言葉は存在しない、というのはよく言われることでもあります。ソムリエールの方はその最前線で、ワインを販売するために、消費者の方にワインを楽しんで頂くために、本当に気を使って頂いています。
彼らは1つのワインを表現するために、そのグラスの中に直接見て、嗅いで、味わって感じることのできるものだけではなく、時としてそのワインの背後にあるストーリーにまで目を向けています。その努力は本当に頭の下がるものです。
そしてその努力は、確実にワイン販売の面で大きな成果を実らせています。
ここで1つの記事を紹介させてください。
以前、「ナチュラルワインを買う理由」と題した記事を書いたことがあります。この記事はドイツのワイン関連雑誌に掲載された研究論文の内容を紹介したもので、その内容はタイトルからおわかりいただける通り、消費者がナチュラルワインを購入する動機について調査したものでした。
詳細は記事を読んでいただきたいのですが、内容をごく簡単にまとめると、ブラインドテイスティングでは「購入に値しない」と判断されたワインが、あるプロセスを踏むことで同一の被験者にとって「購入する」ワインになった、というものです。
この意思決定の変更を促したプロセスが、ワイン紹介者によるストーリーテリングだったのです。
この調査の結果から、ワインという嗜好品にとって如何にポジティブな印象が重要かがわかります。その印象は時として、ワインの本来の評価基準であるはずの「味」や「香り」を覆い隠し、自身の舌や鼻で直接感じたはずのものを正反対の位置に置き換えるほどの影響力を持ちます。
このように、「印象」というとても曖昧で不定形のものが消費者の購買行動に強烈な影響を与えるワインという商品において、その印象を最悪の場所までたった一言でいとも簡単に叩き落としてしまう「不味い」という表現は、ワインに携わる者にとって1つの禁忌とさえいえるものです。
仮に自分自身は「不味い」「美味しくない」と感じたワインがあったとしても、そのワインが他の人にとっては美味しいワインである可能性は常にあります。万人が揃いも揃って「不味い」という程の嗜好品というものは世の中にまず存在しません。そう断言してしまっていいと少なくとも私は思っています。
そこにあるのは、あくまでも個人の好みでしかないのです。
自分の好みに合うワインは美味しく感じられますし、合わないワインは美味しく感じられないということはとても普通のことです。
常に中立の立場に立って「評価する」ことを求められる立場にでもいない限りにおいては、これで問題もありません。自分の好みに合わず、美味しくもなく、飲んでいて楽しくもないものにわざわざ少なくないお金と時間を消費する、そんな無駄は美味しく楽しいものが身近に溢れている今の時代、まったく必要ありません。
ただ、「ああ、このワインは自分には合わないな」と結論づけて次のグラスに行けばいいだけのことです。わざわざ周りに「このグラスは不味いよ」と自分の趣味嗜好を大きな声で喧伝して回って、周囲にいる方々を不快にさせる必要もありません。
私は別にワインのことを不味いと思うな、と言っているわけではありません。好みの問題は横においても不味いと感じたものはやっぱり不味いでしょうし、それを思ってはいけない、などということはそれこそ嗜好品を楽しむことに対して不要な圧力をかけることにしかなりません。
ただ、隣で誰かが声高に「これ、不味い」と言っていたとしたら、それを聞いた貴方は全く違うグラスを持っていたとしてもなんとなく美味しく感じられなくなってしまうでしょう?
皆がそれぞれ個々に自分の時間とグラスを楽しんでいる空間に、わざわざネガティブな同調圧力を振りまく必要はない、と言っているだけです。
ここまで書いてきて、ワインを「不味い」と表現するタイミングは一般的には本当に少ないな、と思います。
それを踏まえた上で、それでも敢えて私は一人の醸造家として、プロフェッショナルとして、必要であれば言います。
このワインは不味い、と
私が口にしたワインを「不味い」と表現するのは極限られた場合のみです。その判断は個人の嗜好、つまり美味しい、美味しくないという判断にはよりません。私にとって「美味しくない」=「不味い」という関係は成り立っていません。ブドウの品種にもよりません。ワインの味にもよりません。ただ1つ、醸造面からくる失敗だけによっています。
そのグラスの中に、人為的な失敗を感じた場合のみ、私はそのワインを「不味い」と表現します。
この「人為的な失敗」というものにはいくつかのものを含みます。
いわゆるオフ・フレーバーと呼ばれるものも時として含みますが、それがフォックス・フレーバーのような品種由来のものであればそれは対象ではありません。逆に一部のペトロール香はそれが保管の状態の悪さに由来するものであれば、Rieslingだから仕方ない、とは考えません。それは失敗であり、ワインを「不味く」したものと考えます。
これ以外にも栽培管理に基づく失敗、収穫のタイミングの失敗、醗酵管理の失敗、衛生管理の失敗、SO2の扱いの失敗、、、ワインを「不味く」する要因というものは数多くあります。しかし同時に、これらの失敗はそれをポジティブに捉えれば絶好のストーリーになる要素でもあります。その「失敗」が「ストーリー」に昇華されたとき、その味はそのワインの個性となります。本来受け入れられなかったはずのものが「受け入れるに足る」ものに変化する瞬間です。
「失敗」というものは同時に、「不屈の闘い」であったり「苦労」であったり「努力」であったりします。これらの要素は仮にその行動が結果として報われなかったとしても、十分に美談となり得るのです。
私にとっては多くの場合、この「美談」が「不味い」ものとなります。
誰がなんと言おうと、どう表現しようと、造り手として見てそれが失敗であるならば、それはそれ以上の意味を持ちません。価値を持ちません。
確かに世の中にダメなワインはなく、個人の好き嫌いがあるだけで、私が価値を認めなかった、「不味い」と表現したワインを美味しいと受け入れられる方がいることは間違いがないのでしょう。その方にとっては、そのワインは紛れもなく美味しいワインなのだと思います。またその方にとって、私がお気に入りのワインを不味いと言うことは不愉快なことでしかないことも分かっています。
それでも私は、一人の造り手として、そのワインが失敗作であるならば「不味い」と言います。忖度もしませんし、空気を読むこともしません。
造り手はそこに明確な失敗があるのであれば、正しく批難されなければならないのです。
そして造り手が批難されるべきときに、それを端的に表現し、伝える方法こそが「あなたのこのワインは不味いよ」という一言だと、私は考えています。
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その他記事:Nagi's wineworld
タイトル画像:Silvija74によるPixabayからの画像を使用
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