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英語学習で感じる物足りなさの正体を自分なりに考えてみた

ニュージーランドワーホリに来て3ヶ月が過ぎた。良いことも悪いことも、ここでの生活からちょうど半分ずつもらっている。何もかもが新しいことばかりだ。自分の心が置いてけぼりにならないように、見落とされてしまいそうな気持ちがそのまま放られてしまわないように、たまにこんな風に文章を書きたいと思う。

英語学習に感じる得体の知れない「物足りなさ」


英語力の向上がワーホリの最大の目的だった。
英語環境で生きていくための最低限の英語力は身に付きつつあると感じる。もちろん、相手が私の英語力に合わせてくれているというのもあるだろう。仕事をしていて、自分がお客さんやスタッフさんに伝えたいことを英語で伝えることにあまり苦労しなくなってきている。簡単な雑談なら、あまり時間をかけずに言葉にすることができている。それってかなりの成長なのでは?!と思うと同時に、得体の知れない物足りなさをどこかで感じている自分がいる。この気持ちの正体は一体なんなんだ。まだ言葉になっていない気持ちたちを言語化してスッキリしたいと思う。

私が言葉を話すときに大切にしていること「心の深層を注意深く見つめる」

私が今感じている物足りなさを率直に表すならこんな感じ。
第二言語である英語を話している時、「表面にある事実(目に見えるもの・聴こえるもの・事象)を簡単な表現で述べることはある程度できる。しかし、心の2層目、3層目、それより下層の自分の気持ちや考えを話すことに難しさを感じている」。結果、相手との情緒的なつながりを十分に感じられず、満足のいかないコミュニケーションに陥っている。

なんだか難しいこと言っているように見える。でも、一番今の自分の気持ちに合っている。次の項目に例を挙げていきますね。

私にとっての英語学習。スキルの獲得、だけじゃないかも。


私は英語学習を始めた当初、語学学習とは生活を便利にするものであり、生産的な活動のために役立つものだと考えていた。人それぞれ学習のモチベーションは違う。本当に英語そのものが好きで学習する人もいれば、仕事や生活のために勉強する人もいる。ワーホリに来て、ビザ取得や進学・就職のために切実に英語力向上を望む人がこんなにも多くいるということも知った。英語学習と一口に言っても、その目的は多様であることを改めて感じた。
じゃあ私にとっての英語学習の目的は何か。当初の目的から大きく外れていることにこの文章を書きながら気づいている。
「言葉を通して人と情緒的な繋がりをもちたい」
これが私の語学学習の目的だと思う。

当たり前だけど、人は普段会話をする時、表面的な事実のみ述べているだけではない。情景の具体を描くために適した言葉を用いたり、自分の感情が最大限伝えられる表現を選びながら会話をしているはずだ。2つの例を示す。

・事実のみを伝えるための文章
「今日は彼女に素敵な花を買った。」

・事実+情景・感情・ストーリー
「仕事の帰りがけに花を買った。彼女との生活が始まって約1年、毎日が幸せに満ちている。なんでもない日だけれど、今日はミモザの花を彼女にプレゼントすることにした。ちょうどいい花瓶は家にあっただろうか。日の光をたっぷり浴びながらきらきら光る黄色を、君もきれいだと思ってくれるだろうか。」

え、良くないですか・・・?妄想膨らませ過ぎですか????私が英語で達成したいことは、この後者なんだと思う。(ハードル高過ぎ)

私は言葉を話すのがあまり得意ではない。得意ではないけど、多分こだわりのようなものがある。私は言葉を話したり文章を書いたりするとき、気持ちに焦点を当てることを好む傾向にある。この事実に対して自分はどう感じたか、気持ちはどのように動いたか、相手はどう考えているか、とか。

例えば職場で普段話さない子が話しかけてくれて、会話が弾んだとする。わたしはそこで「嬉しかった」だけの言葉で済ませるのが、なんだか勿体なく感じる。その子の行動の裏にある気持ちや、わたしはそのことによってどんなことを感じたのか、これからどんな風にその子との関係を築いていきたいのか、そこから得たものは何か、そこまで言葉にしたいと考えることがよくある。

以上の例え話から分かるように、わたしという人間は

「目に見えたもの・聞こえたもの+わたしの五感を通して映し出された心の景色」

これらを言葉にしたいと願う人間である。

母語だからこそこれがうまくできるが、これが英語になるとやっぱり難しい。不十分と感じる。だから私は、英語を話す時に何か物足りなさを感じていたんだ。英語という言語と私の感情の間には大きな距離があるように感じる。そして、十分でない言葉を相手にいくら伝えても、相手に届いていない感覚。情緒的な繋がりがいつまでも結ばれない感覚。

そんな人間なら日本語を極めたほうが良いのでは?


わたしのもやもやがやっと浮き彫りになってきた。ただ事実を伝えたいわけじゃない。わたしは、言葉を通して自分を表現したいと強く願う人間なんだと思う。じゃあ英語でそれを達成するために私がやるべきことは何か。もちろん英語を流暢に操ることがこの目標を達成することになるのだが、その道のりは長い。

そもそも私はどうして、英語にそこまでこだわっているのか。自分の気持ちを正確に表現することや、思考を膨らませるのにはやっぱり母語が1番手っ取り早いじゃないかとも思う。

それでも私が第二言語にこだわる理由は、もっともっと沢山の人と心を通わせたいからだと思う。私は幸いにも、日本にいる頃から海外から来た友達に恵まれていた。彼ら彼女らは日本語を、わたしは英語を勉強しており、幾分コミュニケーションが取りやすかった。もちろん、全ての気持ちを伝えられるわけじゃない。もどかしさを何度も感じた。それでも、伝えきれなかったはずの言葉を飛び越えて、その子たちの温かな人柄や魅力が伝わってきた。もっと一緒にいたい、仲良くなりたいと感じるようになった。

この子達とここまで深い繋がりを作ることができたのは、改めて考え直してみても言葉の力が大きかったと思う。お互いに理解できる言語を交えた会話だったからこそ、理解できる範囲がぐっと広がった。心の底にある気持ちを伝えることができていた。言葉は人と人を結ぶ。この子達との出会いがあったからこそ、私にとっての言語学習はツール的な意味を超えた。

英語とわたしの心の距離。ゼロにはならないとしても。


心の深層にあるものを掬って、その気持ちの正体を丁寧に見とる。その気持ちを大切に、選りすぐった言葉を紡ぐ。お料理みたいだね。
第二言語であれば、その行為は完璧なものにはきっとならない。「語学学習は一生かけても終わらない」と友人が話していたことがある。果てしない旅だ。わたしは呑気で辛いことが嫌いな人間なので、どうせ果てのない旅なら、いかにその旅を楽しむかに力を注ぎたい。
そしてここまで話してきたように、日本語で話す時と少しでも近い感覚で、英語でも心の深層の声を言葉にできるようになりたい。その延長線上に、様々な人との温かな繋がりがあることを願う。
これがわたしの英語学習の目標だ。

じゃあ、この感覚に近づけるために今の私にできることは何か。思った以上に長くなってしまったので、次の記事で書こうと思う。


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