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『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』映画の途中で冷めてしまった偏屈な私

2005年に公開された『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』から10年。新たなシリーズの公開が決定され、2015年から毎年1作ずつ、新作が公開された『スター・ウォーズ』シリーズ。本編3作、外伝2作が1年ごとに交互に公開され、2019年の『スカイウォーカーの夜明け』をもってシリーズは完結を迎えた。『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(以下『ローグ・ワン』)は、2016年に公開されたスター・ウォーズシリーズ初の外伝である。

これらの作品に対する私のスタンスは、こっちに書いた。簡単に言えば「商業作品なんだし、人気が出てファンが増えるのは嬉しい。何より映画館で見れるのは貴重な時間。クリエイターのみなさんありがとう!』である。

さて、『ローグ・ワン』についても基本的には同じスタンスである。だが正直なところ、私は5年経った今でも、映画館で作品をみている最中に、自分が「冷めて」しまった瞬間を覚えている。当時はこのように感想を文字に起こすということをしなかったので、久々にここに書いておきたい。もうそろそろ時効だろうし。

本作の背景

そもそも『ローグ・ワン』とはどのようなストーリーか。話は、1977年に公開された『エピソード4/新たなる希望』まで遡る。この映画のクライマックスにおいて、主人公のルーク・スカイウォーカーたちは、帝国の巨大要塞デス・スターの破壊に成功する。その要となったのが、デス・スターの設計図。物語の開始前、反乱軍のメンバーが決死の覚悟によって設計図を奪った、と語られる。その設計図がなければ、デス・スターの破壊は成らず、反乱軍もこの映画の時点で敗北していたはずである。

そのメンバーについては、物語の中でただ一言「戦死した」と言及されるに過ぎなかった。本作『ローグ・ワン』は、その戦死を遂げた名もなき反乱軍のメンバーに焦点をあて、設計図奪取の作戦を描いた物語、というわけ。

細かいストーリーを抜きにすると、物語の背景はこんなところであろう。これだけ知っていれば十分である。

私が冷めてしまったシーン

さて、そんな前提知識を元に映画を見始めた5年前の私。冒頭は確かにワクワクした。舞台は『新たなる希望』の直前。次の展開との整合性が取れた物語の進行に驚いたし、『新たなる希望』に登場する戦闘機、キャラクターなども随所に散りばめられ、新しいスター・ウォーズのあり方に素直に喜んだものだ。

だが、ある時点を境に一気に気持ちが冷めてしまった。それが、反乱軍側の主要人物、ソウの死の場面である。彼は反乱軍の中でも鼻つまみ者にされていた過激派であり、主人公ジンの一向に重要な情報を託す役回りであった。役目を果たした直後、帝国軍により彼の潜伏先は星ごと消滅させられる。両足が義足であり逃げ切ることが不可能であった彼は、反乱軍の未来をジンに託して星ごと消え去るのである。普通に見れば、歴戦の勇者の感動的な死、という場面である。

だが、私はこのシーンを見た時に思ってしまったのだ。「あ、これみんなこんな感じで、感動的な死が用意されるの?」と。自分でも偏屈であると改めて思う。

そもそも、この物語の登場人物の多くが死を迎えることは、物語の背景からも明らかである。前述した通り、この映画は本編との整合性も大切にしていた。この戦闘で活躍した英雄が生き残っているのなら、『新たなる希望』に登場しないというのは不自然だ。だからこそ、そのほとんどがこの映画の途中で死ぬことになる。それ自体に不満はない。だが、それらの死が感動的に描かれる、ということすら透けて見えてしまった瞬間に、私の気持ちが一気に冷めてしまったのだ。用意された感動は、残念ながら私にとってはつまらないものだった。多分、シリーズではなく単品で楽しむならこんな感想を持たないはずだし、もっと楽しめたのかもしれない。

そして実際、クライマックスにかけて、主人公たちは帝国軍に一矢報いて死んでいく。それぞれが己の役割を果たして退場していくのだ。単体で見れば絶望的で感動的なシーンのはずなのに、私はそれをどこか冷めた目で見てしまっていた。

『ローグ・ワン』の本質はクライマックスにあり!

私がこの映画で一番好きなシーンは、クライマックスのダース・ベイダーの登場シーンである。反乱軍の手に設計図が渡ったと気がついたダース・ベイダーは、その奪還を試みる。データが納められたディスクを持って出航しようとする反乱軍の兵士たち。彼らに迫り来るダース・ベイダー。出航準備の最中、暗闇の中に赤いライトセーバーが不気味に輝く。兵士の攻撃は全く意味をなさず無効化され、そればかりか彼らの武器すらもフォースによって奪われる。丸腰となった兵士をフォースで捻りあげるダース・ベイダー。それでも兵士たちは諦めず、手から手へそのディスクを「次の」兵士に手渡す。手渡した直後から兵士は生き絶えていくが、まさに間一髪、そのデータは出航する船へと回収され、反乱軍は設計図のデータと共に輸送船に乗って逃げおおせる。(エピソード4の冒頭は、この輸送船上の戦闘が舞台となっている)

ダース・ベイダーの悪役っぷりとそのかっこよさもさることながら、私はクライマックスにこのシーンをみながら「そう!これだよこれ!これが見たかったんだよ!」と一人興奮していた。本当に名前すら登場しない、このシーンにだけ登場した兵士たち。そんな彼らが、敵に一矢報いることすらできず、ただ次の兵士に「つなぐ」だけで、無意味に死んでいく。それでも、つないだ先に渡ったバトンがからくも敵の手をすり抜け、結果的に彼らの働きが世界の平和を創る礎となる。このシーンこそ、『ローグ・ワン』という映画が語るべきテーマを、最もよく表したシーンと言えないだろうか。

とはいえ、『ローグ・ワン』という映画そのものを、ダース・ベイダーや帝国軍の虐殺で2時間構成するわけにもいかない。流石にそんな映画は誰も望んでいないだろう(私だっていやだ)。だが、名もなき兵士たちにスポットを当てるなら、彼らの全てに英雄的で感動的な死を与えるのは、些か間違っているように思う。もっと無慈悲で唐突で、無意味な死と共に物語が進行しても良かったのではないか。そんな風に思ってしまうのは私だけだろうか。

だが、そんな展開を持たせた上で、物語を面白いものにするのは至難の業だ(だからこそ、作り手も観客も物語にヒーローを求めているのだろう)。そう考えると、『ローグ・ワン』がスター・ウォーズという看板を背負って映画化された以上、この展開は避けられないものだったのかもしれない。

文章に起こしていたら、またちょっと見直したくなってきた。

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