肯定の物語 『天気の子』
年明けにテレビ放送された新海誠監督のアニメ映画『天気の子』。録画しておいたものを先日、妻と見た。私は映画館に足を運んでいたのに対し、妻はこれが初めて。映画を見ながらも色々と話していたのだが、見終わった後に妻から出てきた感想にこのようなものがあった。
『帆高は最後まで成長しなかった』
私もこの感想に同意である。そしてこれこそが、この映画が他の物語と一線を画している理由であると思う。少しこのことに触れたい。
帆高とは、この映画の主人公である16歳の少年である。物語冒頭から、彼はわがままな若者、あるいは子供っぽい人間として描かれている。薄い計画性で東京へ家出し(家出の理由も定かではない)、自分の行いを棚にあげては、ことあるごとに「東京ってこえ〜」と呟く。彼が手にしていた小説“The Catcher in the Rye”も、そんな若者らしさの象徴であろう。挙げ句の果てには、道端で拾った拳銃を人に向けて発砲する。若者特有のきづらさが、かなり誇張されているのだ。
かといって、彼が物語を通じて成長するか、というとそうではない。クライマックスにかけて、彼は再度拳銃をぶっ放すし、ヒロインである陽菜にも
「世界なんか狂ったままでいい!青空よりも、俺は陽菜がいい!」
と叫ぶ。今までの物語であれば、主人公はそんな若さを克服し、大人になる、あるいは強くなる。そんな成長のストーリーとなることが多かった。しかし、彼はその様に成長しない。自分の取った行動に対する責任こそ自覚するものの、最後までそのわがままさを捨てることはしなかった。
最初にこの映画を見た時、かなり面食らってしまったことを覚えている。だが、最後まで見た時、これこそが新海誠監督が描きたかった物語ではないかと思うようになった。帆高の若さこそ肯定されるべき。この映画は、そんな思いを描いているのではないか、ということだ。
そもそも、新海誠の今までの映画の中にも、そんな「生きづらさ」を抱えている人々への優しさ、「そのままでいい」という肯定のメッセージが込められている。最たる例は、彼が描く街の風景の美しさである。彼は、あえて自然の美しさではなく、人々が生活する都市、生活の様子を美しく描くことに拘っている。これには、そんな人混みの中で「生きづらさ」を感じている人々に対して、「そのままでいい」という肯定のメッセージを込めている。
新海監督の言葉から浮かび上がるのは、これまでの作品でも描かれてきたいまを生きる人々のリアルな苦悩であり、閉塞感や孤独感だ。「(中略)そういうなんでもないような生活の片隅のようなものを美しいものとして日常をすくい取って映像の中で描いて、この世界を肯定したい、そんな気持ちがあって映像にし始めたようなことを覚えています」
『天気の子』という映画は、そんな肯定の思いを物語の中にまで昇華させた作品なのだと思う。だからこそ、帆高は最後まで成長しない若者のままで描かれるし、映画もまた、他の物語とは違った結末を迎えているのではないだろうか。