『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』のかゆいところ
来週、2/26(金)の金曜ロードSHOW!は、『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が放映される。
というわけで、今日はスターウォーズのお話。自分がシリーズに出会った頃に遡ると書くのが大変になってしまうので、今日は『スカイウォーカーの夜明け(以下、夜明け)』のかゆいところについて触れたい。
私の「完結3部作」に対するスタンス
その前に、そもそも「かゆいところ」という題にはしたが、私は完結3部作(エピソード7、8、9)を映画館で見れたことに満足している。どんなに思い入れがあっても、やはり商業作品。多くの人に楽しまれてこそ、新たなファンを獲得してこその映画である。完結3部作は映画の完成度だけでなく、ディズニーのプロモーション力も相まって多くのファンを獲得、『マンダロリアン』をはじめとした新たな物語を生み出すことにも成功している。何より、自分の好きなシリーズを映画館で見るというのは、長い人生の中で1、2度しか得られない貴重な機会である。関わった全てのクリエイターに対し、感謝の意を表したい。
だが、それと映画の感想とはまた別である笑。
レイの出生の秘密
前作の『最後のジェダイ(以下、最後)』にもかゆいところはあるのだが、私はその作品で描かれた新しいテーマには好感を持っていた。それは「古い物語から脱却し、新たな物語へ進んでいく」というテーマである。映画のラストに登場した、フォースを扱うなもなき少年(彼はどこへ……)などが象徴的だった。
そのテーマを最もよく表していたのが、主人公レイの親が「何者でもなかった(ただのゴミ漁りだった)」という真実である。フォースの申し子であるアナキン、その子供ルークとは対照的に、「何者でもないレイ」が新たな物語の主人公であるという真実は、過去からの脱却を表す上で非常に重要な要素であった。
だが、『夜明け』において明らかにされた「実はパルパティーンの孫」という設定は、その「過去からの脱却」を完璧に打ち壊してしまった。主人公が実は暗い運命を背負っている、というのは、物語のセオリーでもある。だが、せっかく『最後』でそれを否定していたのに。。。と考えてしまうのは私だけだろうか。
パルパティーンの復活
『最後』において「過去からの脱却」を象徴したもう一つのシーンは、ラスボス格であったスノークの退場である。彼は弟子であるカイロ・レンによって真っ二つにされる。かといってカイロ・レンが正義に目覚めたわけではない。あくまで己の目的に邪魔となったスノークを排除しただけ。明らかにパルパティーンを意識した造形であるスノークを、レイではなくカイロ・レンが葬ることで「過去からの脱却」を図り、レイとの「新たな因縁」に決着をつける戦いへと物語は移っていく(過去の英雄であるルークの死もまた、「過去からの脱却」を象徴している)。
だが、『夜明け』にてパルパティーンが復活してしまう。せっかく過去の呪縛から物語が解き放たれたはずなのに、パルパティーンにまで物語が逆行してしまう。確かに、カイロ・レンとレイに共通の敵を設けたことで、カイロ・レンの心の変遷はよりわかりやすくなったとも言える。だが、それはやはり『最後』で描かれたテーマと合致しない。
もう一つ、付け加えたいことがある。そもそも「死者の蘇生」というテーマは、エピソード3『シスの復讐』で描かれている。ポイントは、主人公アナキンが最愛の妻であるパドメの死、という未来に苦悩し、結果的に彼自身の行動が彼女を死に追いやるという「どうしようもなさ」にあった。死を恐れる心は、ダークサイドへの転落のきっかけとなる。その恐怖心から解放されることこそが、死の克服につながるという、一見すると残酷な真実を帯びている(シリーズにたびたび登場するゴーストも、フォースのライトサイドを極めた結果である)。だが、『夜明け』において、パルパティーンは結局その死の壁を超えてしまったのだ。しかも本人の力だけではなく、彼に傾倒するカルト教団の力を借りている。これではアナキンも浮かばれない。
フォースの解釈
『最後』あたりから、フォースの解釈がかなり広がっていったことも完結三部作の特徴である。レイとカイロ・レンの共鳴、ルークが作ってみせた己の幻影、『夜明け』においてはテレポーテーション(物体の瞬間移動)まで成功させている。解釈が広がっていくこと自体は私はそこまで否定しない。だが、なぜこのような演出が取り入れられたのだろう?と考えてしまう。
元々、スター・ウォーズの旧三部作(エピソード4、5、6)は、SF映画にオリエンタルな(東洋的な)雰囲気を内包させた作品であった。監督であるジョージ・ルーカスが、日本の黒澤明から多大な影響を受けていることはよく知られている。「ジェダイ」も日本の「時代劇」をもじったという話や、ヨーダのモデルも日本の大学教授であるという噂まである。そういったオリエンタルな要素が、スター・ウォーズ独特の世界観を生み出し世界でウケたというのが、人気の理由の一つとして考えられている。この要素は、新三部作(エピソード1、2、3)にも反映されている。
だが、時代は移り変わってしまった。グローバルな考え方が当たり前となった現代においては、単なるオリエンタルな要素だけでは、もはや当時の「得体の知れない魅力」を生み出すことができなくなってしまったのではないか。結果として、フォースの解釈が拡大され、魔術的な要素が強くなってしまったのではないだろうか。私はそう考えている。
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以上、私なりに考える『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』のかゆいところ、である。とは言いつつ、今度の金曜ロードSHOW!も録画をしてしっかり見るわけですが。