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執着しないという生き方。

「執着」という言葉があります。

仏教的には「物事に固執すること・とらわれること」

私にはこれまで命を懸けて、というのは言い過ぎかもしれませんが、一生懸命取り組んできたことがありました。

その活動で築いた経験も、キャリアも、人間関係も、全てが宝物で、私の現在を形作っているものです。

ですが、私は魂にはステージがあると考えています。

それぞれのステージで見えるものは違っていて、様々な経験を経て一つずつステージを上がっていく。

階段を登る時のように、同じものでも一段一段登るごとに見える景色は変わってくるのです。

それまで居心地が良かった場所に違和感を持ち始めた時、多分その時に私のステージは変わっていました。

けれど、宝物であるその場所が愛しくて、離れたくなくて、無理にでもつなぎ止めていたくて、その場所に止まっていました。

まさしく「執着」ですね。

それは、今から思えば苦しみでしかなかった。

そして私の苦しみが、きっと周りをも苦しめていた。

大好きなのに、愛があるのに、傷つけ合ってしまう。そしてまた苦しむ。

悪循環です。

でも、私がステージを上がるように、周りのステージも変わっているのです。

ずっと同じ場所で、同じ考え方でいられるわけは最初からなかったんです。

私はそれに気付いていなかったんですね。


そこから飛び出すと決めた日、

頭も痛いし、吐き気はするしで、体調は絶不調。

涙も止まらず、ずっと未練がましくメソメソしておりました。

けれど、ここままでは苦しいまま。

何より私が私をもっと嫌いになってしまいそう。

ただでさえ自己肯定感の低い人間なので、それは良くない。

だから、思い切ってステージを上がることを決めました。


ステージを上がって、少し時間が経って周りを見渡してみたら、

以前よりも過ごしやすい環境になっていました。

ステージを上がったからと言って、今まで築いてきたものが0になるわけではないですもんね。

あの時の私はそれに気づかなかったけれど。


これからもきっと「執着」や「我執」、「嫉妬」や「無力感」に囚われ苛まれモヤモヤすることも続くでしょう。

でも、この「乗り越えた経験」は、確実に私にプラスに働くと思っています。


人生、ままならないけれど。

そういう苦しみから少しでも距離を置くことができるようにするために。

それが仏教を学ぶ理由になってもいいのかな。

そう思うこの頃です。

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