死せる孔明、生ける仲達を走らす



『優れた人間は死んでも尚、生前の威風を備え生きている者を脅やかす』


私が『死せるお豆腐』という名で文を連ねるのは、この ''優れた人間'' で在りたいのかもしれない。




18歳を迎えた時、私は全てを手に入れてしまったような気がした。遠いと思っていたものはあっという間に通り過ぎ、そして虚無だけが残った。

このまま死んでもいい。

執着とか雑音とか生活とか人間とか、空っぽで薄っぺらい繋ぎを作る不器用で不格好な自分とか、そんなものからここで解放されるなら清々しいとさえ思った。

人生、18で死ねるのなら私は誰かを救えるのだろうか。若くして命を落とす人間は天才が多い、だなんてことを真に受け自分もそうであることをどこか願っていた。死んでも尚その名を轟かせ、あいつはよかった、と軽率に評価されたとしてもそれはそれでいいなと思った。


それでもそんなことを呆然と思っていた日々から3年、私はじんわりと着実に生きてしまっていた。自分の存在は曖昧なまま、何にもなれず、勿論死ぬことも出来ずに。空っぽだと思っていたものは案外、私を生かしてくれていた。

好きな漫画や小説が並ぶ本棚を眺めること。詞を書いて音を作って歌うこと。誰かが面白いとお勧めしていた映画を観ること。働いてお金を稼いで可愛い服を買うこと。その可愛い服を着てお出掛けをすること。好きな人と喋ること。お酒を飲むこと。美味しいご飯を食べること。


私が死なないのは、これらが延命行為となっていたからだった。





18歳からの卒業、19歳からの出発、そして19歳からの卒業、20歳からの出発、という意を込めて作った『19歳よ』という曲がある。

18歳ではなくなった私。20歳になる前の私。曖昧で居心地が悪いような、それでいて愛おしくて狂おしいような。そんな瞬間を愛でてあげる曲です。

どうせなら生きてみよう。惰性と希望を上手く共存させながら。そう考えられるようになってからは、いい意味で身勝手な期待をしなくなりちょっぴり優しくなれた気がする。そしてこの曲も自分で自分を肯定するために作ったようなもので、それこそ延命行為の一つであった。



死なない私が生きるのは、嫌いな自分や世界を好きになるため。好きなものが増えたらきっと、生き延びるのが楽しいかもね。


#死なない杯



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