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文学講座「川端康成作品のアダプテーションによる<再生>」受講のレポート
さる日曜日。戸田市立中央図書館の文学講座
「川端康成作品のアダプテーションによる<再生>」の第2回を
受講してきました。
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というのも、先日Twitter(X)で流れてきた講師の方ご本人の案内と編書から、どうやら講演内容に『文豪とアルケミスト(以下文アル)』が含まれるらしいと推察されたからです。しかも会場は埼玉。これは行くしか。
なお、この記事を書いているのは文アルの1ユーザーである一般人です。
また本記事内では敬称略とさせていただきます。
─概要─
2024年10月13日 14:00〜16:00
戸田市立中央図書館 視聴覚室
東北大学大学院准教授:仁平政人
第2回「キャラクター化する<川端康成>ー清家雪子作品を中心にー」
─**─
ちなみに戸田市の市民講座で川端康成が取り上げられるのは3年目のようでした。過去人気だったのでしょうか。
全4回の講座なのですが、今回は第2回のみの聴講です。(単体受講可能)。市外の人でもOKとのことでした。ありがたい。
前提
まず全講演を通してのタイトルとなっている「アダプテーション」とは? ですが、こちら最初に説明が入りました。直訳すると「翻案」となりますが、本来、”環境への適応”という意味があるそうです。
文学作品に当てはめる今回の場合は、本質を捉えた上で違うジャンルへ生まれ変わる、という事象を指すようです。例えで出されたのは、小説を映画化、舞台化する場合などでした。切り取り方は様々ですが、現代で言うメディアミックスもその一つになるのかなと思いました。
次にテーマについての用語と背景について。
○「キャラクター」とは
一般的にはフィクション、物語の登場人物を指すものとして用いられることが多い”キャラクター”という単語ですが、本来は「性格・特徴・人格」という意味があるそうです。最近では「キャラが濃い」「キャラを演じる」という使い方をされる場面もあり、本来の用語に戻ってきている面もあるのかも知れません。
説明としてこちらの本が引用。
また「キャラを立てる」という使い方をされることもありますが、これは「特徴を際立たせる」といった意味合いとして読み解けると説明。
ここで近年の「ゆるキャラ」という存在について言及されました。ゆるキャラは、前述用のようにフィクションや物語から生まれた存在というわけでもありません。いわば個別の作品から自立した「図像イメージと結びついた」”キャラクター”という存在です。
○文学者のキャラクター化
これ自体は昔からあることです。と、今回の題材である川端康成での事例が紹介されました。
1.似顔絵
→大正時代の雑誌『文藝時代』に掲載された「新進絵評判」という
須山計一による川端康成の似顔絵(デフォルメイラスト)。
2.作家自身による自己表現
→川端康成の実質デビュー作といわれている「招魂祭一景」に、「眼球の悪光りしている素的に耳の大きい鳥打帽の学生」という、川端自身による戯画的な自画像が書き込まれている。
ここまでが用語と事例の前提説明でした。
ここから、現代の川端康成の代表的なキャラクター化についての紹介になります。
①いがらしみきお『のぼるくんたち』 1992〜93年
この作品には”川馬鹿奴成先生”というキャラクターが純文学の高名な小説家として登場します。
・大きな耳と目、髪型など本人の外見特徴をふまえたデフォルメ。
・囲碁が趣味であること、ボケと老いが文学のテーマ(川端康成作品「山の音」のテーマと=)である。
これらを川端康成本人との類似点として指摘。
一方、暴力的でやかましいツッコミ役であり、本人とは差異もあるキャラクターにいじられ造形されているという差分もある点を挙げられました。
その他、同じく文学者自身をストレートにキャラクター化して描いた漫画として
・関川夏央/谷口ジロー「坊ちゃんの時代」
・香日ゆら「先生と僕」
を紹介。
また、川端康成が登場している作品として以下を挙げられました。
・松田奈緒子「えへん、龍之介。」
こちらに脇役として川端が登場。ただ丸顔の人物であり、特に特徴を捉えているわけではない…?とも
2000年代以降
そして、近代文学に新しい脚光が当たるようになった流れの解説となりました。
人気漫画家が近代文学小説の表紙を担当、文豪ブームとなる(2007年)
「人間失格」表紙:小畑健
「伊豆の踊子」表紙:荒木飛呂彦
これらを元にしたアニメ「青い文学」シリーズの制作(2009年)
2.小説家自体をキャラクター化した「文豪ストレイドッグス」が登場
(2013年)
ただ、ストーリーは文学とは無関係。名前と設定の一部が文学作品に基づいている。キャラクターを構築する上で”文豪の情報を使っている”、という作品。
残念ながら2024年現時点で川端はいない。とのこと。
そして2016年。
②『文豪とアルケミスト』DMM GAMES 2016年〜
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ゲーム概要と世界観のほか、2022年時点でユーザー数140万人、ノベライズ、アニメ化、舞台化もしている人気作品。実装文豪は現時点で90人ほど。と、文アルという作品を紹介。多くの近代作家がイケメンキャラになっている。マイナーな作家も多く含まれており、小中高で習う作家の数を超えていると説明されました。
そして文アルの特徴として、作家同士の関係性のエピソードという史実を重視している点について言及。
で「川端康成がいる!」「あまりにも美形」。
公式サイトの”川端康成”の設定文について「本人の情報としても、違っているところは殆どありません」。またゲーム自己紹介台詞の、目を合わせれば挨拶が〜についても、何も言わずじいっと見つめられて若い編集者が泣いてしまったというエピソードから、これも史実が元ではないかと推測。
「キャラデザインの白髪は、おそらく雪国のイメージでしょうか」「マフラーは横光とお揃いでコンビを表しているんですよ」等々、熱く語ってくださいました。
研究の視点からは、文アルの”川端康成”は外見的特徴(大耳、ギョロ目)はすべて無くし、代わりに本人の情報を大量に入れることでキャラクターを造形している、とのこと。
また、文豪とアルケミストという「文豪をキャラクター化した」作品自体について
・史実を元にしたキャラクターおよびゲームにすることで、文豪本人への関心、教養への欲望を刺激する。
・文学への新たな読者を育成する側面を持っている。
→文学への関心をゲームが作り出す
という影響を紹介。これについては、本ゲームのプロデューサー自身が開発意図としてそれを意識しているそうです、と過去に谷口Pが発言されていたことにも触れられました。
そして文アルというゲームが、実際に近代文学の分野に新たな関心を作り出している一例として、各地の文学館との積極的なタイアップについても紹介。
ここで、講師の方がご自身の所属である東北大の地元で、現在ちょうど開催されている文学館と文アルのタイアップ画像がスクリーンに表示。
そう、10月5日から始まっている仙台文学館さんのタイアップです。
タイアップにより、若い世代の来館者増加が実際に認められていることを、文豪キャラクター化による効果として触れられました。
一方、既存の来館者で違和感を感じ、どうかと思う人も居るだろう、という視点についても言及。
本来、作品あっての作家・文豪である筈なのに、文豪自身ををキャラクター化することで、作品を知らなくてもゲームを遊べてしまう。
→今「文豪」として扱われているのは何なのか?文豪本人にだけ関心を持たれてしまうのはどうなのか。
ここで次のテーマ「文豪のキャラクター化をどう考えるか」につながるものとして、文豪自身に己のキャラクター化を批評させている作品「月に吠えらんねえ」を紹介。3巻の石川啄木のシーンが資料として紹介されました。
いよいよ本講座のサブタイトルです。
③清家雪子「月に吠えらんねえ」 2013~2019年
https://afternoon.kodansha.co.jp/c/tsukihoe.html
(「たンねえ」についても、こちらの方が気楽に読めるかも、と紹介ありました)
まず、作者ご本人の背景として、もともと歴史研究方面へ進もうとしておられたこと、大学在学中に大学の本を全て読もうと思った、という発言を過去の雑誌対談記事から紹介。
「この方は登場する作家の全集を全て読んでいるそうです。私でも全部読んだと言える作家は3、4人。つまりそこらの研究者より余程しっかりしたアカデミックな基盤がある」と称賛。
らんねえの第1話1pの、萩原朔太郎全集から「朔くん」が飛び出してきた表現から、「月に吠えらんねえ」はこれまで紹介してきた文豪キャラクター化作品のように文豪本人ではなく、あくまで作品から生まれてきた存在であることが対照的であると指摘。
ここから、「らんねえ」作品自体の紹介に入っていきました。
ファンタジーの形を通して、近代史と戦争の関係を本格的に問う作品として、近代において詩歌が戦争イデオロギーを支えていた点を表現したシーン(5巻の、夢の中で朔くんとミヨシくんの会話)をクローズアップ。
「文学を愛しながら、文学の一番愛しにくい部分に向き合った作品です」とのこと。
そして本題である川端康成のキャラクター化「カワバタくん」について。
「月に吠えらんねえ」では、カワバタくんを主人公とした番外編の短編
(1)「造花」 (月に吠えらんねえ3巻)
(2)「スリーピング・ビューティー」 (月に吠えらんねえ3巻)
(3)「遺書」(↓こちらに寄稿された作品)
があります。
これらを1作品ずつ、講師の先生の解釈を交えて紹介されました。
(1)アララギ先生/モッさんに睡眠薬を求めるカワバタくんが、軍人(=三島由紀夫)の霊が見えると話している。
→□街は戦争期までの世界なので、時系列的には戦後の作家である三島を知らないはず。
だが川端康成自身は戦後まで活躍した作家である。つまり戦後の時代に向き合えず、過去の世界に暮らすことを選んだということ。一方で戦後を切り捨てるわけでもなく、眠ることで紛らわせようとしている態度が「直視するのではなく寄り添うことしかできない」という、作中でカワバタくんが語るような川端作品の特徴をうまく表現しているのではないか。
(2)代筆関係にあった作家たちが川端の夢の中に次々と現れる。
→川端康成「眠れる美女」「狂った一頁」からと思われる。
「ただ眠りたいだけ」であった川端を、周囲が日本文学の象徴として薔薇の花で飾り立て「美しい日本」として作り上げた構造を表現しているのではないか。
(3)
仁平政人先生原善先生編『〈転生〉する川端康成Ⅱ アダプテーションの諸相』(文学通信)に
— 月に吠えらんねえ&吠えたンねえ (@hoerannee) March 19, 2024
カワバタくんの漫画「遺書」を寄稿致しました。
百年後にカワバタくんの現代市を描きたいと言っていましたが、そのエッセンスを抽出したような短編です。
ぜひ読んでみてください!https://t.co/QalZ0MjxDp pic.twitter.com/JuWXhmRPUa
そして、ここで清家先生のこの投稿に言及。
ずっと思ってるんです
— 清家雪子@月に吠えたンねえ連載中 (@seikeyukiko) April 18, 2023
三島川端×戦後日本で月吠的なの描きたいって
でもあと百年は経たないとできないから百年後に生まれ変わったら描いてください私
かろうじて息してたひのもと日本の断末魔、文壇の終焉に学生運動を絡めて…百年後に会いましょう… pic.twitter.com/LBpWtwO0bd
「あと百年は経たないとできない」というのは、存命関係者も多く、ファンタジーに再解釈し直すにはあまりに時代が近すぎるのだろうと推測。でも本音としては「百年を待たずに描いて欲しいですね!」。
はい。もはや完全に講師の先生による推し作品レビューになっていました。
第一人者による熱い語り、みんな大好き。私も大好き。いやまさかこの熱量を喰らうとは思いませんでしたけれども!
まとめ
●文豪のキャラクター化は、もはや一過性のブームではなく、今日的な文学受容の形として、一ジャンルとして定着したと言える。
●キャラクター化を通した新たな批評的表現としての可能性も有している。
とのことでした。
なお講師の先生は横光利一学会にも所属しており、近年、文アルをきっかけとして若手研究者が入ってきた事例を紹介。研究する側にまで波及している影響の大きさに驚いたとのことです。
その後、質問時間での応答として
・現在のメディア、文豪のキャラクター化のブーム自体を研究している人も数は少ないが居ます。特に、大木志門さんという徳田秋声の研究家の方がいます。
・文アルのようなキャラクター化によって、作家本人の解釈が変わることはない。新しく広がる歴史解釈の土台としてある、かも?(疑問符)
以上でした。
──2024/10/25追記──
こちらのノートは個人の受講記録であり、聞き間違いや聞き落とし、解釈間違いが含まれている可能性があります。
内容に明らかな間違い等ございましたら、ご指摘いただけますと幸いです。
──追記ここまで──
以下は個人的な感想です。
いや。完全に油断してました。
正直、こんな濃厚なこっちサイド(どこ)に踏み込んだ内容が来るとは思っていなかったです。次々に繰り出されるジャンル内でとても聞き覚えのある単語に、そこまで言う??と文アル目的で来た聴講者としては呆気に取られたりなんだり。
なんというか。これがタイアップ期間中の文学館での講座だったら、ただキャッキャして受け止めたと思うんですが。予想外すぎて動揺の方が大きかった。私は、シンプルなテクスチャと文字で構成された文アルの気配などポスターのどこにもない、埼玉のいち市民講座を受講していたはずでは…?いや、良い意味で楽しかったですけれども。
そして文アル以上に、先生の「月に吠えらんねえ」愛が迸っていました。後半たぶん30分くらい、あれは熱い推し語りだったと思う。少なくとも聴講してる側としてはそういうパッションを受け止めてる状態でした。
懸念としては、後ろの座席の方が「何言ってるのかわからない……」と途中で呟いておられたのが聞こえたことでした。おそらく世代からして、所謂「市民講座」を受講しにきておられたのだろう、という人。講演の中で先生ご自身が指摘されていた「違和感を感じ、どうかと思う人も居る」がまさにここでも起きているかも…と。ちょっとハラハラしたり。
一方で、講座終了後に先生へ話しかけに行っていたのは、洩れ聞こえた単語によると文アル、文ストが好きな留学生の方々のようでした。
小規模ながら、演題の縮図が垣間見えた講座でした。
というわけで、今手元にある、講演された先生の編書です。
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おしまい。