親知らずを抜いて、首相が辞めた金曜の午後。
舌が痺れている。唇も右半分には感覚がない。麻酔が効いている。
「目を瞑っててね~」。外科医の先生の言葉に素直に従う。20年以上も前から通っている歯医者だから、「ちゃん」付けで呼ばれるし未だに子ども扱いをされるのがくすぐったい。
口を開けてあとは委ねる。見るのも怖いような器具が目の前を通るのだろうが、見なければ怖くない。知らなくても良いことは知らないに限る。
4本目の親知らずを抜いた。奥歯に向かって斜めに生え、歯茎の下に埋まったまま出てくる気配のなかったそいつは、素直に出てきた最初の3本よりも先生たちを手こずらせた。
しっかりと念入りに麻酔を打たれた私は、「ちょっと難しいねー」とか「ここ吸引して」などと頭の上で聞こえる言葉たちのことをなるべく考えないようにする。自分の口の中はグロテスクなことになっているのだろうけど、それも知らないに越したことはない。
ただ、時折り聞こえるウィーーーンという不快な音と、ぐっと押されるときに麻酔を通り抜けてくる鈍い痛みに耐えた。
「はい、お疲れ様」。縫合も終わって声をかけられる。うがいをすると赤い水が流れていった。血が止まるまで布のようなものを噛まされ、しばらく時間を過ごす。
持ち帰りを断った私の親知らずは、きれいに四分割されて取り出されていた。素人目にも大きくて立派な、さっきまで私の歯茎の中に埋まっていた歯。20分ほどかけて取り除かれ、少し先にはごみ箱の中にいる、私の一部。
日傘を差して駅に向かう。平日の午後は人が少ない。
本屋に寄って何かを買おうと思ったけれど、麻酔のせいか頭がぼうっとしてやめた。口の右半分にはまだ感覚がない。口の閉じ方が変になっている気がして、マスクをしていて良かったと思った。
帰りの電車で「安倍首相、辞意表明」のニュースを知る。
どんなに長く続いた政権もいつかは終わる。どのような終わり方になるのだろう、と想像したことはあったけれど、思ったよりあっけないなと思った。
7年8か月前と言ったら私はまだ高校生だ。受験勉強に明け暮れていた年末だったし、世の中のことに大して興味を持っていなかったので「政権交代」も「安倍首相返り咲き」も聞き流していた。そんなことよりも年明けに迫った入試に向け、少しでも多くの過去問を解くことの方が圧倒的に大事だった。
私は親も周りの人たちもいわゆる「左寄り」の考え方で、安倍首相には反対の立場だったし私も影響されてきた。
大学で色々とモノを考えるようになって、「左」とか「右」って決めてかかって思考停止するのって良くないよなあと思ったり、このニュースにはどういう意味があるんだろう、と考えたり。それまで当たり前だと思っていたいろんなことを疑って、考える時間があった。
その時期にも、常に安倍政権は続いていた。いろんな疑惑や批判があっても取って代わる誰かはいなくて、気づけば長期安定政権と言われるまでになっていた。
若い世代には、安倍さんしか首相を知らないという人も多いのだろう。いずれにしても大きな節目だ。
歯医者に行くために有休を取っていたのを良いことに、さっさと帰宅してパソコンを開いた。YouTubeのTBSチャンネルで会見を中継していた。
ちょっと元気がないなと思ったけれど、いつも見ている安倍首相だった。体調が悪くて辞めるのに、何十分も立ったまま話をしていることが気になった。座ると「態度が悪い」と批判する人がいるのだろうか。それとも、座らなければいけないほどの状態と思われたくないのだろうか。いずれにしても心配が先に立って話の内容があまり入ってこない。
政権としての成果は国民の皆さんが判断する、と何度か繰り返していた。「国民の皆さん」の声ってどうやって拾うんだろうな、とふと思った。選挙だろうか。ネット上の書き込みだろうか。街頭でのデモだろうか。いずれにしても出てくる声は偏っている。質疑応答を聞いていてももやもやが残った。
痛み止めは切れたけれど、たいして痛みはやってこなかった。ただ、口の中に無視しがたい不快感が残った。もう何日かは続くだろう。
「これで一生、親知らずの苦労からは解放されたね♪」
親知らずには苦労した母が、軽やかにラインを送ってくる。
悪い種を早めに取り除いて、心配事を少なくして生きていく。
堅実な賢さが、少しつまらない。