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【3】絶望と希望
「少林寺拳法部へ入りたいんだ!」
両親に少林寺拳法部の話をすると、二人とも驚いていました。息子が運動系の部活を選ぶとは思っていなかった様子です。そもそも「少林寺拳法」がどんなものか、イメージがついていないようです。
「少林寺拳法は合気道と同じ護身術で、青少年を育成するための武道なんだよ!」
体験入部で先輩から聞いたことをそのまま熱弁しました。最終的に両親は、「息子が武道をするのは怖いけど、買う物が道着だけなら安上がりでいいかもね。勉強もちゃんとするんだよ」と渋々承諾してくれました。
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親の許可を得て、体験入部の最終日にまっつんと一緒に入部届を提出しました。毎日顔を合わせていたチュピくんともすっかり顔見知りになっています。
「これから僕のさわやかな青春が始まるんだ!」
週明けの授業中、楽しい中学生ライフを想像してワクワクが止まりません。「早く道着を着てみたいな」「何人くらい入部するんだろう?」と少林寺拳法部に期待に胸を膨らませていました。
「入部おめでとう!大きい声で自己紹介して!」
初練習は自己紹介から始まりました。入部者は僕とまっつん、チュピくんの三人だけでした。もっと多いと思っていたので少し驚きました。名前と入部動機を順番に発表します。僕は「仮入部が楽しかったから」、まっつんは「親に武道を勧められたから」とそれぞれ答えました。
そして最後にチュピくん。彼の入部理由に、全員が注目しました。今日もサイズの合っていない小さいジャージ、ボサボサな髪と整った顔、一年生の中で桁違いの存在感を放っています。
「警察官になるためです!」
チュピくんの入部理由は、警察官を目指すというシンプルなものでした。彼の志に僕は素直に感心しました。ですが、まっつんは小声で「…あいつが一番シャバにいたらダメだろ」とつぶやいていました。
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入部動機も性格も全然違う三人ですが、スポーツ経験がないという共通点がありました。身長では負けていても、武道家としてのスタートラインが一緒であることが素直に嬉しかったです。
「アップで走り込みに行くぞ!」
自己紹介が終わると、すぐに練習が始まります。体験入部の時は走らなかったので「え?走るの?」と戸惑いましたが、頑張るしかありません。
裸足のまま外に出て二列縦隊で並ぶと、中学校の校舎の周りを走り始めました。
「左、左、左、右!」
先輩が大きな声で叫びます。一年生は驚き、何をどうすればよいのかわかりません。裸足でコンクリートを走るたびに足が痛むうえ、いつ終わるとも知れない走り込みに疲弊していきます。
「おら!一年声出せよ!」
先輩から怒鳴られました。体験入部の時とは、全くの別人な態度に驚き、恐れおののきました。まっつんとチュピくんも必死に叫んでいます。軽いウォーミングアップかと思いきや、一向に止まる気配がありません。一周四百メートル程度の中学校舎を五周した頃、僕は限界を感じていました。
「練習、練習、また練習!雨が降ってもまた練習!」
大きな声で掛け声を叫びながら走るので、呼吸がうまくできません。横っ腹に痛みを感じ、気持ちに足がついてきません。足の裏はコンクリートのせいで、痛みを通り越して感覚がなくなってきました。
「すいません・・・気分が・・・」
まっつんは走り込みの途中で吐いてしまい、早退することになりました。
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一緒に頑張っていたまっつんが脱落したことで、心細さが増します。「この苦しみから逃げられて羨ましい」とさえ思いました。僕はだんだんと失速して列から遅れていきます。しかし、完走するまで休むことは許されません。結局、先輩に付き添われて二週遅れで走り切りました。身体の大きなチュピくんでさえ、一週遅れで「ひゅー、ひゅー」と苦しそうに呼吸していました。
「いいか!体験は"お客様"!入部したら”部員”だ!」
先輩の一言に心が折れそうになりました。想像していた青春とはかけ離れた、厳しい縦社会を肌で感じました。入部前後の大きなギャップに苦しみます。
「次はダッシュだ!」
「まだ走るのか・・・」と落ち込みました。引き続き、裸足で中学校舎の周りをダッシュします。足に力が入らず、とても先輩たちにはついていけません。それでも無我夢中で身体を動かしました。半泣きだったと思います。
「次は筋トレだ!拳立てからいくぞ!」
一時間の走り込みが終わると筋トレが始まりました。『拳立て(けんたて』とは、腕立て伏せの手を拳に変えて行うものです。それは恐ろしい光景でした。初めて見たときは「こんな悪魔のような訓練が存在するのか…」と震えあがりました。
拳立ては、練習以外でもペナルティとして課せられることが多いです。小さなミスや先輩への無礼などの理由で、拳立てイベントはしょっちゅう発生します。
「最後までしっかり身体をおろせ!」
人生初の拳立ては、コンクリートの上でした。拳は痛みでガクガクし、腕は自分の体重によりプルプルしてきます。そもそも、僕は腕立て伏せすらできなかったので、拳立てはあまりにもキツすぎました。先輩たちは涼しい顔をしていて超人に見えました。途中で倒れて身体が地面についても、決められた回数を終えるまで解放されませんでした。
拳立ての後も、腹筋やスクワットや逆立ちなどトレーニングが続きます。もう、考える力もありません。
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「ファイトー!がんばれー!」
練習中は自分の番以外も大きな声でほかの部員を応援します。喉を休める暇もなく、あっという間に声が枯れていきます。
「次は技術練習いくぞ!」
「やっと少林寺拳法が教われるんだ!」と気持ちが少しだけ明るくなりました。少林寺拳法の基本的な突きと受けを学びます。チュピくんとペアを組み、片方が突きを出し、もう片方が受ける練習です。
身長差があるので、チュピくんの顔へ突きを出すのは大変でした。お互い相手に気を使って、自然と寸止めで練習していました。寸止めであっても、自分の顔にチュピくんの大きな拳が向かってくるのは非常に恐ろしい光景でした。
「ぬるいことやってんじゃねーよ!殺す気でいけ!」
寸止めは先輩にすぐにバレて注意されました。物騒な言葉に「少林寺拳法は護身術では?」と心の中で思いました。そして、この一言がチュピくんを変えてしまったのです
「ぎいいいやあああああああああ!!!!」
奇声を上げながら、打ち抜くように繰り出した鋭い突きが、僕のあご先をかすめました。まるで大山が崩れ落ちてきたかのようなチュピくんの一撃の激しさに、血の気が引いていくのを感じました。
「こ・・・殺されるッッ!!」
チュピくんは先輩の言葉を真に受けて、飢えた野獣のような目で突きを出すようになりました。僕の息の根をとめるつもりでしょうか。
練習の緊張感が一気に増しました。身長差で、彼の突きは打ち下すように迫ってきます。一発一発に気迫がこもっており、冷や汗が止まりません。
「追い込み!ミットいくぞ!」
技術練習が終わり、部活動終了まで残り三十分になるとキックミットでの練習になりました。
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ペアで突きと蹴りを何セットも繰り返します。体験入部で使った大きなミットよりも固くて痛いです。素手と素足なので、拳も足も痛くて仕方ありません。
チュピくんは力が強いので、蹴りを受けると吹き飛ばされてしまい、ミットを持つだけで大変でした。
「正面に礼ッ!」
十九時にようやく練習が終わりました。整列をして終了の礼を行います。「やっと終わった・・・」と僕は涙が出そうでした。三時間半の練習のうち、大部分が走りや筋トレでした。
「おら!一年働け!」
練習後も、先輩に飲み物を出したり、掃除をしたりと大忙しです。初めての雑用を中学二年生の先輩に教わりながらこなします。拳立ての疲労で、雑巾を絞る手が震えていました。楽しかった体験入部はまるで幻のようです。
「明日から一年も朝練参加だ!六時半に来て準備しろ!」
先輩はそう言うと帰っていきました。想像していた、さわやかな青い春はドス黒い春へとその色を変えました。
「これが…絶望なのか…」
通常の練習にも全くついていけていないのに、朝練も加わるということに心底絶望しました。
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これからの学校生活、ハードな練習と先輩に怯える生活が続くのかと思うと気が狂いそうでした。
辞めることを考えましたが、「辞めると言ったら、先輩にどんな目に合わされるのだろうか?」、「辞めたら引け目を感じて学校生活を送ることになるのでは?」とネガティブなイメージが次から次へと湧いてきます。
心も身体も完全に打ちのめされて、暗澹たる気分になりました。
「僕には無理だよ…辞めたいよ…」
帰り道、泣きながら弱々しい声でチュピくんへ言いました。二人とも全身ボロボロで、歩くペースもゆっくりになっていました。
チュピくんは、すぐに返事をしません。彼の拳も皮がめくれて赤くなってます。少し間を取ってから、足を止めると口を開きました。
「なぁ武田、ワクワクしてこねぇーか?」
彼はドラマのワンシーンのように、もったいぶった調子で、抑揚をつけながらささやきました。予想外の彼の発言に、「この人は何を言っているのだろうか?」と戸惑いました。
「俺たちさ、この厳しい練習を乗り越えたら、どれだけ強くなっちまうのかなぁ!」
大きな夜の空を見上げるように彼は言いました。綺麗な星空でも見ているかのように瞳はキラキラと輝いています。表情も活き活きとしていました。
僕は死んだ魚のような瞳で空を見上げます。真っ暗な空しか見えません。星が見える夜だったら、北斗七星の傍らに小さな「死兆星」が見えたことでしょう。
”この人は本物だ、僕の常識じゃ測れない”
同じように厳しい経験をしたにも関わらず、僕は絶望に打ちひしがれ、彼は希望に満ち溢れていました。