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【2】弱肉強食と本当の強さ
「アイツ…ヤバかったな」
少林寺拳法部の体験が終わり、帰り道でまっつんとチュピくんについて話していました。まっつんによると、彼は隣のクラスの生徒で「チュピくん」と呼ばれているそうです。ただ、ユニークなニックネームの由来は彼も知らないとのこと。
もし僕の人生にターニングポイントがあるとしたら、今日、少林寺拳法部とチュピくんに出会ったことはその一つに違いありません。
「少林寺拳法は凄い!」
帰宅後、制服を脱いでも興奮は冷めませんでした。教わった回し蹴りを鏡の前で繰り返し練習し、自分がいつもより強くなった気がしました。
「俺は少林寺拳法部に入部するよ!」
翌日、まっつんと話すと、彼も入部を決めたようです。「囲碁部で神の一手を極めるのも捨てがたいけどね!」と冗談を言いながら笑っていました。僕も入部に心が傾きましたが、「本当に続けられるのか?」という不安もあり、体験期間を全て少林寺拳法部に使って判断することにしました。
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放課後、ジャージに着替えて体育館に向かう道すがら、「チュピくんも来るかな?」と少し気になっていました。
「おっ、また来てくれたんだね!」
体育館に着くと先輩が声をかけてくれました。名前も知らない僕を覚えてくれていることが嬉しく、この部活での未来に期待が膨らみます。その日も新入生は数名いましたが、昨日も来ていたのは僕たちだけ。チュピくんの姿はありませんでした。
「少林寺拳法は護身術なんです!」
その日は柔法の「逆小手」という技を教わりました。これは相手に掴まれた時の対処法で、「剛柔一体」の理念が体現された技です。剛法(打撃)と柔法(関節技など)を組み合わせることで、効果が倍増すると先輩が説明してくれました。先輩が見せた技のデモンストレーションでは、小柄な女性が大柄な男性を簡単に倒しました。その光景は僕にとって驚きで、夢でもあるものでした。
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手品のようで、「おぉ!」と声が出ました。小さい人が大きい人を倒す光景に胸が躍ります。僕は身長140㎝で背の順は一番前。護身術のコンセプトである「人を傷つけるためではなく、不正な暴力から自分や他人を守る」は、小さな自分にピッタリだと思いました。
「押忍ッッ!!!!!!」
突然、体育館の入口から聞き覚えのある大きな声が響きました。そこにはチュピくんがサイズの合っていないジャージ姿で立っています。彼の小さすぎるジャージは腹部のインナーが見え、ズボンは足首が丸見えでした。幸いなことに、顔にアザなどの傷跡はありませんでした。
先輩たちは彼の登場に唖然としていましたが、当の本人は「なんで注目されているんだろう?」と不思議そうです。
「二人組で逆小手を実践してみよう!」
チュピくんが合流して体験は進みます。逆小手は、腕を掴まれたときに対処する基本的な技です。新入生はペアで練習します。その隣で先輩が見守っています。
僕はまっつんと練習を開始しました。腕を掴まれたら、最初に『鈎手守法(かぎてしゅほう)』という手をパーにして肘を脇に付ける動作で態勢を安定させます。この技だけでも、相手へ抵抗する力が強くなるので驚きました。そして、相手の手首を掴んで肘を相手へぶつけるように腕を捻って床へ倒します。
「いたッ!」
そんなに力を込めていないのに、まっつんは痛そうです。自分よりも身体の大きいまっつんに技を極められたことで、「少林寺拳法はやっぱり凄い!これを学べば強くなれる!」と期待がさらに高まります。
「攻守交替!」
次は、攻守交替で僕がまっつんの腕を掴みます。相手に鈎手守法をされると、うまく引っ張ることができません。また、逆小手を極められると想像以上に腕が痛くてビックリしました。
「次は相手を変えてやってみよう!」
ペアを変えながら実践は続きます。先輩に教わった通りに身体を動かすと、相手を変えても技を極めることができて手応えを覚えました。
「大きいなぁ…」
チュピくんとペアを組む順番が回ってきました。彼の178cmという大柄な体と向かい合うと、まるで壁のようでした。しかし、僕は逆小手を習ったばかりで気が大きくなり、「この巨人を倒してやる!」という気持ちで臨みました。
これが彼との初めての交流でした。変な人という印象が強かったのですが、近くで見ると顔は整っていて、ジャニーズにいそうな雰囲気でした。こういう顔が女の子にモテるんだろうなと思いました。
「はじめッ!」
腕を掴まれると、教わった通り鈎手守法で防御しましたが、彼の腕力に引きずられるように動いてしまいました。その後、何度も挑戦しましたが、逆小手を決めることはできませんでした。彼の大きな手で引っ張られると簡単に身体ごと持っていかれてしまいます。三十分前に教わった付け焼刃の護身術は、圧倒的な力の前ではあまりにも無力でした。
「攻守交替!」
先程の悔しさもあったので、彼の腕を全力で引っ張りました。しかし、びくともしません。むしろ引っ張っていた僕の方が逆に引き寄せられてしまいました。
「両手で引っ張ってごらん!」
先輩からの提案で彼の腕を両手で挑みました。綱引きのように腰を落として全身で引いても全く動きません。まるで、素手で大木を倒そうとしているかのような無力感です。
彼は細身でしたが、僕が非力なためか、凄まじいパワーを感じました。自然界では大きい生き物が小さい生き物を捕食します。僕は自然界なら捕食される側なんだと思い知らされました。ボクシングがどうして体重によって階級を分けているのかを身体で理解した気がします。
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「負けたと思わない限り負けではない。君が諦めなければ、これから強くなれるよ!」
呆然とする僕に、先輩が声をかけてくれました。人の価値は一時的な敗北や失敗ではなく、その敗北や失敗から起きあがれるかどうかによって決まるという少林寺拳法の教えだそうです。
少林寺拳法では”本当の強さ”を追求しています。相手をねじ伏せる力ではなく、身体を鍛えると共に、困難にくじけない『不撓不屈(ふとうふくつ)の精神』を養うのです。僕はその道の入口に立っているのだと感じました。
「チュピくんに勝てるぐらい強い男になりたい!」
新たな目標が芽生えました。この日、チュピくんから弱肉強食という自然界の厳しさを、先輩からは本当の強さを教わったのでした。この時は、これから訪れる厳しい鍛錬の日々をまだ知る由もありませんでした…