黒船の軍楽隊 その18
1854年(嘉永7年)1855年(安政元年)の米英露3カ国との和親条約締結は、外国船来航の活発化につながり、諸外国との通商条約締結につながりました。
ペリー以外の記録 – 8 (仏蘭西)
日米和親条約で開港された函館港を1855年と1856年に利用した外国軍艦の記録が箱館市史に(整理漏れがあるという前提で)記されています。
1855年と1856年に函館港を訪れた外国軍艦
1854年3月に条約締結のアメリカ軍艦が4艦、同じ1854年10月のイギリス軍艦が13艦、1855年2月のロシア軍艦が2艦、1856年1月のオランダ軍艦が1艦、そして条約は締結していないフランスの軍艦が3艦の合わせて23艦が函館に来航しています。それぞれの船の規模によっては、軍楽隊が乗船していたのではと思われます。
軍楽隊が乗船している船はどれ ?
「黒船の軍楽隊」の記事を書いてくる中で軍楽隊が乗船していたと思われるのが8艦あります。それぞれの乗員数は、阿蘭陀コープスのパレンバン号(Palembang)は不明、亜墨利加ペリーのミシシッピー号(Mississippi)は260名、ポーハタン号(Pawhatan)は289名、サスケハナ号(Susquehanna)は300名、サラトガ号(Saratoga)は260人、マセドニアン号(Macedonian)は489人、魯西亜レザノフのナジェージダ号76名、魯西亜プチャーチンのディアナ号は500名と言われます。
【仮説】
200名を超える乗員の船には軍楽隊が編成されている。
1855年と1856年に函館港を訪れたアメリカ軍艦(4艦)
ヴィンセンス号(Vincennes)乗員180名、ハンコック号(Hancock) 乗員80名、クーパー号(Cooper?)乗員25名、不明1号(不詳) 不明2号(不詳)
どの船も乗員数が200名に満たないので、軍楽隊は乗船していなかったと推察します。
1855年と1856年に函館港を訪れたイギリス軍艦(13艦)
ナンキン号(Nankin)乗員500名、ウィンチェスター号(Winchester)乗員450名、シビル号(Sybille)乗員350名、ピック(Pick?) 乗員310名、エンカウンター号(Encounter) 乗員250名、スパータン号(Spartan) 乗員250名、ホルネット(Hornet)乗員160名、スチックス号(Sphinx?) 乗員160名、ビッターン号(Bittern)乗員120名、バラコータ号(Barracouta)乗員100名、ターター号(Tartar)乗員46名、サラセン号(Saracen) 乗員44名、不明(?)
ナンキン号、ウィンチェスター号、シビル号、ピック号、エンカウンター号、スパータン号の6艦に軍楽隊が乗船していたのではないだろうかと推察します。
なお、1859年(安政6年)のことですが箱館にイギリス領事館が開設された際には、イギリス軍楽隊により《アニー・ローリー》他3曲が演奏されたとのことです。
1855年と1856年に函館港を訪れた魯西亜軍艦(2艦)
オリブーツァ号(Орибуца?)乗員?名、ヘダ号(Хеда)乗員60名
ヘダ号は船を失ったプチャーチンが帰国するために戸田村でロシア船に保管されていた設計図に基づいて造船された船です。下図は実際の大きさよりも随分小さく描かれています。
鼓手が乗っていた可能性があるかと推察します。
1855年と1856年に函館港を訪れたオランダ軍艦(1艦)
メデュサ号(Medusa)乗員250名
軍楽隊が乗船していた可能性は高いように思いますが、その記録を見つけることはできません。
1855年と1856年に函館港を訪れたフランス軍艦(3艦)
ウイルジニー号(Virginie)乗員470(550)名、シビル号(Sybille)乗員462名、コンスタンチーヌ号(Constantin)乗員260名
乗員数からどの軍艦にも軍楽隊が乗船していたのではと推察しますが、乗員の病人対応が必要な状況でした。
仏蘭西軍艦の特別な話
1858年10月9日(安政5年9月3日)に日仏修好通商条約が結ばれるまで、日本とフランスの間には条約が結ばれていませんでしたが、フランスの軍艦シビル号は、長崎からサハリンに向かう途中で病人(壊血病・脚気等)が続出し、函館港に入港し病人の療養を求め、それが許されました。
フランスの3艦は6月上旬から9月の下旬までの期間、カムチャッカや千島の情報収集の合間に、ヴィルジニー号とコンスタンチヌ号の病人対応も必要になり箱館に滞在しました。
亀田は入江の向う岸、下図の中心に描かれた場所です。
他の黒船の軍楽隊シリーズ
黒船の軍楽隊 その1 黒船とペリー来航
黒船の軍楽隊 その2 琉球王国訪問が先
黒船の軍楽隊 その3 半年前倒しで来航
黒船の軍楽隊 その4 歓迎夕食会の開催
黒船の軍楽隊 その5 オラトリオ「サウル」HWV 53 箱館での演奏会
黒船の軍楽隊 その6 下田上陸
黒船の軍楽隊 その7 下田そして那覇での音楽会開催
黒船の軍楽隊 その8 黒船絵巻 - 1
黒船の軍楽隊 その9 黒船絵巻 - 2
黒船の軍楽隊 その10 黒船絵巻 - 3
黒船の軍楽隊 その11 ペリー以外の記録 – 1 (阿蘭陀)
黒船の軍楽隊 その12 ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2)
黒船の軍楽隊 その13 ペリー以外の記録 – 3 (魯西亜)
黒船の軍楽隊 その14 ペリー以外の記録 – 4 (魯西亜の2)
黒船の軍楽隊 その15 ペリー以外の記録 – 5 (魯西亜の3)
黒船の軍楽隊 その16 ペリー以外の記録 – 6 (魯西亜の4)
黒船の軍楽隊 番外編 1 ロシアンホルンオーケストラ
黒船の軍楽隊 番外編 2 ヘ ン デ ル の 葬 送 行 進 曲
黒船の軍楽隊 その17 ペリー以外の記録 -7 (英吉利)
黒船の軍楽隊 その18 ペリー以外の記録 -8 (仏蘭西)
黒船の軍楽隊 番外編 3 ドラムスティック
黒船の軍楽隊 その19 黒船絵巻 - 4 夷人調練等之図
ファーイーストの記事
「ザ・ファー・イーストはジョン・レディー・ブラックが明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞です。
この新聞にはイギリス軍人フェントンが薩摩藩軍楽伝習生に吹奏楽を訓練することに関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。日本吹奏楽事始めとされる内容で、必ずや満足いただける読み物になっていると確信いたしております。
是非、お読みください。
・「ザ・ファー・イースト」を読む その1 鐘楼そして薩摩バンド
・「ザ・ファー・イースト」を読む その1-2 鐘楼 (しょうろう)
・「ザ・ファー・イースト」を読む その2 薩摩バンドの初演奏
・「ザ・ファー・イースト」を読む その3 山手公園の野外ステージ
・「ザ・ファー・イースト」を読む その4 ファイフとその価格
・「ザ・ファー・イースト」を読む その5 和暦と西暦、演奏曲
・「ザ・ファー・イースト」を読む その6 バンドスタンド
・「ザ・ファー・イースト」を読む その7 バンドスタンド2 、横浜地図
writer HIRAIDE HISASHI