黒船の軍楽隊 その1
15世紀から19世紀(江戸時代以前)に来日したヨーロッパやアメリカの大型船は、船体が黒い防水塗料(1)で塗られていたため「黒船」と呼ばれていました。特に1853年(嘉永6)にマシュー・ペリー提督(2)が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が開国を求めた「黒船来航」で広く知られます。
黒船とペリー来航
ペリー提督は1853年には蒸気外輪船2隻・帆船2隻の4隻、1854年には蒸気外輪船3隻・帆船6隻の9隻で日本に来航しました。なお蒸気外輪船での蒸気機関による運行で帆船の曳航などを行いましたが、外洋では帆走での運行も行いました。
このアメリカ合衆国艦隊の日本遠征はフィルモア大統領の命による「日本開国」と「米国との通商条約を結ぶ」任務を遂行するためのもので、交渉を有利に運ぶために大艦隊を編成して来日しました。
ペリーは「厳粛な儀式・賑やかな余興・美味しい料理とワインや蒸留酒」をも有利な外交手段として利用するためにイタリア人の楽隊長(3)やフランス人シェフ(4)、そして植物学者(5)画家(6) 写真家(7)を艦隊に加えました。
ちなみに、1853 年のマシュー・C・パー記述の「首里城訪問の物語(The story of Commodore Matthew C. Perry’s trip to Shuri Castle in 1853)」によると、彼らには月給25ドル(現在価格850ドル)が支払われていました。現在日本円ですと12万円5千円ほどの金額になります。これが事実ですと、ずいぶん低額給与に感じます。
1853年7月14日(嘉永六年六月九日)
1853年7月8日(嘉永六年六月三日)にペリーは浦賀(8)沖に停泊投錨し予備交渉の結果、7月14日(嘉永六年六月九日)に久里浜(9)に上陸し、フィルモア大統領の開国を促す親書などを浦賀奉行(10)に受け渡し、その回答を1年後に求めることを通告しました。
浦賀久里浜上陸の石版画
チャールズ・セバリン(6)作の石版画に浦賀久里浜上陸の様子が描かれていて、ベイヤード・テイラー(12)による解説も印字されています。
「提督の護衛を受け持つ将校たちは、桟橋から二列に並び、提督がその間を通り過ぎると提督の後方に整列した。提督は慣例に従った栄誉をもって迎えられ、行列は直ちに歓迎の場所に向かって出発した。提督の旗は屈強な甲板長が持ち、それを完全武装の長身で力強い2人の黒人船員が支えた。その後ろに、大統領の手紙と提督の信任状を緋色の布で包んだ豪華な箱に入れた2人の水兵の少年が続いた。ギレン少佐が指揮する運動能力に優れた海兵隊と、スラック少佐率いるミシシッピ号からの分遣隊が先導し、全艦の海兵隊が後方を固めた。」
なお、この絵の中心付近に描かれている演奏中の軍楽隊は、ベルが肩越しに後ろを向くオーバー・ザ・ショルダー・サクソルン(16)が10本は使用される金管楽器中心の26人程の編成に見えます。ここに描かれた場面では「コロンビア万歳(13)(図3」」が演奏(14)されていて、その中をペリー提督が行進しています。また、当時のアメリカ海兵隊が上陸する時には「ヤンキー・ドゥードル」が演奏されたと言われます(15)。
ちなみにペリー日本遠征随行記(S.ウィリアムズ17)著P.60)によると上陸したのは「全部で 15 隻のボートで、海兵隊員 112 名、軍楽隊員 40 名、士官 40 名、船員 100 名以上など、約 300 名」とあり、上陸軍楽隊の人員があきらかにされていますが、残念ながら演奏曲についての記述はありません。
コロンビア万歳とヤンキー・ドゥードル、そしてオールド・ハンドレット
また、7月10日の日曜日のサスケハナ号(18)では安息日の礼拝が英国国教会の司祭主導で行われました。そこでは軍楽隊の伴奏でのオールド・ハンドレット(OLD HUNDREDTH)(19)に合わせて「とこしえの御坐に」(Before Jehovah’s awful throne)が船員300人により歌われました。(図4)
1853年の黒船来航日程
7月2日
琉球出港
7月8日(嘉永6年6月3日)
17時に浦賀沖投錨 浦賀奉行所から与力 中島三郎助が派遣され乗船
9日(嘉永6年6月4日)
浦賀奉行所から与力 香山栄左衛門が派遣され乗船
武装短艇による浦賀湊内の測量
11日(嘉永6年6月6日)
蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピ号の護衛のもと江戸湾内に20キロほど侵入し武装短艇による測量実施
12日(嘉永6年6月7日)
幕府がフィルモア大統領からの文書を受け取ることを決定
14日(嘉永6年6月9日)
ペリー提督が久里浜に上陸し、幕府直轄部隊・川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩が警備のもと、浦賀奉行 戸田氏栄・井戸弘道がペリーと会見
15日(嘉永6年6月10日)
ペリー提督乗船のミシシッピ号が浦賀沖から江戸湾奥まで北上し幕府を威嚇
17日(嘉永6年6月12日)
黒船は小芝沖(現在の横浜市金沢区柴町海岸沖)から、琉球経由でイギリス植民地の香港に向う
【脚注】
(1)木材を空気に触れずに加熱して生成するピッチ(pitch)を樽や木造船の防水塗料として使用
(2)マシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry : 1794-1858)
(3)楽隊長 氏名不詳
(4)シェフ 氏名不詳
(5)植物学者 ジェームズ・モロー(D.James Morrow )
(6)画家 1853年来航チャールズ・セバリン(Charles Severyn 1820-?)、1854年来航ヴィルヘルム・ハイネ(Wilhelm Heine 1827-1885)
(7)写真家 エリフアレット・ブラウンJr.(Eliphalet Brown Jr.1816-1886) 画家・写真家
(8)神奈川県横須賀市東部にある浦賀水道に面する地域
(9)神奈川県横須賀市東部にある浦賀に岬を隔てて隣接する場所
(10)戸田氏栄(とだ うじよし1799-1858)、井戸弘道(いど ひろみち 不詳-1855)
(11)石版画
(12)ベイヤード・テイラー(Bayard Taylor 1825-1878) アメリカの詩人、文芸評論家、翻訳家、旅行作家
(13)1931年に「星条旗」が公式にアメリカ合衆国国歌と採用されるまで国歌として扱われていた曲のひとつ
(14)https://en.wikipedia.org/wiki/Perry_Expedition
(15) https://www.mamalisa.com/?t=es&p=2238&c=85
(16)オーバー・ザ・ショルダー・サクソルン(Over the shoulder saxhorn) ベルが肩越しに後ろを向く金管楽器
(17)S.ウィリアムズ(Samuel Wells Williams1812-1884)はアメリカ合衆国出身の言語学者・宣教師、ペリー艦隊通訳 ペリー日本遠征随行記「PERRY EXPEDITION TO JAPAN(1853-1854) 」
(18)サスケハナ号(Susquehanna1850-1883)は蒸気外輪フリゲート艦
(19)立命館言語文化研究26巻1号 American Music in Meiji Era Japan : Sondra Wieland HOWE
(図1) ペリー提督の日本への初上陸の様子を描いた石版画 : ニューヨークのジョージ S. アップルトン社出版のハッチ&セヴェリンによる手彩色石版画
(図2) 図1の中心部分に描かれた軍楽隊の様子
(図3) 1853年に出版された「ドッドワースのブラスバンドスクール」に掲載されている1曲 : ニューヨークのH.B.ドッドワース社が出版した80ページほどのブラスバンド教本には、11曲のスコアが掲載
(図4)「ドッドワースのブラスバンドスクール」に掲載されている1曲
(図5) マンチェスター・コルネット・バンドブック(Manchester cornet band books)より68番 : 米国ニューハンプシャー州マンチェスターの歴史を収集・保存・公開しているマンチェスター歴史協会 (MHA) が、公開している南北戦争(1861-1865)頃と推察される397曲の手描きパート譜集
(図6)図5をスコア化
他の黒船の軍楽隊シリーズ
黒船の軍楽隊 その1 黒船とペリー来航
黒船の軍楽隊 その2 琉球王国訪問が先
黒船の軍楽隊 その3 半年前倒しで来航
黒船の軍楽隊 その4 歓迎夕食会の開催
黒船の軍楽隊 その5 オラトリオ「サウル」HWV 53 箱館での演奏会
黒船の軍楽隊 その6 下田上陸
黒船の軍楽隊 その7 下田そして那覇での音楽会開催
黒船の軍楽隊 その8 黒船絵巻 - 1
黒船の軍楽隊 その9 黒船絵巻 - 2
黒船の軍楽隊 その10 黒船絵巻 - 3
黒船の軍楽隊 その11 ペリー以外の記録 – 1 (阿蘭陀)
黒船の軍楽隊 その12 ペリー以外の記録 – 2 (阿蘭陀の2)
黒船の軍楽隊 その13 ペリー以外の記録 – 3 (魯西亜)
黒船の軍楽隊 その14 ペリー以外の記録 – 4 (魯西亜の2)
黒船の軍楽隊 その15 ペリー以外の記録 – 5 (魯西亜の3)
黒船の軍楽隊 その16 ペリー以外の記録 – 6 (魯西亜の4)
黒船の軍楽隊 番外編 1 ロシアンホルンオーケストラ
黒船の軍楽隊 番外編 2 ヘ ン デ ル の 葬 送 行 進 曲
黒船の軍楽隊 その17 ペリー以外の記録 -7 (英吉利)
黒船の軍楽隊 その18 ペリー以外の記録 -8 (仏蘭西)
黒船の軍楽隊 番外編 3 ドラムスティック
黒船の軍楽隊 その19 黒船絵巻 - 4 夷人調練等之図
ファーイーストの記事
「ザ・ファー・イーストはジョン・レディー・ブラックが明治3年(1870)5月に横浜で創刊した英字新聞です。
この新聞にはイギリス軍人フェントンが薩摩藩軍楽伝習生に吹奏楽を訓練することに関する記事が少なくても3回(4記事)掲載されました。日本吹奏楽事始めとされる内容で、必ずや満足いただける読み物になっていると確信いたしております。
是非、お読みください。
・「ザ・ファー・イースト」を読む その1 鐘楼そして薩摩バンド
・「ザ・ファー・イースト」を読む その1-2 鐘楼 (しょうろう)
・「ザ・ファー・イースト」を読む その2 薩摩バンドの初演奏
・「ザ・ファー・イースト」を読む その3 山手公園の野外ステージ
・「ザ・ファー・イースト」を読む その4 ファイフとその価格
・「ザ・ファー・イースト」を読む その5 和暦と西暦、演奏曲
・「ザ・ファー・イースト」を読む その6 バンドスタンド
・「ザ・ファー・イースト」を読む その7 バンドスタンド2 、横浜地図
writer HIRAIDE HISASHI
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