クレージーキャッツという革命
クレージーキャッツが革命的なブームを生んだコミックバンドであった事は言うまでもない。
フランキー堺がアメリカの「スパイク・ジョーンズ&ザ・シティ・スリッカーズ」のコミックバンドを模倣して日本で定着させようとした試みは決して 成功したとは言えなかったが、フランキーのバンドの主要メンバーだった谷啓、桜井センリなどがハナ肇、植木等たちと合流してクレージーキャッツ結成に繋 がった。
クレージーはフランキーのシティ・スリッカーズが成し得なかったコミックソングの大ブームを作った。
しかし、そもそも、クレージーの大爆発は「スーダラ節」から始まるもので植木等単一の名義だった。ブームを仕掛けたのはクレージーではなく「スーダラ節」の作詞者、青島幸男と作曲者、萩原哲晶の両名によるものだった。
歌詞の意外性を言うなら青島革命とも言うべきものだったが、実のところは青島幸男の歌詞は意外でも突飛でもなくかなり凡庸な内容だった。
凡庸でなかったことといえば「凡庸で当たり前過ぎて誰も言わなかったこと」を空気が読めない振りをして言ってしまった凄さだった。これが青島革命の中核を成すものだ。
この革命はその後、多くの亜流を生むが成功はしなかった。成功したのは嘉門達夫位のものである。
青島革命が凄かったとは言え、それはクレージーキャッツという革命に繋がったとは言い難い。
何故ならクレージーの現象はあくまでも青島革命に乗っかっていただけだからだ。
青島のアイデアが凡庸であることは映画で証明されている。
「スーダラ節」と「ドント節」のヒットに目をつけた大映がすぐさま映画化して『スーダラ節・わかっちゃいるけどやめられねえ』と『ドント節・サラリーマン は気楽な家業と来たもんだ』を矢継ぎ早に公開したが、川口浩、川崎敬三が主演するこの映画は余りにも凡庸なただの真面目なサラリーマン映画だった。
青島革命をストレートに映画化しようとしても凡庸さをトレースするしかないために映画自体も凡庸になってしまう。
それ程に青島革命は凡庸なのだ。
その凡庸さは「誰も言わなかったこと」を真っ向、大声で叫ぶという滑稽さと意外さに支えられていたものだった。
歌に描かれるサラリーマンはどこにでもいる凡庸な人間だったからだ。
クレージーの革命は次の段階を待たねばならなかった。
その革命の端緒となったのは植木等を主役に抜擢した東宝のサラリーマン映画『日本無責任時代』とその続編『日本無責任野郎』だった。
この映画に登場する源等と平等(植木等)というサラリーマンは既存の倫理には完全に背を向けて、出世のためなら手段を選ばない、しかも無責任でC調を行って憚らないという今まで存在しなかったキャラクターだった。
世間一般には青島革命のサラリーマン像が無責任男と=で結ばれるかの様に理解されているが、そうではない。
青島のサラリーマンはどこにでもいる凡庸な人間であるのに対して、東宝映画の植木等は何処にもいない非凡なサラリーマンだったのである。
この二本の映画でクレージー革命が起こったと言っても間違いはないと思う。
つまり「スーダラ節」の青島革命を飛び越えてしまったのだ。
この映画以降、第三作目の『日本一の色男』以降は植木等のサラリーマンは前二作の無責任さを捨ててしまい努力型の凡庸な人物になってしまった。
しかし、クレージーキャッツが前面に登場する他の映画、例えば『クレージー作戦 先手必勝』以降のクレージー作戦シリーズは無責任ぶりが「日本一の~男」シリーズよりもずっと濃厚に残った。
青島革命を乗り越えた証は、『日本無責任時代』と『日本無責任野郎』で確立された無責任が青島にリターンして、青島自身が凡庸でないサラリーマンを書き始めたことだ。植木等の「無責任数え唄」などはその典型的な例だろう。
青島が演じた『いじわるばあさん』も無責任男の亜流的存在だ。
青島自体を巻き込んだ東宝映画が仕組んだクレージー革命(無責任革命と言うべきか?)は大衆に青島革命の時代の「お、そうだね!言えてるね!」から「そりゃないでしょ!でもすごいわね!」へと変化を遂げさせた。
青島がどこまで無責任を意識していたのかどうかは分からない。少なくとも初期の楽曲(青島革命時代)は全て内容が凡庸だ。青島が目指したものは無責任ではなく凡庸の滑稽さであったに違いない。
青島が取り組んだ無責任の色合いは「この際カアちゃんと別れよう」まで希薄なままだったが、クレージーにとっての実質の最終曲となる1986年の「実年行進曲」では元祖「スーダラ節」へと完全に回帰してしまった。
この時点では既にクレージー革命は終わっていたのだ。
当然、クレージーのブームは懐古趣味的な世界に囲い込まれることになり、晩年のクレージーキャッツには無責任さは皆無となり、逆に無責任を演じようとすると空回りするようになってしまった。
もちろん大衆は嘉門達雄で得られる凡庸さの滑稽よりもアナーキーな無責任さを求めていたのだが、この期待は既に時代と共に潰えさっていたのだ。
東宝のクレージー映画が終わったのは1971年頃だ。
同じ年、実質のブーム最後期の最後のシングル盤「この際カアちゃんと別れよう」がリリースされた。青島によるクレージー楽曲の最後の作品(後の「実年行進曲」を除外して)となった。
ここに来て青島革命もクレージー革命も終わりを告げた。
後は青島革命の源流へと押し戻され、その後のクレージーの楽曲は凡庸なものへと戻っていった。
しかし、「お、そうだね!言えてるね!」という手は既に古びてしまったのである。15年後の久々のメンバー曲「実年行進曲」もCMで繁盛に流れたのもかかわらず大ヒットすることはなかった。
クレージー革命を継承した者は果たしてあるのだろうか。
そこを考えると頭を抱えてしまう。
強いて言うならばクレージーの跡を継いだザ・ドリフターズの志村けん辺りだろうか。
青島革命を再現することは容易いのかもしれない。
しかし、クレージー革命を起こすことは尋常ではない。
この恐るべき革命を起こしたのが目立たない凡庸だと思われる映画監督の 古澤憲吾であり、脚本家の田波靖男であるという事実が凡庸を打ち破った革命の面白さではないかと僕はふと思うのだ。