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七人の侍と荒野の七人にみる日本人と戦争を考えるの巻
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映画『七人の侍』で剣客である久蔵(宮口精二)が野武士を一人で待ち伏せるシーンがある。野武士が現れるまでに、久蔵は足元に咲く花を愛でている。ちょっと、その花に触れてみたりする。それでも、隙を見せることはない。
これと同じシーンが『七人の侍』の西部劇リメイクの『荒野の七人』にも登場する。
久蔵にあたるキャラクターのブリット(ジェームズ・コバーン)が同じように盗賊を待ち伏せし、花に触れる。
ほぼ同じシーンだが、黒澤明とジョン・スタージェスの解釈が違う。
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つまり、久蔵が野辺の花に触れるのは「武士の誉れ」からくる余裕なのだが、ブリットのそれは、やってくる盗賊に油断させるトリックとして映る。
この二つの情景を見ると日本人とアメリカ人の違いが見えてくる。
ジョン・スタージェスが武士道や日本人を理解していないというわけではなく、久蔵のシーンをアメリカ人としての目から見るならば、これはとても理解に苦しむ精神世界の話になる。
待ち伏せている完全無欠のサムライが花に心奪われて無駄な行動をするというところに整合性がつかないはずだ。
わざわざ気を張り詰めた隙のない状態で、花に触れているという矛盾には合理的な計算や説明が必要となる。
しかし、合理では説明できない行動であることを日本人は知っている。
スタージェスはアメリカ人がこれを容易に理解できるように、アメリカ人の合理をここに持ち込んだため、罠という戦法で表したのである。
ここに見えてくるものは、日本人とアメリカ人の完全なディスコミュニケーションなのだ。
これは日米戦争でも明らかに表れていたポイントだ。
アメリカ人は同じ敵でも、ドイツ軍を相手にしたときには、理解がしやすい部分がある。
それは映画にも表れていて、フランク・キャプラが監修していた「なぜ我々は戦うのか」の一連のプロパガンダ・ドキュメンタリー映画では、連合軍の敵として日本とドイツとなんのために戦うのかが説かれた。
このなかで、ドイツ人に対してはナチスには批判的であっても、ドイツ人そのものへはある程度理解を示す態度が貫かれている。
ところが、日本と日本人に対しては天皇からゲイシャまで、理解不能な「野犬並みに危険な殺してもよい」存在であると説かれる。
もちろんここには白人とキリスト教徒が多いドイツ人と、黄色人種で信仰でさえ曖昧な日本人に対するレイシズムが働いていると考えるのは容易なことだ。
しかし、それ以上にアメリカ人には日本人の合理性では説明のつかない精神世界に対して理解できない不気味さが伴うのだ。
バンザイ突撃や玉砕、カミカゼの特攻攻撃。
およそ合理的でないやり方には全く理解し難いのだ。
戦争に勝てると信じて、勝てない方法ばかり採用する日本人の不合理にはアメリカ人は驚きとまどう。
まだ、ナチズムという熱病に冒されたドイツ人の方がアメリカ人には理解し易いはずだ。
ナチスドイツのドイツ人のなかでもナチズムの傾倒している人びとには不合理でないところがある。ヒトラーは合理的に戦える戦争も不合理な一種の精神論で戦おうとばかりしてきた。
それに合理を優先するドイツ軍の優秀な将官たちも抗うことができず、ドイツアメリカに負け続けることになる。
ヒトラーのこの一種の利敵行為は狂気のなせる技であり、この占星術的戦いは日本人の精神論とも違う。
こうした不合理な狂気からドイツ人を解放しようとするのがアメリカの合理主義である。
ドイツからナチズムさえ一掃すれば、ドイツは再び合理的な思考の国になるだろう。
ところが日本は違う。
神風が吹く、無批判でバンザイ突撃に応じる。物資がなくとも精神力で、工業力が10倍の国と戦っても勝てると信じている。
ドイツからナチズムを差し引いて合理的な思考のドイツ人は残せても、日本人から日本を差し引くことはできない。
日本人は野犬同様、撃ち殺してもしかたのない存在となる。
久蔵が野武士を待ち伏せる間に、ふと花を愛でようという武士の誉は、われわれ日本人にとっては美しく映る部分である。
よくよく、日本人を観察し学べばアメリカ人たちにも或いは理解されることであるのかもしれない。
しかし、大多数のアメリカ人にも、欧州の人びとにも、東アジアの人びとからも、理解し難いものだろう。
ブリットのように花の美しさにこころ奪われるガンマンなどいない。油断しているふりをして相手を打ち負かす、その方がわかり易いし合理的なのだから。
日本はアメリカとの戦争に敗れたのは、合理と不合理を計算しなかったのだということは、戦後よく指摘されることである。
しかし、合理など久蔵にとって計算外なのと同様に、日本人は合理を必要とせず、精神論で合理化を図ろうとする。
たった、ひとつの映画の短いシーンにも
日本人だけに理解できる美徳という名の不可解な弱点が潜んでいる。
これは自らを慰める「花」か、自滅へ追い込む「剣」なのか表裏一体のものなのだ。
わたしたち日本人はいまも久蔵であるのだろうか? それとも、戦後、ブリット化したのだろうか?
この答えは、国際社会のなかに生きる日本人という視点から見れば、おそらく簡単に得られるだろう。
われわれは、これからも野武士を待ち伏せながら、花を愛でていることだろう。
それを「花」にするか、はたまた「剣」にするかはわれわれ日本人次第なのだ。