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西部戦線異状なし

ちょっと、長い引用になるがVOGUEの日本版の新作リメイクの『西部戦線異状なし』の映画評論だ。

★以下VOUGUEから

そんな斜め読みはともかく、戦争映画として訴えるメッセージは、100年前の原作から不変である。タイトルの日本語訳、つまり邦題は今回も『西部戦線異状なし』だが、原題と比較すると少しニュアンスが異なる。ドイツ語では『Im Western nichts Neues』。直訳すれば「西部では何も新しいことは起こっていない」。そして英語では『All Quiet on the Western Front』。つまり「西側の最前線は完全に静か」

なぜ何も起こっていないのか。なぜ静かなのか。もはや生き残った者は誰もおらず、音を発しない死者のみだからだ。どちらに非があるという問題ではなく、戦争は空虚な静けさしか残さないとう事実は、時代が進んでも変わることはない。

★ここまで

ちょっと読んでいて、どうしてこういう解説になるのか、驚いてしまうのだ。

原題の意味にこだわるのはいいけど、そのあとがいけない。

『西部戦線異状なし』は学徒出兵のドイツ兵パウル一人を最初から最後まで捉えている戦争映画だ。原作も同じ。

パウルがとうとう戦場で呆気なく死んでしまったということに対して、
「西部戦線ではこの日はなにも伝えるべきことはない」という最後の言葉は、彼1人の命も戦争では取るに足りないということを示しているのであって、だから、そこに至るまでパウルの半生を映画の鑑賞者に付き合わせるわけだ。

戦争をパウルとともに体験してきた観客にとって、パウルに対する親和性は大きくなる。たった1人の死であっても鑑賞者にとってパウルの死は既知の一個の生命の消滅を見る衝撃になるのだ。

だからこそ「西部戦線異状なし」という言葉が生きてくる。

一個の生命に対する戦争という巨大な存在との対比、戦争は個人を見ることがない。
前も書いたけれども、反戦とはともかく国家、権力、戦争から個人を引き離して行く作業なのだ。

だからこそ『西部戦線異状なし』は1930年の初作から不朽の反戦映画として存在し続けている。

ルイス・マイルストン監督の1930年版のラストシーンを観てほしい。エンドマークに重なるのはパウルの仲間の死んでいった兵士が行軍しながら振り返って顔を見せて行くショットだ。
死んだ名も知れぬ死者の集団のことを言ってるのではない。観客が「知っている人々」個人という「ひとり」と戦争を対比しているのだ。
だからこそ反戦映画になるのだ。

また、
この映画評論のなかの「なぜ何も起こっていないのか。なぜ静かなのか。もはや生き残った者は誰もおらず、音を発しない死者のみだからだ。」の部分もおかしく思うわけだ。
戦場が静かなわけがない。戦死者が静けさを作るはずがない。そんなことどうでもいいくらいに戦争は人間の精神と生理が耐えきれないノイズを絶えず発し続けるのだ。

兵士が死に絶えて戦場が「異状なし」になるというこの解釈は戦争という本質がまるでわかっていないのではないか?

この映画を語るなら、もっと、ベーシックでいいから、本質を考えて皆に映画を伝えてほしいと思う。


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