首なし事件とわたしたちの狂気
【首なし事件とわたしたちの狂気】
「すすきの事件」と呼ばれている、62歳の男性がホテルで殺害されて首が切断されて持ち去られた事件、連日報道されていますね。
ずっと観察していますが、なんと申しましょうか、事件の異常なるゆえか、この話題は視聴者が求めるままに、どんどん娯楽として消費されていっているようにも思います。
警察もあまり多くを発表しないから、やたらと謎ばかりが生まれて、テレビのワイドショーでは、あれやこれやと推理がすすむ。
下手なテレビのサスペンスドラマや推理小説より「面白い」わけです。
いわば生きた探偵推理エンターテイメントとなってしまったわけです。
わたしはそんなメディアのあり方を批判するつもりはありません。
それよりもなぜ、ここまでこの事件が娯楽化するまでに注目されているかということを考えていたのです。
それは事件の異常性ですが、殺害者が、つまり首を切断して持っていったというポイントでしょう。
おそらく、62歳の男性が、刺殺されたり、撲殺されたりして首がつながったままだったとすれば、この事件はほんの数日間の報道で、大して話題にもならずに忘れ去られたに違いありません。
つまりは、大衆の関心は首を切断して持っていったという、異常行動の猟奇性にあるわけです。
ならば、首を切って持っていったという行動がそんなに重要なのかと思ってしまいます。
問題は人が殺されたということですね。
殺人罪と死体損壊では殺人の罪の方が重いわけですが、もし、首が切られていなかったら、まあ、世間ではこれほどの騒ぎにはならなかったでしょう。
つまり、この62歳の男性が「普通に殺された」のであれば、命が奪われたとしても、そう大して注目もされなかったわけです。
人を殺すということは、わたしたちは経験がなくとも、実行したかのように連想することができます。
殺し方もその術は知っている。
ナイフで刺す、鈍器で殴る、銃器で射殺する。そんなものは映画やテレビドラマで、もう数えきれないほど見ているし、何日かに一回はテレビやネットのニュースで「普通に殺された」話しはリアルでも転がっているわけです。
ましてや、ウクライナの戦争の報道映像では、双方の兵隊が自動小銃を撃っている、爆弾が炸裂する、ミサイルが着弾する……もう驚くほど人殺しをわたしたちは、連日見ているわけです。
ところが、殺された人間の首を切断するなどという作業の方法をわたしたちは知らないし、テレビや映画でもあまり見たこともない。そんなことに関してのノウハウを持っているのは医師か解剖学の専門家だけでしょう。
わたしたちには、首のない死体なんて見たこともないし、想像するだけでも気味が悪い。
わたしたちが首斬りに猟奇的なものを感じるのは、それ自体が日常化していない未知の存在だからでしょう。
つまり、珍しいからです。
ならば、殺人は?
なるほど、殺人は珍しいわけではないのです。
もう、どうでも良いくらいに殺人は日常化していることに気がつきます。
ウクライナ戦では数万人単位の殺人が繰り返されているというのに、わたしたちは死体の首を切ったという事柄だけに心を奪われてしまうわけですね。
首を切った犯人の行動は全くもって異常です。
ところが、その行動に嫌悪と恐怖を感じているわたしたちも正常と言えるのか? ここまで殺人に無頓着になっているわたしたちは狂気ではないのかという思いに駆られてきます。
戦争で無数の人が見るに耐えない死にざまをさらしている現実には狂気を感じない、わたしたちは、たった一人の人間の首が切られたことで、狂気だとかなんとか言いながらテレビに釘付けになっている。
首斬りよりも殺人に関心のない、そのことに気づかない、わたしたちの方がよっぽど狂っていると思ってしまいます。
そして、メディアの苛烈な報道とそれに関心を寄せている、わたしたち自身の目にも狂気が宿っているのだと思うわけです。
考えるに、人間とは怖い存在です。
だれがまともで、だれがまともでないのか?
いえ、わたしたち人間は延べて全てが狂人なのです。
この地球においての万物の霊長は他の種族から見れば互いに殺しあう上に、それに無関心でいられる狂った種属なのです。
どうすればいいか。
答えはわたしたち自身を見つめるほかないのでしょう。