「恋をするふたりのお約束」
先日、フランスのイラストレーターのレイモン・ペイネの「恋人たち」を主人公したアニメ映画『ペイネ・愛の世界旅行』を観ました。
バレンティノとバレンティーナの若い二人のカップルが、愛を探して世界中を旅するというアニメ映画です。
二人はヨーロッパからアメリカ、アジアも行きますが、そこには争いや差別ばかりが見つかるだけで、元のフランスへ戻ってきて「愛は世界中のどこにも見つからなかった」ということになります。
二人はがっかりするわけですけど、二人はしっかりと抱きあってベッドで眠るところで映画は終わります。
世界中で見つからなかった愛は実は身近な二人が持っていたということですね。
愛することってなんだろう?
その問いかけは恐らく古代から人は繰り返してきたのかもしれません。
恋ってなんだろう?
その問いかけも恐らく古代から人は繰り返してきたでしょう。
さてむずかしい問題です。
知人のある女性が、恋をする意味がどうしてもわからないと言っていました。
好きな人が出来てもあまりのめり込むことが出来ない。どこからが恋で、どこからが恋でないのかわからないと。
恋は確かに頭の中で定義したり、考えてわかるものではないでしょう。
愛を探したペイネの恋人たちと同じで、探してもなかなか見つかるものではありません。
簡単に言ってしまうなら、より恋に思えるものが恋であって、ただ感じる他ないのかもしれません。
ある人を好きになって、いつもその人のことが忘れられない。あー、これが恋だと思ってみても急に冷めたりすることもあるものです。
じゃあ、あれは恋ではなかったのか?
愛情があるかないかを確かめることも難しいことですよね。
ただ、もしも、あなたが、その人と触れあいたいと思ったときに、そこには愛情がきっとあるものです。
動物学者のデズモンド・モリスは『ふれあい』と言う本のなかで、人間も含めて動物は触れあうということが愛情を示したり感じたりする行為だと説きました。
私たちは触れるという行為が愛情であることを日常でも示しています。
例えば可愛いクマのぬいぐるみを店で見つけたら、思わず触りたくなったり、抱きしめたくなる。
それはぬいぐるみに愛情を感じるからです。
愛国者が国旗や祖国の大地にキスをしたりするような場面が映画に出てきたりしますね。
あれもふれあいという愛情表現なのですね。
動物の仲間同士の毛づくろいもそうなのですね。
バレンティノとバレンティーナのふたりが愛しあってふれあう最後の映画のシーンもまた然りです。
男女のふれあいがともすれば「よくない」と思われることもしばしばありますが、決してそうではないわけです。
相手を大切に想って手を繋ぎたいかな?そう思うのなら、ほら、そこには愛情が、恋が、見つかったことになるのですね。
ふれあいが、その衝動こそが、愛すること、恋することってなんだろうという、その答えということになりそうです。