戦争映画メモリアル:映画『眼下の敵』を分析せよ!
1957年のアメリカ映画『眼下の敵』(原題:"The Enemy Below" ディック・パウエル監督)は戦争映画の名作に数えられる一本です。監督のディック・パウエルは俳優でもあるのですが、数える程しかないパウエルの監督作品の中でも出色の作品でした。間違いなく代表作で最初で最初の傑作です。人気俳優であっても余りパッとしないロバート・ミッチャムの代表作でもあります。映画は第二次世界大戦中の大西洋を舞台に米駆逐艦とドイツの潜水艦Uボートとの戦いを描いています。米駆逐艦の艦長役のロバート・ミッチャムとドイツUボート艦長役のクルト・ユルゲンスの二大俳優の演技合戦が実に素晴らしいので すが、この二人の館長の知恵比べがこの映画の見所となっています。
『眼下の敵』を反ナチ映画だというとちょっと違和 感を感じる人もいるかもしれません。しかし、この映画はハリウッドの典型的な反ナチ映画の特徴を備えています。その特徴とはナチではないドイツ人は理性的 な善き人間として描かれるという点です。
ラストは戦いを終えた後、米駆逐艦の艦長とUボートの艦長は人道的な救命活動の末に友愛で和解する姿で幕を閉じます。米国人とドイツ人が和解に至るためにはアメリカ人にとっての対象であるドイツ人がナチであることは許されません。何故ならすべての映画においてナチは問答無用の絶対悪であるからです。
ですから、この映画のラストに至るためにはUボート側の艦長が徹底的に反ナチであることが描かれなくてはならないということになります。当然、米駆逐艦の艦長よりもUボートの艦長の方が複雑なキャラクターとなってきます。
映画を観ているとロバート・ミッチャム演じるマレル艦長が言っていることは殆ど重要な意味を持っていませんが、クルト・ユルゲンスのシュトルベルク艦長の行動や台詞は反対に重要な意味を持ってきます。
駆逐艦とUボートというこの二つの空間は単に敵国の軍艦同士という対立関係だけではありません。駆逐艦はデモクラシーの力でありUボートはナチズムの力であ るのです。この象徴的な二つの存在が対決している訳です。海上の米駆逐艦はデモクラシーの空間であり海底のUボートはナチズムの空間であるのです。
この二つの陣営の空間が対立して決闘するのが『眼下の敵』の骨格です。
ですからデモクラシーの代表である米駆逐艦が対決するドイツの潜水艦はナチズムの空間でなくてはなりません。単にドイツ人が乗り組んでいるドイツの潜水艦であってはデモクラシーとファシズムの戦いという図式が明確にならないからです。
U ボートの艦内には次のような標語が書かれていてカメラはそれを捉えます。
「総統の命令に我々は従います。」総統とはもちろんナチの独裁者アドルフ・ヒトラーのことです。
この潜水艦は総統のために遂行される命令によって行動していることが明確にされています。つまり潜水艦の内部はヒトラーが支配するナチズムの世界なのです。 そこに所属してる乗組員もナチズムの構成員となるのですがラストで米駆逐艦艦長とUボート艦長が友愛で結ばれるためにはUボート艦長はナチズムの構成員であってはなりません。ですから、Uボートのシュトルベルク艦長は艦内でナチズムへの抵抗をしている人物として描かれます。
シュトルベルクは「総統の命令に我々は従います。」という標語を忌々しく見つめます。自室へ戻る際にこの標語下をくぐるシュトルベルクはタオルで標語の「総統」と書かれた部分を覆い隠します。これはシュトルベルク艦長のナチズムへの抵抗です。総統のためではなく「我々は命令に従います。」なら彼は納得して潜水艦での戦いを行えるのだという無言の意思表示です。
「総統の命令に我々は従います。」の標語が再度画面に現れるのは駆逐艦の追跡をやり過ごすためにUボートが海底に沈んで待機している場面です。ナチズムに酔心 している若手の士官が標語の下でヒトラーの『我が闘争』を読んでいます。これをシュトルベルク艦長は苦々しく見つめます。
シュトルベルクは言葉ではナチズムやヒトラーを具体的に全く批判しません。行動や仕草でしかそれを示さないのです。 しかし、彼が明確にナチス批判を語る場面が登場しています。 タオルで「総統」という文字を覆い隠したショットの後、自室で親友である副長に語る場面です。 シュトルベルク艦長は第1次世界大戦以来の潜水艦乗組員です。彼は第1次世界大戦での潜水艦勤務を楽しい思い出として語ります。 当時の潜水艦は一度潜れば再び 浮上出来る保証のない危うい存在で、敵艦を発見しても艦長が敵艦との距離を瞬時に頭の中で計算して魚雷を発射させる、それが運がよければ当たる程度のものだったと楽しそうに語るのです。でも、現在のUボートは乗組員が機械に支配されそこにはMenschlichkeit(人間性)など介在していないのだと 表情を曇らせます。シュトルベルク艦長は現在のそういう戦いには栄光などないのだと語るのです。
つまり第1次世界大戦中の潜水艦には人間が存在したけれども、「総統の命令に我々は従います。」の標語に支配された現在の潜水艦には人間性など存在し得ないのだと言っているのです。
これは技術の進歩とかを問題にしているのではないのですね。明らかにナチズムは機械的に人間を支配し人間性を失わせているということを潜水艦という空間の比較で表しているわけです。
シュトルベルク艦長は直接ヒトラーやナチズムを批判しているわけではありませんが要はナチズムの戦いに栄光はないと言っているわけです。
シュトルベルク艦長が言葉でヒトラーやナチズムを批判して見せても面白くも何ともなかったことでしょう。それでは全く現実味がなくなってしまいます。
ナチズムの制限下で公然とナチ批判など危険で出来なかったことですからナチ社会の縮図としてのUボート艦内で公然なヒトラー批判など有り得ない訳です。何故ならUボートは海上のデモクラシーのシンボルとしての駆逐艦に対するファシズム(ナチス社会)の象徴ですから。
だからシュトルベルク艦長にとってのナチへの抵抗はタオルで「総統」という文字を覆い隠すこと位が限界である訳です。
映画としてこの考え抜かれた遠まわしな表現によるナチズム批判は実に見事です。
ここでまとめると『眼下の敵』におけるナチズムとは「総統の命令に我々は従います。」というスローガンの下に国民が人間性を介在を許されず機械的に支配さ れ、総統の教えである『我が闘争』を読んでいる世界です。そしてそれを苦々しく思っても決して口に出すことができない世界なのです。
米駆逐艦(デモクラシー)とドイツ潜水艦(ファシズム)の勝敗はラストの両艦相討ちという形で集結するのですが自爆したドイツ潜水艦乗組員は米艦艇に救助され、駆逐艦乗組員も潜水艦乗組員も最後には別の米駆逐艦艦上に一緒に乗っています。
つまりナチ社会の象徴だった潜水艦から人間だけが米駆逐艦へ取り込まれているのです。かつてナチの世界にいたシュトルベルク艦長以下ドイツ人たちはデモクラシーの世界としての米駆逐艦の艦上にいる訳です。
中でも最初から反ナチであったシュトルベルク艦長は米駆逐艦のマレル艦長と理解し合えるという訳です。
もはやナチス社会の縮図であった「総統の命令に我々は従います。」の標語に支配された潜水艦は自爆して海の藻屑となりました。
ナチズムから解放されたドイツ人たちのみがデモクラシーの社会(米駆逐艦)へ受け入れられるのです。
これは第三帝国の滅亡と西側ドイツ人の歴史的運命を活写しているとも考えられます。
しかし、これがハリウッドが戦中の名作反ナチ映画『カサブランカ』以来絶えず発信してきた反ナチ映画の特徴であり主張の典型的な形でもある訳です。
もし、大戦中に映画『眼下の敵』が存在したとしても何の違和感もなかったでしょう。
映画『眼下の敵』は戦争アクション、あるいはスペクタクル映画として捉えられがちですがお話してきたように実は政治性をはらみながら深く展開をしている作品です。
そういう点では『眼下の敵』は戦前から作られてきた反ナチ・プロパガンダ映画の直系の作品のひとつだと言えるかもしれません。
何よりもこの映画が優れている点はそれを全く感じさせないことなのです。
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