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ガンバルナー日記★第七回「映画『世界大戦争』の聖書を解読せよ!」
ガンバルナー日記★第七回「映画『世界大戦争』の聖書を解読せよ!」
2024年10月4日
あー、
ボクって無神論者なんだな。
でも、ボクは、
戦争映画の研究を生業にしているからね、
西洋の戦争映画には、キリスト教の聖書は、よく出てくるんだよね。
だから、
その部分は読んで色々と考えたりはするんだよね。
ここに挙げる聖書の一節は
日本の戦争映画、『世界大戦争』に出てきたものだよ。
ちょっとここからいろいろ考えてみようか。
何か大切なことも見つかるかもね
![](https://assets.st-note.com/img/1727978430-1N49oRcmZHCOpQAaDqMXkiFd.jpg)
監督:松林宗恵
映画の中に登場する
石焼き芋売りのおじさんがね、クリスチャンで、焼き芋の屋台に新約聖書を置いている。
焼き芋を買いに来た、主人公の一人の冴子(星由里子)が、その聖書を開いて、目に入った一節を読むんだよね。
それが、ここに挙げた「ヤコブの手紙 第4章」の部分なんだな。
汝らにうちにおける戦争と争いとは、いずこよりか来れる。
汝らの五体のうちに戦えるその欲より来たるにあらずや。
汝らがむさぼりて得ず、殺し嫉みてとることをあたわず。
争い戦いて得ることなきは、願わざるが故なり。
願いて受けざるは欲のために費やさんとして、悪しく願うが故なり。
この世に対する愛情は神の仇となるを知らずや。
然れば誰にもあれ、この世の友たらんとする人は皆、神の仇となる。
難しいねえー
言葉がねぇ。
古い文語体の訳だから
ちょっと意味が難しいよねえ。
ちょっと口語調にしてみよう。
あなたたちの戦争や争いごとはどこから来るのでしょうか? それはあなたたちの身体のうちに秘めた欲望からくるのです。
あなたたちは欲しがって、得ることができないのです。だから、人を殺したり奪ったりして得ようとします。
争って戦って、それでもなにか得ることができないのは、あなたがほんとうに得るべきものを得ようとはしていないからです。
ほんとうに得るべきものを得ようとせず、欲望のままになんとか手に入れようという悪い方向へ向かうからです。
このような世界へ愛着する者は、神の敵となることを知りません。だから、そうした誰もが、こうした世界を友とするなら、神の敵となるのです。
ふむふむ、
戦争や争いについて語っているんだな、この一節ってね。
ここからちょっと、読み取ってみよう。
つまり、
二つの世界があるってことだよね。
一つは「神さま」とここで呼ばれている存在の世界、
もう一つは、欲望のままに行動する人間の世界だな。
まあ、ボクはキリスト教徒じゃないし、聖書の勉強もしていないけれども、この二つの世界はなんとなくわかるような気がするんだなあ。
つまり、
人間のなかには二つの世界が存在して、
その片方が、
ここでいう「神さまの世界」ってことになるんだろうね。
一方は欲望のままに行動する「人間の世界」。
これはわかるが、
じゃあ、
ここで言われている、
片方の「神さま世界」はどんなもんなんだろう?
「欲望のままに貪らず、人を殺めず、奪うことをしない」
そういう世界なのだろうと
想像するわけだわ。
欲望のままに行動せず、
人の命も奪わない、
人のものも奪わない。
命を与え、
人に何かを与える世界
ということになるのかもしれないよなあ。
こと、
戦争について考えるなら、
まさにウクライナの戦争も人の命を奪い、人の土地や財産を奪うわけで、
それは欲望のままに
奪い取ろうとすることから出ているわけだ。
国家とか、
政治権力欲とか、
領土欲とか、
欲望の貪りなんだよな。
それが戦争
じゃあ、
逆に考えれば、
この行動とは逆に、
人に何かを与える行動であったなら、
それが平和
お互いに
与えあうならさらに平和だってことさ。
人間は生命を創造することができるし、
それは愛情の受け渡しからできることだよね。
少なくとも
そこには理想のようなものがあるよね。
愛情を与えあうことことから、
生命がうまれる。
生命はどんな科学を持ってしても
創造することなどできないのだからねえ。
でも、
そんな過程でも
もう一つの世界が頭をもたげてくるよね。
欲望で貪る世界。
欲望で相手を征服するとか、
支配するとか奪うとか、
そうしたやり方が出てくるわけだ。
この聖書の一節から、
やはりなにかヒントはあるのだと思う。
ぼくたちは
この二つの世界の間を
常に行ったり来たりしている。
どちらの世界も、
存在して、
どちらの世界にでも行ける。
「神の仇となる」瞬間など、
いくらでもあると思うんだよね。
そうならないようにするなど、
不可能に近い。
もちろん、
欲望で貪らず奪わない世界であれば、
平和だけれども、
そんな完璧な世界は、
人間が生まれ出た瞬間から
一度も実現はしていないんだもんねえ。
宗教も哲学も思想も、
その答えを探し求めて
数千年かけたって、
やはり、その答えは出てこないもんだな。
しかしだ。
知ると知らないとでは大きく違うんじゃないかと思うわけよ。
ぼくたちは、
少なくとも二つの世界の存在を知っていて、
そのどちらに自分が今、
立っているのかを時々は
見つめることはできる。
そうすれば、
奪い争う自分と、与えて穏やかなる自分のどちらが心地よいのかは、
選ぶことができるように思うんだなー。
「神さま」とここで呼ばれている存在は、
この地球の自然の法則であり、
何よりも自分自身なのではないかとボクは思うんだな。
「神さまを見るものはわれを見る」
ぼくはそう思うんだな。
戦争と平和という大きな問題から、
個人的な対人関係のレベルまで、
この二つの世界の
どちらをいかように選ぶかは、
その人自身が、
この世界の存在を
知っているかどうかにかかっているし、
それは自分自身で感じて、
考えることなんだと思うんだよ。
二つの世界をめぐって、
自分に問いかける。
当たり前のようだが、
これって、たいせつなことだと思うんだな。
ボクもキミも
きっと、どっちの世界へ傾くか?
いまも 明日も
ゆらゆら揺れているんだと思うよ。
それでいいじゃないかー
不完全だから
ボクたちは不完全な人間なんだからさ
今日も明日も
でも、
二つの世界があるってことをさ
知っているだけでいんだよねー
きっと
いいことあるよー
ガンバルナー
じゃあ、
また、明日
何か書くよー
じゃあね!