祖母の12人の子供
現在は三人の姉妹が残っています
母方の祖母、ばあちゃんは12人の子供がいました。
乾物屋?をやりながらよく育て上げたものです。
昔は「湯豆腐」が飛ぶように売れたとか・・・まじ?
12人のうち半分くらいは戦争で取られたって話はよく聞かされていました。
しかしばあちゃん・・・名前も「宗次」というのはよく聞きましたが、ほかは・・・母も何となくしか覚えていませんでした。
恩給はかなりもらっていたようで、長男宅で祖父母が引き取られて行ったときには、お金目当てだったみたいで、長男一家の車が全とっかえされたり、祖父母の部屋が増築されたりしていました(そこに閉じ込められてたに近かったみたいですが)。
私のうちに居ましたが、共働きゆえ祖父母の世話が困難というのと、近所の「長男が面倒みないんですね」という噂でうちから出ていきました。
私の記憶では、祖父母の恩給は月に80万、それが見る見るうちに無くなっていったとか。
長男宅でも世話が難しくなり、最終的には病院に。
毎週のようにお見舞い?に行きましたが、認知症で「誰でしたかね?」「ああ・・・すみませんねぇ」など世話をしてくれた祖父母が言うのが悲しくて悲しくて・・・
ばあちゃんは「どなた?もう馬鹿になってしもうて・・・はぁ・・・わからん」と悲しく毎回笑ってくれました。
そんなばあちゃんは大分の豊後高田の出身。
時々里帰りしていたようです。
が、ひどく馬鹿にされたことがあったとか。
私の中ではばあちゃんは怒ることなく、何があっても笑って我慢する、そんな姿しかなかった。
しかし、母と豊後高田に帰った時、都会に行って変わっただの、足袋をはいてないだか何だかで、馬鹿にされたことがあったので、頭にきてバッグの中にあったお金を池にぶちまけて「悔しかったら稼いでみろ」みたいな啖呵切って戻ってきたとか聞きました。
ばあちゃんの意地。
年を取って丸くなったのかな?
大腿骨を折ったときは高齢にもかかわらず手術、その後家のダイニングテーブルの周りを伝い歩きして「リハビリ」って・・・
昔の人は強かった。
コロッケがなぜかおいしかったんだよね~ばあちゃんが作るのは。
何かエキスが入っていたのでしょうか・・・
特老に入院していた時は床ずれがひどくてかわいそうでした。
毎週の差し入れの刺身とそうめんを楽しみにしていたばあちゃん。
亡くなってからずいぶんになるけど、小さい頃祖父母と過ごした時が一番楽しかった記憶。
風呂無し、銭湯。
トイレはぼっとん。
台所もコンクリだったような・・・
今日は懐かしさに浸りました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?