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【信じて義と認められる】241027礼拝メッセージ

「信じて義と認められる」
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イントロ
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聖書は言います。
創世記/ 15章 06節
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

今日のテーマは「義認」です。
本日は宗教改革記念礼拝ということで、私たちプロテスタントの教会が大切にしてきた「義認」について、3つのポイントで考えていきたいと思います。

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1つ目は、義認とは神の語りかけから始まる、ということです。

聖書は言います。
創世記/ 15章 01節
これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。

「これらのことの後」とは、アブラムがこれまで歩んできた信仰の経緯を指しています。
神は以前、アブラムに次のように語られました。
2:創世記/ 12章 02節
私はあなたを大いなる国民とし、祝福し/あなたの名を大いなるものとする。/あなたは祝福の基となる。

神はアブラムにこのように約束されました。
「神である私は、アブラム、あなたをこれから大いなる国民とする、あなたの子孫を地の塵のように多くする。あなたはその祝福の土台となる」
アブラムはこの神の約束を受けて、故郷を離れる決意をしました。
この時、アブラムはすでに75歳、奥さんのサライは65歳でした。

若い時期に移住するのとは違い、75歳から住み慣れた土地を離れることがどれほど大変だったでしょう。
親族や友人が住む地を後にし、アブラムは旅人として歩み始めました。
そこまでしたのは、ただただ神の言葉を信頼したからに他なりません。

アブラムはこの後、旅の中で様々な経験をしました。
神が介入して下さらなければ取り返しのつかない大きな失敗をしたことがあったり、
一方、神の支えによって戦いに素晴らしい勝利をしたこともありました。
直前の創世記14章では、アブラムが神の祭司メルキゼデクによって祝福を受けています。

しかしです。
それでもなお、待てどされど、アブラムと妻サライの間に肝心の子どもが生まれませんでした。
15章の時点ではおそらくアブラムは80歳以上、サライは70歳以上になっていたと考えられています。
生物学的には、これから子どもを授かることはほぼ不可能と思える状況でした。

おそらくアブラムは、神の約束に対して疑問を抱き始めたことでしょう。
「せっかく神の約束を信じてここまで来たのに、約束した子どもが未だ与えられていない。
本当に神は約束を果たしてくださるのだろうか?それとも、あれは私の聞き間違えだったのか?勘違いだったのか?
このまま神を信じて旅をし続けても、私に祝福を与えてくださらないのではないか。
むしろ私に祝福どころか呪いをかけているのではないだろうか」と。
子どもができないことは、当時の文化では神の祝福が欠けている、あるいは呪われていると見なされていました。
アブラム夫婦は長い間子どもがいなかったため、このような社会的なプレッシャーに晒されていたのです。

何年経っても子どもが一向に与えられないという現実は、神の約束を信じ続けようとするアブラム達にとってあまりにも厳しい状況でした。

そのような時、神はアブラムに「臨まれ」たのです。
これまでの記述では「主はアブラムに言われた」という表現が使われてきましたが、ここではそれよりも重みのある「臨んだ」という言葉が使われています。
「臨んだ」という言葉は、「出来事として起こった」という特別な意味の言葉です。
ただ「言った」よりもずっと強い、深い言葉です。
神ご自身が、神の約束に疑いをもち、信仰が揺ぎ始めているアブラムに直接現れて、語りかけて下さったのです。

そして、神はアブラムにこう言われました。
1節「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

アブラムが「神は私を約束を果たさず祝福してくれないのではないか、これからの旅路を守ってくださらないのではないか」と不安を抱いているところに神は言われのです。「恐れるな」と。
「私があなたの盾となり、あらゆる危険からあなたを守る。だから恐れる必要はない」。

私たちも、いつまで経っても期待通りに物事が進まない時や、問題がなかなか解決しない時、次第に神を疑いたくなることがあるかもしれません。
「私に祝福を与えると言われたのに、何一つ実現して下さらないではないか」と。
しかし、神はそのような私たちに、御言葉を通して、礼拝を通して神は語りかけられる。
「恐れるな、私があなたの盾である」と。

このように、神の語りかけは、神の約束を疑い、信じられなくなっている者にこそ届けられるのです。

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2つ目のポイントは、神を信じることで、義と認められる、ということです。

神はアブラムに「恐れるな」と語られた時、アブラムは今まで心に抱えていた不満や疑問を率直に神にぶつけました。

聖書は言います。
2:創世記/ 15章 02節
アブラムは言った。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。家の跡継ぎはダマスコのエリエゼルです。」
3:創世記/ 15章 03節
アブラムは続けて言った。「あなたは私に子孫を与えてくださいませんでした。ですから家の僕が跡を継ぐのです。」

アブラハは神にこう訴えたのです。
「神よ、あなたは私を守る盾であり、豊かな報いを約束されましたが、結局何もして下さらないではないですか。
待っても待っても、子孫は与えられていないじゃないですか。
どう見ても、私たちの間に子どもを持つには遅すぎます。
だから結局は、私の僕であるエリエゼルが跡を継ぐことになってしまうのですよ」

当時、子どもがいなければ僕が後を継ぐのが一般的でした。
アブラムは、神の「あなたに子孫を与える」という約束が果たされないことにずっと不満を抱いていたのです。
今まで彼は従順に神の言葉に従ってきましたが、心の奥底にはこのような感情を抱いていたのです。

では、神はこのアブラムの反応に対してどのように応えたのでしょうか。
アブラムを叱責したり、罰を与えたりしたでしょうか。

4:創世記/ 15章 04節
すると、主の言葉が彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が跡を継ぐ。」
5:創世記/ 15章 05節
主はアブラムを外に連れ出して言われた。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

神はこう言われました。
「僕であるエリエゼルがあなたの跡をついで、彼の子孫が増えるのではない。
あなたはまだ信じられないかもしれないが、これからあなたから生まれてくる子が跡を継ぐようになる」と。
神の約束に疑いを持ったアブラムに、もう一度明確に、あなたに子孫を与えるという約束を示されたのです。

そして、神はアブラムを外に連れ出し、こう語られました。
「天を見上げてごらん。
この満天の星を一つひとつ数える事ができるなら、数えてみなさい。
とても数えきれないはずだ。
あなたの子孫も、この星のように数えきれないほど多くなる」と。

皆さんは、満天の星を見たことがあるでしょうか。
現代では、町の明るい光のために、満天の星を見ることは難しいかもしれません。
私が「これが満天の星か」と感動したのは、昔家族旅行で沖縄の石垣島を訪れた時のことでした。
周囲には明かりがほとんどなく、あるのは手元の懐中電灯の光だけでした。
そのような本当に真っ暗な中で見た無数の星空は、まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じられました。

アブラムも、改めて数えきれない星空を見上げた時、その圧倒的な壮大さに心を奪われたことでしょう。
そして、人間の限られた思いや考えを遥かに超える神の偉大さを、改めて実感したに違いありません。
神はただ「光あれ」と言われただけで、この広大な宇宙と無数の星を創られたのです。

この星空を眺めながら、アブラムはこう気付いたのではないでしょうか。
「私は今まで、人間の常識で物事を考えていた。
だから、年老いた私たちには子どもが与えられないと思い、神の約束はいつまで経っても実現しない、と疑っていた。
しかし、神は、この満天の星空をたった一言で創られた。
そうであるなら、たとえ人の目には実現不可能に見えることであっても、神に成し遂げられないことは全く無い」と彼はそう確信したと思うのです。

だから、聖書は記します。
創世記/ 15章 06節
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

この「信じた」という元々の言葉は「アーメン」という言葉です。アーメン。
アーメンとは、「あなたの言葉は確かに間違いなく実現します」と、神の言葉をそのまま受け入れることです。
私たちがお祈りの最後に「アーメン」と言うのも、神が私たちの祈りを確かに聞いて下さったことを信じるからです。

アブラムは、神が星を地球を、天をも言葉を発するだけで生み出す力を持っているお方であるならば、「星のように子孫が増える」という約束の言葉も必ず実現する、と信じました。
だから、アブラムは神の御言葉は必ず成就するものとして、心から「アーメン」と受け入れたのです。

この時、主なる神はアブラムを義と認められました。
「義」とは、神との関係において正しく、まっすぐになったことを意味します。
本来、お互いのことを信頼し合っている状態というのが、義の状態、まっすぐな関係です。
しかし、アブラムが神を疑うことによってこのまっすぐな関係がこじれてしまい、曲ってしまったのです。不信感により曲がった関係になってしまいました。
しかし、神が再びアブラムに約束をして下さったことによって、彼は神の言われたことは嘘偽りが無く、神の約束は必ず実現することを改めて信じました。
だからこの時、神とアブラムとの関係がまっすぐに戻り、義となったのです。

「義」とされること、、、それはアブラムが良い行いや宗教的な儀式を熱心にしたからではありません。
彼はただただ「神の言葉は必ずその通りになる」と信じただけです。
しかし、この信仰によって神は、アブラムと正しく正常な関係になったことを認め、彼を受け入れて下さったのです。

これこそ、神の約束の言葉に対する私たち人間側の信仰と、この信仰によって築かれる神と正しい関係「義認」について、その土台となるものがここに示されているのです。

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アブラムは、星空を見上げて神の言葉を信じました。
では、今の私たちは何を見上げていけばいいのでしょうか。

3つ目のポイントは、義認はキリストの十字架と復活によって現された、という事です。

本日招きの言葉を読みました。
9:ローマの信徒への手紙/ 10章 09節
口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:ローマの信徒への手紙/ 10章 10節
実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。

神はアブラムに「子孫を星のように増やす」と約束され、そして、その約束通りアブラムの子孫は星空のように数えきれないほど増えていき、その中からイエス・キリストがお生まれになりました。
このお方こそ、神が約束された私たちの救い主です。
キリストは罪無きお方であるにも関わらず、十字架で死なられました。
しかし、その三日後に復活されました。
この出来事は、キリストが私たちの罪を全て背負って下さったことによって私たちの罪が赦され、神との関係が正しいもの、すなわち義とされる道が開かれたことを示しています。

だから、私たちが「このイエス・キリストこそ、私の救い主です」と口で告白し、心でキリストが三日目に甦られたことを信じる時、私たちは義とされるのです。
アブラムが星空を見上げて神を信じた時に義とされたように、今や私たちはイエス・キリストの十字架と復活を見上げて信じた時、義とされ救われるのです。
これが神の約束です。

ただ信じるだけで救われること、、、それは私たちの現実を見たら、とても信じられないように思える事があります。
隣人を愛せないときがある。
優しい言葉をかけるより、つい辛辣な言葉を言ってしまったり、友人の成功を素直に喜べない事がある、むしろ妬みを感じてしまうことがあるかもしれません。
そんな罪深い自分がいつの日か、聖い神の前に立って最後の審判を受ける時、本当に自分は赦されるのかと、不安を抱くこともあるでしょう。

しかし、先ほどの聖書箇所には「キリストの十字架と復活を信じる時、私たちは義とされ救われる」と神の約束が記されています。
だから、私たちはこの約束をただただ「アーメン」と信じるのです。
神が一度約束して下さるなら、どんなことがあろうと、たとえ私達の目にはどう映ろうとも、神の約束は必ず実現すると受け入れて歩んでいく、、、これが神の約束を信じ、義とされたキリスト者の生き方です。

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結語
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聖書は言います。
創世記/ 15章 06節
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

1つ目、義認とは、神の語りかけから始まる、
2つ目、神を信じることで、義と認められる
3つ目、神の義は、キリストの十字架と復活によって現された
という事です。

神は今日も言われます。
「日々の生活の中で恐れを感じている者よ。
私が今日もあなた達を愛していることを疑う者達よ。
そんなあなた達を救うために、私はアブラムの子孫からキリストを送った。
このキリストの十字架と復活を見上げよ。
これが、私があなた達を愛する揺るぎない証拠である。
私は、御子キリストの十字架と復活を信じる者を義と認め、必ず救う」と。

だからこそ、私たち教会はこの神の約束の言葉に「アーメン」と告白して歩んでいこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、アブラムがあなたの約束を信じられなくなったように、私たちも信仰生活を歩む中であなたの約束を疑いに陥ることがあります。
礼拝の場ではあなたの臨在を感じていても、日常に戻った時に様々な問題が重なり、また悲惨なニュースを見る時、「一体あなたはどこにおられるのか?」と疑う事があります。

しかし、今改めて私たちはあなたの御子イエス・キリストがなされた十字架と復活を見上げます。
この十字架と復活を信じる時、あなたは私たちを義とし、救うことを約束して下さっています。

どうか、私たちがあなたの約束を信じ、アーメンと告白するものとさせて下さい。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。

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