人目からの解放のやり方

営業マン時代、気づいたことがありました。
自分が予想以上に人の評価にとらわれていること、でした。

自分の中ではあまり人目というのは気にしないタイプと思っていたのですが、
売上報告で前回の人より上か下かで一喜一憂している自分は、まさに人目、人の評価を気にしていることがよく分かりました。

最初のころ、ある教会でいきなり本の紹介をふられ、やったところ、先生に「前任者よりうまくないね」と言われすごく落ち込んだことがあります。
売上が低いと、前回の人と比べると自分は価値が低いと思い傷ついてしまう。

そうなると人間全神経を使って言い訳を考えるようになります(笑)

きっと前回より今回は出席者数は少ないとか(笑)
前回爆買いした人が今日は休みだったとか
そして売上が多いとひとりドヤ顔をしている(笑)

そのようにして一つの数字に自分の価値観を左右されている姿をみるわけです。

そのようなことで悩んでた時、ある本に出会いました。
「偽りの神々」
です。

この本、あまり売れてない(笑)
テーマは偶像礼拝についてです。
ね、売れそうじゃないでしょ(笑)

でも内容はピカイチ。
特に1章は衝撃です。
アブラハムとイサクの箇所からの講解説教です。
簡単なストーリーを言うと、
アブラハムとサラという夫婦の間に、といっても100歳くらいの時に待望のイサクという赤ちゃんを授かった。

手塩にかけて育てたイサクが青年になった時、
神様がアブラハムの信仰を試すために、山に行ってイサクを生贄としてささげろ、と言います。
それでもアブラハムは神様に従い、イサクを殺そうとした瞬間、神様はそれを止め、彼の信仰を認め祝福した、というストーリーです。

普通この箇所は、
信仰のために我が子を捧げる勇気、信仰のあるアブラハムと、
わざわざ信仰を試すために子供を使って試す、ちょっとやりすぎな神様(笑)

で僕もそう思っていたのですが、
この本では偶像礼拝という切り口から見ると全く違ってくると。

当時長男というのは非常に重要な位置付けで、家を代表し、存続がかかるくらい重要であったと。
アブラハムがイサクを授かったのは年老いてから。
それはそれはもう可愛くて、僕たちが予想する以上にイサクを溺愛をしていた。当時は一族の存続がかかってたくらいですから。

もしあの時神様がイサクを捧げる事をアブラハムに試練としてしなかったら、アブラハムはイサクに依存し、健全な親子関係は築けなかったのではないか。
よく親が子に依存しすぎて健全な子育てができない、ということを聞くことがありますが、
アブラハムもイサクに対してそのような関係になっていたと。

そしてそこから救うために神様は、アプラハムにイサクを捧げるという試練を与えたのでは、と書いてありました。

それを読んだ時、私は
今まで、人の信仰を試すためにわざわざ子供を使う意地悪い神様のイメージから、
偶像にとらわれ、依存関係になっているアブラハムを救うためにあえて試練を与えた愛のある神様に変わったんです。

そして自分も、いま一番の関心事は人の評価になって依存してしまい、それによって心の平安がなくなっている、
だからアブラハムがイサク捧げたように、自分も、人の評価というものに囚われていることを認め、神様に告白しそれを手放した時、初めて人の評価かから解放されるんだ、と思わされました。

偶像礼拝を神様が禁止しているのは、私たちを束縛しようとしている意地悪い神だからではなく、
その偶像、たとえば人目、嫉妬、金銭欲、肉欲などから解放するための神からの愛の助言なのだ、と分かりました。

もちろん、一回やればあとは平安、というわけではなく、繰り返し試練にあい、試されますが、
今自分は何を一番重要としているか、そしてそれが神様以外には心に平安がない、ということを気づかされています。



今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)



長瀬雄大


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